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写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
枡形跡の松
ますがた
青森市
市立野内小学校
<奥州街道>
松並木
周囲2.7m程のものも含まれる
近代の可能性も?
歴史の道11p75
6本の松が残る
3
C
高田の題目塔道標
たかだ
青森市
石道標(自然石)
嘉永6(1853)
WEB
原位置?
(正面右端)「御国三拾三所 右 往還」、(同左端)「西国三拾三所 左 入内」/正面中央に「奉納 観世音菩薩納経塚」と陰刻/追分の松の下にある
1
C
妙見の追分道標
みょうけん
青森市
石道標(自然石)
文久4(1864)
WEB
移設
(正面右)「右 弘前」、(同左)「左 横内」/正面中央に「追分」と陰刻(津軽地方の特徴)
2
-
上十川の道標1
(上拾川の追分石)
かみとがわ
黒石市
(長谷沢神社・前)
石道標(尖頭角柱、石英安山岩)
高約107㎝,21㎝角
正徳4(1714)
市有形民俗
WEB/市教委
近接移設?
(正面)「從是、右ハ 長谷沢不動海道/左ハ 青森海道」/県内最古
1
C
上十川の道標2
かみとがわ
黒石市
(法嶺院・前)
石道標(自然石)
文化2(1805)
WEB
移設
(正面)「右 長谷澤/左 法峠道」
2
-
追子野木の供養塔道標
おっこのき
黒石市
県道286号
石道標(自然石)
文化6(1809)
WEB
移設
(正面右下)「右 十二河原」、(同左下)「左 弘前街道」/正面中央に「南無妙法蓮華経」、右面に「爲/國中卯辰両年餓死精霊廿七回忌追善」と陰刻/旧弘前藩領ならびに旧黒石領で確認された104基の飢饉供養塔の1つ)
2
C
高館の題目塔道標
たかだて
黒石市
石道標(自然石)
文化10(1813)
WEB
原位置?
(正面右)「右 法嶺」/正面中央に「南無妙法蓮華経」、その下に「村内/安全」と陰刻
1
-
豊岡の題目塔道標
とよおか
黒石市
(火葬場・下)
石道標(自然石)
天保14(1843)
WEB
移設
(正面左)「右 温湯道/左 山道」/正面中央に「南無妙法蓮華経」と陰刻
2
-
野添町の道標
のぞえ
黒石市
(黒石警察署・横)
石道標(自然石)
弘化2(1845)
WEB
移設
(正面)「右 青森/左 目内澤道」
2
C
薬師寺の石敢當
やくしじ、
せっかんとう
黒石市
(薬師寺)
<弘前市の慈雲院>
石敢當
(安山岩or玄武岩質安山岩)
高約92㎝,幅61㎝,厚54㎝
文政6(1823)
市有形民俗
日本の石敢當p12
移設
弘前藩医・三上隆圭(江戸からの知識導入により設置と推測)/「石敢當」と隷書体で印刻されている
2
B
中町の「こみせ」
なか
黒石市
<浜街道>
雁木(木庇)
宝暦13(1763)頃
国重伝建
市教委
保存状態良好(木造なので改修はくり返されている)
初代黒石藩主・津軽信英の町割りによって生まれた江戸期としては異例な広幅員街路に面した商家の全面に設けられた庇付きの歩道/国重文の高橋家の「こみせ」が最も古い現存事例で、これ以外にも江戸期由来の「こみせ」が残る
1
五所川原市
丸山溜池
まるやま
つがる市
溜池
寛文2(1662)
市教委
大規模な修復
5
狄ヶ館溜池
えぞがたて
つがる市
溜池
寛文12(1672)
市教委
大規模な修復
5
新堰
しんぜき
つがる市
岩木川
用水路
長約28㎞,幅約4m
嘉永5(1852)
WEB
十三湖に近い千貫崎の低湿地帯を開発するために弘前藩が開削
B
屏風山
びょうぶさん
つがる市
防風林
南北38km,
東西3~5㎞
天和2(1682)~
享保16(1731)
市教委
何世代にもわたる植樹(江戸期に植樹された木が特定できない)
南北38km・東西3-5km/松を中心に杉・雑木などを80万6千本植樹/その後、1855-74まで約178万本が植樹された
1
A
池ノ平一里塚
いけのたいら
十和田市
<奥州街道>
一里塚(2基)
西塚
:高約3.4m,直径約13.2m,
東塚
:高約3.6m,直径11.5m
慶長15年(1610)
県史跡/選奨土木遺産
市教委/歴史の道11p69
東塚の東側部分が一部国道により損壊(2基の塚が離れていて、一対という感じが薄い)/塚木なし
3
B
伝法寺一里塚
でんぽうじ
十和田市
<奥州街道>
一里塚(2基)
南塚
:高約2.4m,直径約11.6m,
北塚
:高約2.6m,直径約12.2m
承応元(1652)
県史跡/選奨土木遺産
市教委/歴史の道11p68/WEB
樹林の中に放置(一里塚と識別しにくい)/塚木なし
3
B
一本木一里塚
いっぽんぎ
十和田市
<奥州街道>
一里塚(1基)
西塚
:高約1.8m,直径約11.4m
江戸期
市有形/選奨土木遺産
市教委/歴史の道11p67/WEB
塚木(欅):枯死した状態で残存/塚も平坦化(駐車場の一部と化している)
寛文5(1665)の古絵図には「古もり」として記載されている
4
C
真登地一里塚
まとじ
十和田市
<奥州街道>
一里塚(1基)
西塚
:高約3.6m,直径約9.4m
江戸期
選奨土木遺産
歴史の道11p69
放置(一里塚と識別しにくい)
4
C
稲生橋・元石材
なおい
十和田市
時の鐘の土台石
/<稲生川>
石材
万延元(1860)
市立新渡戸記念館
大規模な改造
稲生橋の橋脚という説は恐らく間違い(石が小さすぎる)。橋の橋台か護岸、あるいは、護床工だった可能性も
4
-
鞍出山穴堰
くらで
十和田市
稲生川
素掘トンネル
(水路)
長2541m
安政5(1858)
市立新渡戸記念館/水土を拓いた人びと
坑口C化
施主: 南部藩士・新渡戸傳、技術者: 後藤村吉助/三本木原開拓
5
B
天狗山穴堰
てんぐ
十和田市
稲生川
素掘トンネル
(水路)
長1620m
安政5(1859)
市立新渡戸記念館/水土を拓いた人びと
坑口C化/天狗山トンネル入口は法量農村公園の中にある
施主: 南部藩士・新渡戸傳、技術者: 後藤村吉助/三本木原開拓/稲生川に2つあるトンネルのうち後に像つくられたもので、天狗山隧道は、稲生川第一穴堰とも言われる
5
B
幻の穴堰
まぼろし
十和田市
稲生川/3つの穴堰
素掘トンネル
(水路)
慶応3(1867)
市立新渡戸記念館
現在封鎖されている
稲生川上水に成功したあと、さらに第2次上水工事が着手されたこの時掘られた穴堰は、第1次工事の2つの穴堰に続く第3の穴堰にあたったが、慶応3(1867)未完成のまま中断された/この穴堰は、急斜面の断崖に横穴を点々と開け、崖の腹中で横穴同士を結ぶ水路を上流下流同時に掘り進んでいく方式で、非常に高度な技術を使っている
3
陸堰(稲生川)
りくぜき
(いなおい)
十和田市
稲生川
用水路
長7.2㎞
安政5(1859)
市立新渡戸記念館/水土を拓いた人びと
護岸C化/拡幅部はよく視認できる/吐く腹部は市街地部の右岸修景
施主: 南部藩士・新渡戸傳、技術者: 後藤村吉助/三本木原開拓/江戸期の稲生川は穴堰と陸堰だけで構成(開削部を陸堰と呼称)/十和田の町に入る部分で、流速を落とすため幅を2倍に拡幅している
3
A
稲生川上水
いなおい
十和田市
用水路
安政6(1859)
市教委
大規模な修復
安政2(1855)着工/都市部では防火用水
上り街道の松並木
のぼり
八戸市・
岩手/
二戸市
<登り街道(上り街道)>
松並木
江戸期
WEB
まばらに残るのみ
八戸藩主が参勤交代に使った専用道路/一里塚と松並木がきちんと整備された
4
C
市野沢一里塚
いちのさわ
八戸市
<登り街道(上り街道)>
一里塚(2基)
底面直径約10m,高さ2~3m
慶長9-承応2(1604-53)
県史跡
市教委/WEB
両塚現存(自然生えの木がそれらしく育っている)
現役の道路を挟んで一対で残っている
2
B
大森一里塚
おおもり
八戸市
<登り街道(上り街道)>
一里塚(2基)
高2~3m,直径約10m
慶長9-承応2(1604-53)
県史跡
市教委/WEB
両塚現存(丸裸)
現役の道路を挟んで一対で残っている
3
B
小峠一里塚
ことうげ
八戸市
<登り街道(上り街道)>
一里塚(1基)
慶長9-承応2(1604-53)
市埋文
市教委/WEB
道路改良に伴い移設/2基であることが分かりにくい
4
C
十文字一里塚
じゅうもんじ
八戸市
<登り街道(上り街道)>
一里塚(1基)
慶長9-承応2(1604-53)
県史跡
市教委
東塚のみ現存/放置(一里塚と識別しにくい)
4
C
天摩一里塚
てんま
八戸市
<久慈街道>
一里塚(1基)
慶長9-承応2(1604-53)
県史跡
市教委/歴史の道13p21,25
東塚のみ残存
3
C
是川の道標
これかわ
八戸市
<久慈街道>
石道標
安政3(1856)
歴史の道14p21,25
3段組台座上段/「右 八戸道/左 八幡通」
蛇口用水路
(下洗ルート)
へびぐち
(しもあらい)
八戸市
頃巻川
用水路
水路:約2㎞,
穴堰:長0.5㎞
安政7(1860)→直後に漏水(失敗)
市教委
取水口付近から穴堰までの窪み状の水路跡と穴堰が残る
施主: 元八戸藩士・蛇口伴蔵/火山灰層の地質による漏水と水量の少ない頃巻川を水源とした事により水量が少なく、失敗に終わった/文久元(1861)に階上岳の用水路事業にも着手するが、同様に失敗
2
C
大久喜の浜小屋
おおくき
八戸市
大久喜漁港
漁具小屋
(寄棟茅葺)
幅5.70m,厚4.75m
江戸末期
国有形民俗
WEB
保存状態良好
集落が海岸から離れている場合に、建てられた漁具置き場/全国的に見てもこのような小屋が残っているケースは極めて稀
1
A
高木一里石
(追分石)
たかき
平川市
一里石(自然石)
高107㎝,幅63㎝,厚46㎝
市教委
明治19(1886)再建
「北右 くろいし道」
3
C
光城の追分道標
こうじょう
平川市
平川市文化センター駐車場・横
石道標(自然石)
高74㎝,幅42㎝,厚23㎝
安政6(1860)
市教委
移設/3つにバラバラだったものをセメントで1つに修復している
(正面下部)「右 黒石/左 弘前」/正面上部に「追分」と陰刻(津軽地方の特徴)
3
-
李平の追分道標
すもも
平川市
石道標(自然石)
高53㎝,幅40㎝,厚32㎝
不詳
移設?
(正面中下部)「右 やま道/左 ぬるゆ道」/正面頂部に「追分」と陰刻(津軽地方の特徴)
2
-
広船金森山の石敢當
ひろふね、かなもりやま、せっかんとう
平川市
石敢當
(正三角柱型)
高81㎝,一辺35㎝の正三角形
幕末期
市有形民俗
市教委/日本の石敢當p18
昭和50頃近接移設/現在は山中で目的は感じられない/「孝」の字の下半分埋没/時期により、雑草に埋まる
建立:広船村外川家・8代目外川庸孝/村の安穏を祈るため⇔石敢當本来の目的とは異なる/正三角形断面は、近代を含めても、全国で唯一の存在
2
A
福田の石敢當
ふくだ、
せっかんとう
平川市
石敢當(自然石)
高70㎝,幅33㎝,厚30㎝
幕末期
市有形民俗
市教委/日本の石敢當p19
「當の字下半分」埋没/近接移設
建立:広船村外川家・8代目外川庸孝/村の安穏を祈るため⇔石敢當本来の目的とは異なる
2
B
渾神の清水
平川市
湧水
市教委
延歴年間(782-806)の東夷討伐の際、坂上田村麻呂が土地の神のお告げによりこの清水を発見し、目を洗ったところ眼病が治癒したと伝えられている
碇ヶ関街道の松並木
いかり
弘前市
<碇ヶ関街道>
松並木
明治期まで1000本→現存1本
元禄年間(1688~1703)
市教委
1本しか残っていない
弘前藩政時代を通じて維持管理が行われた
4
C
百沢街道松並木
ひゃくざわ
弘前市
<百沢街道>
松並木
長2㎞,樹齢300余年,黒松・赤松,樹高約25m,64本
江戸期
県天然
WEB
3ヶ所に分離して断存
3
B
高岡街道の松並木
たかおか
弘前市
<高岡街道>
松並木
赤松・間黒松,20本
江戸期
県天然
WEB
2ヶ所に分離して断存
3
C
五代の題目塔道標
ごだい
弘前市
石道標(自然石)
弘化2(1845)
WEB
原位置?
(正面下部)「右 百澤街道/左 目屋街道」/正面上部中央に「岩木山大權現」と陰刻
1
-
悪戸の追分道標
あくど
弘前市
石道標(自然石)
嘉永5(1852)
WEB
近接移設?
(正面中下部)「右 清水/左 相馬」/正面上部に「追分」と陰刻(津軽地方の特徴)
1
-
二階堰
にかい
弘前市
用水路
長8㎞
文禄3(1594)
岩木川右岸の水田の幹線用水路/春は桜の道で有名
3
B
大筒稽古星場
おおづつ
弘前市
弘前市りんご公園
(通称すり鉢山)
安政元(1854)
市教委
安政2(1855)の函館開港に伴う大砲、鉄砲の射撃演習のため、弘前藩によって築かれた
三沢市
赤川一里塚
あかがわ
むつ市
<田名部街道>
一里塚(1基)
長9m,幅約6.5m,高約2.7m
慶長15(1610)
市史跡
市教委
3
C
田名部の道標
たなぶ
むつ市
十七番観音そばの「安渡分かれ」<田名部街道>
石道標(駒型)
慶応元(1865)
WEB
原位置
(正面)「(左指差し)、右 大平道/左 田名部道」
1
C
恐山田名部参道の丁石群
おそれざん、たなぶ
むつ市
<恐山田名部参道>
町石 (58基)
安政6-文久2(1859-62)
WEB
昭和45に欠損丁石の補填(新旧混ぜて124基→造立当初のものは58基)/新旧の重複もある
恐山の一千年祭を祈念し、全国の信者からの寄進によって建てられたもの/田名部口(百貮拾四丁)から恐山山門(壹丁)まで、1丁ごとに建立/松前福山の天屋善兵衛が寄進した丁石が多い
2
A
下田一里塚
しもだ
(上北)おいらせ町
一里塚公園<北浜街道>
一里塚(2基)
南塚
:高1.8m,直径9.4m,
北塚
:高2.0m,直径9.4m
承応年間(1652-1654)
市教委/WEB
修復され、小公園として整備されている/塚木は補植
2
C
天間舘一里塚
てんまだて
(上北)七戸町
<奥州街道(松前路)>
一里塚(2基)
西塚
:高2.3m,直径12m
慶長15(1610)
県史跡/選奨土木遺産
WEB/歴史の道・奥州街道p67
塚木:西塚の欅はオリジナル
欅は樹齢300年以上/西塚の欅は、全国の一里塚の中でも現存最大級の巨木
1
蒼前平一里塚
そうぜんたい
(上北)七戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
直径約9.3m,高約2m
江戸期
県史跡/選奨土木遺産
WEB/歴史の道・奥州街道p70,71
街道の遺構も含めて残る
塚木はないが、旧街道の雰囲気を留めている
2
B
奥州街道
おうしゅう
(上北)七戸町
<奥州街道>
道路
長約700m(南北方向),道幅約3m(底部)
江戸期
歴史の道11p70,71
蒼前平一里塚と一体化して、歴史的空間を形成
夫雑原一里塚
ぶぞうはら
(上北) 東北町・
七戸町
<奥州街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
北側欠損/放置(一里塚と識別しにくい)/塚木なし
4
C
日本中央の碑
ひのもとちゅうおう
(上北)東北町
日本中央の碑保存館
<奥州街道>
高1.5m,幅70㎝
平安期
町有形
移設/昭和24(1949)発見
石の中央に「日本中央」の文字が刻まれている/坂上田村麻呂が朝廷の力を示すために造った
3
B
坊ノ塚一里塚
ぼうのづか
(上北)野辺地町
<奥州街道>
一里塚(2基)
高2.2m,直径約9m
慶長15(1610)
県史跡/選奨土木遺産
歴史の道11p71/WEB
西塚は3分の1損壊/塚間に旧道遺構も残存する
4
B
浜町の常夜灯
はま
(上北)野辺地町
常夜灯公園
<奥州街道(松前道)>
常夜灯(海運)
高3.80m
文政10(1827)
町史跡
町教委/町立歴史民俗資料館
常夜灯公園として保全整備を行う際に移設
(竿裏面)「金毘羅大権現」/建立: 地元の廻船問屋・野村治三郎、世話人:丸亀(香川)の廻船問屋・橘屋吉五郎/野辺地湊(盛岡藩の日本海航路の窓口の一つとして、大豆・鰯〆粕・銅・海産物などが積み出され、木綿・塩・砂糖・紙・日用品などが移入)に夜間入湊する北前船への目印となっていた
2
B
藩境塚
(四ツ塚)
(上北)野辺地町・
(東津軽)平内町
<奥州街道>/二本又川
土塚(4基)
直径10m,高3.5m
正保2(1645)以前
県史跡
町教委/野辺地町立歴史民俗資料館
公園整備されている/4つの塚の中央に木が植えられているのは誤解を招く
南部藩~津軽藩の境界/海岸沿いを通る奥州街道が藩境となる二本又川と交差する地点に、川を挟んで2基ずつ計4基が築かれた/「陸奥國津軽郡之絵圖」(正保2)に記載されているので、それ以前の構築/2年後の「陸奥國南部領國絵圖」(正保4)に記されていないのは、平内が津軽領になったことに対するわだかまりのためと解釈されている
1
A
(上北)横浜町
(上北)六戸町
道ノ下の一里塚
みちのしも
(上北)六ヶ所村
<北浜街道>
一里塚(1基)
安政3(1856)?
村教委/歴史の道17p6
形がはっきりとしていない/雑木林内/西塚のみ
通称:市柳の「二ッ盛」
4
-
久保一里塚
くぼ
(上北)六ヶ所村
<北浜街道>
一里塚(1基)
東塚
:高約3m,直径約6m
安政3(1856)?
村教委/歴史の道17p6
削平により半円形/畑地内
通称:「二ッ盛」
4
C
中山崎台場
なかやまざき
(上北)六ヶ所村
<盛岡藩>
台場
安政3(1856)?
台場辞典p114,116
土塁基部が残存
4
C
(北津軽)板柳町
廻堰大溜池
まわりぜき
(北津軽)鶴田町
土堰堤
堤長4178m,堤高7m
寛文4(1664)
WEB
昭和31(1956)他、何度も改修/岩木山(津軽富士)をバックに観光の対象に→平成6に完成した日本一長い三連太鼓橋「鶴の舞橋」で観光客急増(土木遺産の上手な活用法)
〔下の写真〕
施主: 津軽藩・4代藩主・津軽信政、施工: 普請奉行・樋口権右衛門/東側半分は皿池(堰堤長4㎞は日本一
〔上の写真〕
)/西津軽地方の新田開発のための溜池
3
大澗海岸の舫岩
おおま、
もやい
(北津軽)中泊町
舟繋石
中世?~近世~明治
町有形
町教委
大間海岸の海中や岸壁に12ヶ所現存
北前船を繋留したといわれている岩礁の穴
2
B
上高根溜池
かみたかね
(北津軽)中泊町
土堰堤
元禄年間(1688-1703)
町教委
堤防をC改修
5
大沢内溜池
おおざわない
(北津軽)中泊町
土堰堤
宝永3(1706)
町教委
堤防をC改修
5
深郷田溜池
ふこうだ
(北津軽)中泊町
土堰堤
文化13(1830)
町教委
堤防をC改修
同時期に5ヶ所の溜池を築造
5
宮野沢溜池
みやのさわ
(北津軽)中泊町
土堰堤
文化13(1830)
町教委
堤防をC改修
同時期に5ヶ所の溜池を築造
5
弥三沢溜池
やそうざわ
(北津軽)中泊町
土堰堤
文化13(1830)
町教委
堤防をC改修
同時期に5ヶ所の溜池を築造
5
鳥谷川
とりや
(北津軽)中泊町
運河
正徳4(1714)
町教委
水量を大幅に減少/C改修(半ば暗渠化)
5
新川
あらかわ
(北津軽)中泊町
運河
嘉永2(1849)
町教委
水量を大幅に減少/C改修(半ば暗渠化)
5
岩木川旧堤防
(北津軽)中泊町
岩木川
土堤防
天和2(1682)
町教委
大正時代河道改修に伴う新堤防築造により解体/一部が道路などに使われている
4
奥州街道の赤松並木
おうしゅう
(三戸)五戸町
<奥州街道>
松並木
1本
明暦3(1657)以前
町史跡
町教委
施主: 盛岡藩主・南部重直/明暦3の文書に記録があることから、それ以前の完成
4
C
鳥内沢
(惣林橋)
一里塚
とりないざわ(そうりんばし)
(三戸)五戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
西塚
:高約3m,直径約4m,
東塚
:高約2m,直径約4m
江戸期
選奨土木遺産
町教委/歴史の道11p67
東塚の東側部分が一部破損/一里塚であると識別しにくい
4
B
高山一里塚
たかやま
(三戸)五戸町・
南部町
<奥州街道>
一里塚(2基)
西塚
:高約2m,直径約5.5m
江戸期
選奨土木遺産
歴史の道11p67/WEB
西塚(南部町)は判然としない
西塚は南部町、東塚は五戸町に所属
4
B
中市用水堰
なかいち
(三戸)五戸町
五戸川
用水路
長12㎞
慶長8(1603)→元禄期(1688-1703)
町教委
昭和35(1960)部分的にC改修
3
天満下用水堰
(木村堰、五戸村用水堰)
てんまんした
(三戸)五戸町
五戸川
用水路
長9.9㎞
慶長4(1599)着手
町教委
平成3(1991)C改修
施工: 代官・木村杢助
5
中川原用水堰
なかかわら
(三戸)五戸町
五戸川
用水路
長6.2㎞
天文4(1739)前後
町教委
C改修(3面張り)
初期、後期の用水堰が設けられている
5
神明川原用水堰
しんめいかわら
(三戸)五戸町
五戸川
用水路
長約8㎞
安政3(1856)
町教委
昭和56(1981)C改修
施主: 南部藩士・藤田又右衛門/21年の歳月と多額の個人資産を蕩盡(別名・又右衛門堰)
5
蛯川用水堰
えびかわ
(三戸)五戸町
五戸川
用水路
慶応2(1866)以前
町教委
3分の2がC改修(3面張り)
提唱者: 北市川の重立人(おもだちにん)/慶応2の絵図に「北市川の用水」と表記
4
弥助堰
やすけ
(三戸)五戸町
五戸川
用水路
長約2㎞
不詳
町教委
2代目弥助/志手土間堰、さら堀とも呼ばれた/志手川堰に「むしろ樋」をかけるなど2代目弥助が自ら考案した工法を採用
浅水川用水堰
あさみず
(三戸)五戸町
五戸川
用水路
長約10㎞
明和年間(1764-1771)
町教委
C改修
5
駕篭立場一里塚
かごたてば
(三戸)三戸町
一里塚(2基)
西塚
:高約3m,直径約7m,
東塚
:高約3m,直径約5m
江戸期
県史跡/選奨土木遺産
歴史の道11p64/WEB
東塚一部破損
3
B
(三戸)新郷村
(三戸)田子町
高山一里塚
たかやま
(三戸)南部町・
五戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
西塚
:高約2m,直径約5.5m
選奨土木遺産
町教委/歴史の道11p67/WEB
西塚(南部町)は判然としない
西塚は南部町、東塚は五戸町に所属
4
C
蛇口用水路
(階上岳ルート)
へびぐち
(はしかみ)
(三戸)階上町
大渡川
用水路
文久元(1861))→直後に埋没(失敗)
八戸市教育委員会
一部の水路跡の底を側溝に利用/穴堰も残存
施主: 元八戸藩士・蛇口伴蔵/完成直後の大洪水により水路のほとんどが埋没し、失敗に終わった/安政7(1860)の下洗の用水路事業も失敗に終わっている/穴堰跡はコウモリ穴と呼ばれている
3
C
小舟渡台場
こみなと
(三戸)階上町
<八戸藩>
台場
長約90m,高3m
→一部のみ残る
寛政5(1793)
WEB
台場の大半は住宅地として消滅
異国船への警備強化のために築造された/浦賀への黒船の来航、鳥羽・伏見の戦いの際にも台場として重視された
4
C
黒岩台場
くろいわ
(下北)大間町
<北通道>
台場
嘉永年間(1848-1854)
歴史の道14p24,32
雑草に埋もれている
嘉永頃の設置とされるが、安政3(1856)の台場整理統合の対象となる
4
C
(下北)風間浦村
(下北)佐井村
(下北)東通村
(中津軽)西目屋村
赤石の追分道標
あかいし
(西津軽)鯵ヶ沢町
石道標
高180㎝,幅63㎝
安政2(1855)
町史跡
町教委
平成19にシリコン樹脂による石碑の補強
「右 大間越街道/左 赤石沢目通」/近代になって能代道完成に伴い加銘を加え再建立/大正4に「能代通道」と追刻
2
B
城の下井戸
しろのした
(西津軽)鯵ヶ沢町
井戸(木製)
江戸期
町教委
復元され使われている/復元の正確さは不明
四角井戸/他に神明宮下の井戸、浜町の井戸が同じく津軽百助信隆の掘らせたもの
3
C
坂本台場
さかもと
(西津軽)鯵ヶ沢町
<弘前藩>
台場
東西約60m,南北約35m,
西土塁
:高1m,
東土塁
:高2m
江戸以前
町教委
保存的管理がまったくされていない
地元では「デンバ」と呼ばれる
4
C
北金ヶ沢の追分道標
きたかねがさわ
(西津軽)深浦町
石道標(自然石)
天保14年(1743)
WEB
原位置?
(正面中下部)「右 大戸瀬/左 深浦通」/正面頂部に「追分」と陰刻(津軽地方の特徴)
1
C
(東津軽)今別町
平舘の松前街道松並木
たいらだて
(東津軽)外ヶ浜町
<松前街道>
松並木、防風林、防砂林
長約1.8㎞,松周囲2~6.33m,
1660~80年代
県史跡
町教委/WEB
旧道化しているが現役の道路/松喰い虫の被害を受けていない貴重な江戸期の松並木
施主: 弘前藩主・津軽信政/参勤交代道の並木を防風・防砂の目的も兼ねて植栽されたと推定/樹齢300余年の松並木/3世代に分けて植栽
1
平舘台場
たいらだて
(東津軽)外ヶ浜町
<弘前藩>
台場
弧長111m(前面),69m(後方),高2.1m
嘉永2(1849)
県史跡
町教委/台場事典p108
全国の台場の中でも、最高レベルの保存状態
設計: 貴田惟邦/わが国初の扇形をした西洋式台場/擬装のため松前街道松並木と連続させ、土塁に33本の松を植えた
1
A
浜子の奥州街道松並木
はまご
(東津軽)平内町
<奥州街道>
松並木
数本
嘉永年間(1848~1854)
歴史の道11p73
周囲2.3m程のものも含まれる
4
C
狩場沢の奥州街道松並木
かりばさ
(東津軽)平内町
<奥州街道>
松並木
20本程度
歴史の道11p73
左右に20本程度残る
国鉄狩場沢駅入口付近~掘差川方面への街道筋
3
C
藩境塚
(四ツ塚)
(東津軽)平内町・
(上北)野辺地町
<奥州街道>/二本又川
土塚(4基)
直径10m,高3.5m
正保2(1645)以前
県史跡
町教委/野辺地町立歴史民俗資料館/WEB
公園整備されている/4つの塚の中央に木が植えられているのは誤解を招く
津軽藩~南部藩の境界/海岸沿いを通る奥州街道が藩境となる二本又川と交差する地点に、川を挟んで2基ずつ計4基が築かれた/「陸奥國津軽郡之絵圖」(正保2)に記載されているので、それ以前の構築/2年後の「陸奥國南部領國絵圖」(正保4)に記されていないのは、平内が津軽領になったことに対するわだかまりのためと解釈されている
2
A
(東津軽)蓬田村
(南津軽)田舎館村
鯖石の追分道標
さばいし
(南津軽)大鰐町
石道標(自然石)
高140㎝,幅53㎝,厚47㎝
江戸期
町教委
移設?/石表面が一部剥離
(正面中下部)「右 黒石通/正面 碇ヶ関通/左 弘前通」(「正面」という標記は稀)/正面頂部に「追分」と陰刻(津軽地方の特徴)
2
C
(南津軽)藤崎町