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石川県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 金沢下口往還の松並木 かなざわ、
しもくち
金沢市 (北森本町・梅田町)
<金沢下口往還>
並木(黒松) 長約300m
(約10本)
江戸初期 県史跡 市教委/WEB オリジナルの松は数本程度で、残りは後世の補植 旧北陸道の面影を伝える数少ない風景の一つ 3
写真 並木町の松並木 なみき 金沢市 浅野川(橋場町) 並木(黒松) (13本) 慶長10(1605)以降 県天然 市教委/WEB オリジナルの松は1本のみで、後は大正15の補植 加賀藩三代藩主・前田利常の時代の植樹 3
写真 図月橋 とげつ 金沢市 尾山神社庭園
<金谷御殿庭園>
石アーチ橋(弓型) 長10.4m,幅1.5m
(3A)
享保19(1734)以降? 県名勝 市教委(石川県の文化財)/WEB 保存状態良好/通行禁止 多くの地元WEBサイトでは、図月橋の建造年代を寛永19(1642)頃とし、神社が建てられる以前の金沢城出丸金谷御殿の庭園橋と書いているが、すべて同じ出典と思われる/『城下町金沢学術研究1』の第1分冊(金沢市、2010、p.30には、「享保19(1734)に金谷御殿が建設され」とあるので、それ以前から庭園があったとは考えにくい→図月橋の建造年は享保19以降に下ると考えるのが妥当であろう/ただ、迫石が各アーチ3個という少なさは、九州の定番的な石アーチと比べれば異例であり、側壁の「薄い石材をまばらに埋め込んだ漆喰(?)壁」という構造も異例である。江戸時代に九州以外で造られた石アーチはきわめて少ないが、その中でもひときわ特異であり、「誰が、どうやって」という経緯について、今後の学術的な研究の成果を待ちたい 2
写真 十一屋町の地蔵道標
(十一屋大乗寺道標)
じゅういちや 金沢市 衹陀寺 石道標(自然石) 高160㎝,幅95㎝,厚65㎝ 享保3(1718)   歴史の道
3p63,121,125
移設(祠内) (正面左枠)「従是南 大乘寺道」/正面全面を光背型に削り込み地蔵菩薩立像(錫杖、蓮台)を陽刻 2
  長坂町の道標
(長坂大乗寺道標)
ながさか 金沢市 大乗寺山門
<大乗寺参詣道入口>
石道標 高122㎝,幅36㎝,厚33㎝ 文化5(1808)   歴史の道
3p122/WEB
移設 (正面)「從是南 大乘寺道」 2
  富樫の道標
(富樫大乗寺道標)
とがし 金沢市 (1丁目) 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高100㎝,幅29㎝,厚30㎝ 元禄14(1701)   歴史の道
3p58,122
ほぼ原位置 (正面)「従是東 大乗寺」、(左面)「これよりひ可し たい志やうしみち」 1
  二俣町の道標
(福光往来道標)
ふたまた 金沢市 (ナ) 石道標(青戸室石) 高165㎝,幅53㎝,厚30㎝ 江戸期   歴史の道
3p40,121
ほぼ原位置/C台石 「右 山ミち/左 福光道」/「ミち」の標記は江戸期 2
  田上の道標
(岡のみちしるべ)
たがみ 金沢市   石道標(青戸室石)   江戸期   WEB ダンプで破損→民家で保存→区画整理事業で原位置に復元 (右面)「右 ゆわく道」、(左面)「左 ともろ道」/建立時期不明→蓮如
(1415-99)との関係を指摘する説もあるが、門弟が建てたにせよ一般道標としては古すぎるので、市埋蔵文化センターの江戸期が正しいであろう
2
  中村用水 なかむら 金沢市・野々市市・白山市 手取川(右岸)
/手取川七ヶ用水
用水路 総延長23.56㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水(金沢市は分岐した下流部の位置のみ) 4
写真 大野庄用水 おおのしょう 金沢市 犀川(右岸) 用水路 約10.2㎞ 天正年間(1573-92)? 疏水百選 市教委/WEB 都心部は修景→金沢を代表する風景の一つ 金沢エリア(手取川扇状地は除外)で最も古い用水/2代目藩主・前田利長の家臣・富永佐太郎が開削したとされる/城の防衛や城下の防火・消雪・排水・木材の運搬などに重要な役割を果たした他、1400石の農地に水を供給 2
写真 中村高畠用水 なかむら、
たかばたけ
金沢市 犀川(左岸) 用水路 約4.5㎞ 天正年間(1573-92) or
江戸初期
  市教委/WEB 市街地部分は良好な景観 開削の経緯不明/大正7まで、中村用水(上記の手取川の「中村用水」とは別物)と高畠用水という2つの用水路→洪水の度に取水堰堤が流失していたため取入口を一本化 3
写真 鞍月用水 くらつき 金沢市 犀川(右岸) 用水路 約14.6㎞ 慶長4(1599) or
正保年間(1644-8)頃
疏水百選 市教委/WEB 都心部は修景→金沢を代表する風景の一つ 前田利家の庇護を受けていた元キリシタン大名・高山右近が構築、正保年間頃に油屋与助が改修したという説と、正保年間頃に油屋与助が開削したという説がある/城下の生活・防火用水、製油・精米業の水車動力用、ならびに、8000石の灌漑に利用された 2
写真 辰巳用水 たつみ 金沢市 犀川(右岸) 用水路(隧道、サイフォンに関しては下記参照) 長10.37㎞(雉)→
長11.03㎞(東岩)
寛永9(1632)→
寛永11(1634)二の丸→
寛政11(1799)古河口→
安政2(1855)東岩
国史跡
(上中流部など8.7㎞)/疏水百選
市教委/中部の土木史p38-45/WEB 辰巳用水遊歩道 加賀藩第3代藩主・前田利常の命により板屋平四郎が完成させたとされる用水路/表向きの理由は寛永8の大火、実際には、防衛力の強化なども絡んでいたとされ、幕府から疑われないよう当初の公式記録はない/最下部の石川門前土手から二の丸に16.2m水を上げるため、上流側(高低差26.5m)の石引水門まで逆サイフォンの木管を伸延/現在の東岩取水口は安政2(1855)に築造 2 写真
写真 旧・雉(鶏)取水口~末町地内間の隧道 きじ
(にわとり)
金沢市 辰巳用水 素掘トンネル
(水路)
現在長約4.1㎞
(当初長3.3㎞),
高1.8m内外
寛永9(1632) 国史跡 加賀辰巳用水東岩隧道とその周辺p33-40/辰巳用水土地改良区 保存状態良好(寛政期の隧道を2㎞現役使用→ツルハシの跡がよく残る) 辰巳用水は上流部のほぼ半分がトンネルという特殊な構造→わが国で初めて長い隧道を横穴工法を用いて築造した→平均約30mの間隔で掘られた横穴から上下流に掘り進めた(当初の横穴は139ヶ所、現存確認66ヶ所)/「雉」は「鶏」の間違い(天保5の『辰巳用水長巻図』に「鶏渕」と記載)→「雉」が通称として一般的なのでここでは併記する 1
  東岩取水口~雉(鶏)取水下連絡口間の隧道 ひがしいわ 金沢市 辰巳用水 素掘トンネル
(水路)
長約0.7㎞ 安政2(1855) 国史跡 WEB/市教委 一部に後年の改修が掘り下げ/ダム計画で水没の危機→取水口を上流側に移動し保存が図られた 雉(鶏)取水口→古河口取水口と順次上流側に移動した最後の取水口/内部の掘削が寛政期の隧道に比べ「雑」(土地改良区・談) 2
写真 辰巳用水の逆サイフォン石管 たつみ 金沢市 <辰巳用水> 石管
(逆サイフォン)
26.5m↓,16.2m↑ 天保14頃~嘉永3
(1843-50)に改修?
  市教委/中部の土木史p43/WEB 県立歴史博物館、兼六園、尾山神社、他各所(写真は 庄川水記念公園) 当初木管だったが、強度が弱く腐食しやすいことから石管に取り換えた(椎名道三が龍ノ口用水〔富山県参照〕で用いた石管と同型・同年代)/漏水防止のため継手部に松やにが使われた 2
写真 辰巳町の三段石垣 たつみ 金沢市 辰巳用水 石擁壁 長260m,高6-8m 江戸期
(江戸初期との説もある)
国史跡 市教委/辰巳用水にみる先人の匠p58 保存状態良好 軟弱な地層を押さえるため、また、また斜面裾の犀川の浸食から守るために築造された石積垣/『文化六年辰巳用水絵図』に描かれている→最下段の石垣に金沢城石垣だけに用いられた巨大な赤戸室切石があること等から江戸初期との説も 1
写真 大桑用水 おおくわ 金沢市 犀川(左岸) 用水路 長4.5㎞ 江戸初期?   WEB 修景もなく素掘りのまま→市街地としては稀 開削の経緯や建設年代不明/集落に入ると各家の用水端には洗い場が設置/素掘のトンネルもそのまま残る 1
  柳沢用水 やなぎさわ 金沢市 平沢川 用水路   寛文年間(1661-1672)?   WEB 手掘りの隧道が残る/C改修 史料がないため詳細不明→石高の変化から寛文年間と推測されている 3
  寺津用水 てらづ 金沢市 犀川(右岸) 用水路、素掘トンネル(水路) 長10.7㎞ 寛文5(1665)   市教委/WEB 遊歩道整備 天保3(1646)頃、浪人(?)・田中覚兵衛が藩に言上したのがきっかけとなり、寛文4(1664)着工、改作奉行の指揮により翌年完成(提案から着工まで20年近く流れたのは、全工程の6割までが隧道部となるため、工事の必然性が問題となったため) 3
写真 長坂用水 ながさか 金沢市 内川 用水路 長7.4㎞ 寛文11(1671) 市史跡/
疏水百選
市教委/WEB 山川分水槽~野田区画整理事業地の間は竹林を縫うように流れ、築造当時の面影をよく残す 奉行・戸田伊左衛門、吉田次右衛門、青木次右衛門(19C初の『加州郡方旧記』の記載)による藩の御普請/犀川からの取水が不可能だった台地の新田開発が進展 3
写真 法師の隧道 ほうし 金沢市 長坂用水 素掘トンネル
(水路)
上流部:長228.2m
下流部:長129.7m
寛文11(1671) 市史跡 市教委/
池本敏和
保存状態良好 上流部が1/496、下流部が1/648の緩勾配/上流区間に9ヶ所、下流区間に1ヶ所の横穴(掘削作業の区分化、ズリ出し、換気、明り取り)/ノミの跡の他、灯明皿用のタンコロ穴も随所に残る 1
  河原市用水 かわらいち 金沢市 森下川(右岸) 用水路 長10.2㎞ 貞亨2(1685)
→文化3(1806)改修
  WEB 昭和41水路全面改修 計画・施工:十村役・中橋久左衛門/完成までに約30年の難工事/水路の線引きに悩んで波自加弥神社に祈願→白狐の足跡が神社から山麓を迂回して隣の村へと残されていた→その跡に従って水路を掘ったとの伝承 4
  小橋用水 こばし 金沢市 浅野川(右岸) 用水路 長3.9㎞ 元禄年間(1688-1704)   WEB C改修(昭和32頃までは小橋町の各家の前に雁木があった) 金沢城下の防衛・都市用水として築造されたとされる用水(灌漑用水としても利用) 4
  中島用水 なかじま 金沢市 浅野川(右岸) 用水路 長5.3㎞ 元禄11(1698)   WEB C改修 金沢城下の防衛・都市用水として築造されたとされる用水(灌漑用水としても利用) 4 -
  泉用水 いずみ 金沢市 犀川(左岸) 用水路 長2.8㎞ 宝永2(1705)以前   WEB C改修 本流・支流とも細かく枝分かれして町なかを流れるが、元来は純然たる農業用水 4 -
写真 旭用水 あさひ 金沢市 浅野川(左岸) 用水路 長4.1㎞ 江戸期   WEB C改修/周辺は非農地化 小立野台地から続く鶴間坂と合流する辺り⇒一帯が竹やぶとなっており、江戸時代には文人墨客が好んできたと言われている 4
  樋俣用水 ひまた 金沢市 大野庄用水 用水路 長3.7㎞ 江戸期   WEB C改修 大野庄用水の分水/木材を木揚場まで運ぶ水上輸送路として利用したと言われる(灌漑にも利用) 4
  小坂用水 こさか 金沢市 金腐川(右岸) 用水路 長1.6㎞ 江戸期   WEB C改修/一部に石積護岸 原形は中世起源の可能性も/現行の用水について開削の経緯や建設年代は不明 3 -
写真 勘太郎川 かんたろう 金沢市 辰巳用水 用水路 長1.4㎞ 江戸期   WEB C改修だが独特の雰囲気 辰巳用水の分流/石引町地内に勘太郎という人物が居住していたことから名が付いたと言われている 3 -
  源太郎川 げんたろう 金沢市 辰巳用水 用水路 長2.0㎞ 江戸期   WEB C改修 辰巳用水の分水(→東外惣構堀→浅野川)/開削の経緯や建設年代は不明 4 -
写真 上の清水 かみ、
しょうず
金沢市 (粟崎町) 湧水 石組水槽:長116㎝,幅97㎝ 江戸期以前   歴史の道
3p12/WEB/
現地解説板
水槽は全て石 加賀藩主にも飲用されたとの伝承が残る/かつては周辺に数ヶ所湧水があったが、現在残るのはここだけ 2
写真 大清水(はなかけ清水) おお、
しょうず
金沢市 (笠舞) 湧水 石垣 江戸期   現地解説板 三角形の形態は恐らく当初からのもの/一部C改修 19世紀初頭の『加賀古跡考』→非常に冷たい湧水→冬季にこの水で口中をすすぐと、鼻が欠けるほど冷たく感じることから、「はなかけ清水」と呼ばれた、と紹介 2
写真 大野台場 おおの 金沢市 大野お台場公園
<加賀前田家>
台場   嘉永3(1850)   WEB(城めぐ) 大野お台場公園として整備/台場そのものは大砲の模型が置いてある程度 浅野川と河北潟の潟口に挟まれた場所に位置→水運の拠点を防御 5 -
写真 寺中台場 てらなか 金沢市 大野湊緑地公園
<加賀前田家>
台場(不整形のコの字形土塁) 長約17m 慶応2(1866)   台場事典/WEB(城めぐ) 復元整備されている 台場西方約700mの犀川河口付近を着弾地として想定/台場が内陸に位置するのは、艦砲射撃を避けつつ上陸してきた敵軍を迎撃するため 2
写真 大聖寺永町の道標
(永町道標)
だいしょうじなが 加賀市   石道標(凝灰岩) 高130㎝,幅29㎝,厚30㎝ 安政5(1858) 市有形 歴史の道
3p95,122
移設 (正面下部)「山中温泉道、是ヨリ/三リ」/正面上部に「やまなかや菊は/たおらじ/湯のにほひ」、右面に「納経所、國分山/瞖王寺」と陰刻/大聖寺城下で商売をしていた山中温泉の商人により建立されたとされる→温泉名を標記した道標はきわめて稀 2
  市之瀬用水 いちのせ 加賀市 大聖寺川(右岸) 用水路 長8.3㎞ 寛永16(1639)ほぼ完成→寛文5(1665)全通   WEB 地域の急激な発展により用水が汚染され老朽化も伴ってきたためC改修(昭和62) 寛永2(1625)、加賀藩郡代・吉田伊織が、山代領に新田を開くため久世左衛門宗吉に用水工事を命じたのが始まり/夜、ろうそくの明かりをたよりに全体の勾配を調べたとの逸話が残る 3
  矢田野用水 やたの 加賀市・小松市 動橋川 用水路 長約11㎞ 延宝8(1680)
→延宝9(1681)改修
  WEB 平成元C改修 大聖寺藩家老・神屋内膳が廣橋五太夫に設計させ、法皇山の隧道、小手ヶ谷の堀割、宇谷川の懸樋、那谷川の逆サイフォンなど多様な土工を僅か半年で完成/工事には囚人を動員(悲話が残る) 4
  御水道用水 おすいどう 加賀市 大聖寺川(左岸) 用水路 長約3㎞ 17世紀 or 18世紀初頭   WEB 大正初期改修/平成6全面C改修 初代藩主・前田利治か2代藩主・利明の時期に、藩主または藩邸と係わりのある用水として築造→後に灌漑用として利用/天保期の『志稿』によると灌漑面積は1600万石あったと伝えられる 4 -
  鹿ケ鼻用水 ししがな 加賀市 大聖寺川(右岸) 用水路 長約7㎞ 17世紀末~18世紀末?   WEB 昭和40-50C改修 鹿が通った跡を掘って造ったとされる水路/当時素掘りで造られていたが、末端に行くにつれ水が流路に吸い込まれて水量が確保できなかった 4
  紙谷用水 かみや 加賀市 大聖寺川(左岸) 用水路 長9.58㎞(第1期) 慶応元(1865)着工   WEB 岩盤を穿った水路や隧道がそのまま残る 施主:十村役・鹿野源太郎、肝煎・西野庄与門/険しい地形による難工事と、下流や山中温泉関係者の妨害を乗り越え、4000両を全額自己負担して明治2に完成 1
  長谷の大排水溝 ながたに 加賀市   排水路(水害) 長約3㎞ 天保7(1836)   WEB 現況不明 長谷一帯が低湿地で大雨のたびに冠水したため、長田佐兵衛が私財を投じ、資金がなくなると自ら土石を運んで開削した排水路  
  片野大池のトンネル かたの 加賀市 片野大池 素掘トンネル
(溜池排水)
長160m 延宝6(1678)   WEB 現況不明 砂丘が片野川の水を塞き止め周囲が水没→魚屋長兵衛が水を抜くためにトンネルを開削/片野大池は鴨池とも呼ばれ、ラムサール条約登録  
写真 宇野気の道標 うのけ かほく市 宇野気神社 石道標(凝灰岩) 高94㎝
(うち、台石6㎝),
幅25㎝,厚24㎝
天保14(1843)   歴史の道
2p26-27/
3p121
移設/中央下部で水平に折損→修復 (右面)「右 つばたみち」、(左面)「左 のとみち」/正面に「うのけほと/心のまこと通ふなら/未た乃もしき/道志るへな里」と道標の建立理由を説明/正面下部を長方形に浅く削り込み地蔵立像の陽刻を後年追加し、その左に金沢より」と陰刻 2
  白尾の題目塔道標
(木津道標)
しろお かほく市 七塚生涯学習センター 石道標(凝灰岩) 高72㎝,幅16㎝,厚18㎝ 嘉永7(1854)   歴史の
3p121
倉庫内保管(もと、木津)/2つに折損 (正面)「右 のと道/左 木津」/正面中央に「南無阿弥陀仏」と陰刻、右面に「行きまよふ 心の闇を てら寿らめ 弥陀の光を 道のしるべに」と陰刻 3 -
  高松の題目塔道標
(内日角道標)
たかまつ かほく市 旧高松第4保育園跡建物 石道標(青戸室石) 高92㎝,幅20.5㎝,厚20㎝ 安政5(1858)   歴史の道
2p26-27/
3p121
保管 (正面下部)「右 大崎江/左 舟場江」/正面上部を四角く削り込み「南無阿彌陀佛」と陰刻/原位置に木の複製が立つ 4
  長柄用水 ながら かほく市 大海川 用水路 長11.5㎞ 享保8(1723)   WEB/市教委 分水場は当時のまま/水路は全面改修 十村役・桜井平兵衛が私財を投じて開削/規模は小さいが、樋、土盛、隧道など多様な土木構造物が見られることが特徴 4
  新保谷の樋宝谷の樋 しんぼや、
ほうだん
かほく市 長柄用水 木樋 新保谷:長約30m 宝谷:長約13m 享保8(1723)   WEB/市教委     4
写真 盛土居 もりどい かほく市 長柄用水 盛土(水路) 長90m,高20m 享保8(1723)   WEB/市教委 樹木が密生して盛土部分が見えない/盛土の中央を一般道が切通しで通過しているが、盛土の切断面も灌木と雑草のため判別しにくい→水路は鉄橋化 谷を越える長柄水路を開削に当たり造成された土盛→日本では他に類のない規模 3
  箕打の水トンネル みうち かほく市 長柄用水 素掘トンネル
(水路)
長約60m,高2-2.7m,幅2m 享保8(1723)
→文化13(1816)改修
  WEB/市教委 昭和期にC吹付、水路をU字溝化 能登の宝達金山の坑夫(宝達者)が掘削と言われている 3
写真 安宅の関・跡 あたか 小松市   関所   12世紀後半? 県史跡 WEB 観光地化 平安末期に加賀の豪族・富樫氏が設けたと言われる関所/歌舞伎の「勧進帳」(文治3(1187)を時代背景とする義経伝説)であまりにも有名だが、関所の実在性は疑問視 3
  軽海用水 かるみ 小松市 梯川 用水路 長6.5㎞ 延徳年間(1489-91)   WEB 明治・昭和期にC改修 幹線2㎞強、南北両水路4.5㎞で構成される用水 4
  御茶用水 おちゃ 小松市 梯川 用水路 長約1㎞ 延徳元(1489)   WEB 明治期改修/昭和58改修・流路変更 度重なる洪水被害のため軽海用水から離脱し、村人たちは百万谷の臼ケ渕から御殿山の下まで掘割用水として築工し、能登の宝達山の坑夫を雇い入れて御殿山のトンネルを掘った 4 -
  御殿山隧道 ごてんやま 小松市 御茶用水 素掘トンネル
(水路)
長200m 延徳元(1489)   WEB 現況不明 能登の宝達金山の坑夫(宝達者)が掘削  
  矢田野用水 やたの 小松市・加賀市 動橋川 用水路 長約11㎞ 延宝8(1680)   WEB 平成元C改修 施主:大聖寺藩・神屋内膳 4
  宮竹用水 みやたけ 小松市・能美市 手取川(左岸) 用水路 幹線:長約33㎞,支線:総延長約62㎞ 正徳・享保年間(1711-6) 疏水百選 WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水と一本化し、逆サイフォンにより導水 手取川左岸一帯を灌漑する用水路/支線を合わせると100㎞近い大規模用水 4
      珠洲市                    
写真 殿様道の石畳 とのさま 七尾市   石畳道 長約500m,
幅約1.8m
文政10(1827) 市史跡 市教委/
現地解説板
保存状態良好(現存する「殿様道」は1.2㎞なので、石畳はその4割程度) 豊田町村・吉左衛門と浜田村・久七が郡奉行に願い出て藩費で築造/道路幅の半分程度に石畳を敷設/翌文政11に、幕府の巡検上使が通った他、嘉永6(1853)に加賀藩第13代藩主・前田斉泰が能登巡検をした際にも通った 1
  田鶴浜町の道標
(奥山峠道標)
たつるはま 七尾市 (七原) 石道標
(自然石、安山岩)
高115㎝,幅61㎝,厚27㎝ 文化10(1813)   歴史の道
4p216/
6p154
ほぼ原位置 (正面下部左隅)「左 あすみ」/正面中央上部に「南無地蔵大菩薩」と陰刻 1
  中島町笠師の道標
(笠師道標)
なかじま、
かさし
七尾市   石道標(凝灰岩) 高87㎝,幅29.5㎝,厚17㎝ 文政年間(1818-29)頃 市歴史資料 市教委/
歴史の道
4p221
移設 「右の方た つるはま道/みやの方 なかしま道」(「みやの方」=菅忍比咩神社) 2
  八幡町の道標
(八幡正八宮道標)
やわた 七尾市   石道標(自然石、安山岩) 高115㎝,幅70㎝,厚40㎝ 安政3(1856)   歴史の道
2p246/
4p217
ほぼ原位置 (正面)「八幡正八幡宮」、(台石正面)「従是 八丁」 1
  多根の地蔵道標
(石動山多根口道標)
たね 七尾市 (イ) 石道標(舟型、砂岩) 高77㎝(うち、塔身28.5㎝),
幅70㎝,厚40㎝
安政3(1856)   歴史の道
4p217
0m移設、光背頂部が欠損 (光背右上)「右 石動山 道」/光背中央に地蔵座像(蓮台)を陽刻/台石正面に「為二世安楽也」と陰刻 2
写真 舟尾川のトンネル(マンポ) ふなお 七尾市 髙ノ山 分水(放水路)、
トンネル(2本)
(大マンポ)長45m,高約5m,
(小マンポ)長65m,高3.1-3.5m
弘化年間(1844-48) 世界農業遺産 市産業部世界農業遺産推進総室(田鶴浜町の歴史・上p166-168)/岩屋隆夫 保存状態良好 企画・施工:舟尾村肝煎・大橋左近四郎/新田開発を目的に、二宮川から分派して七尾湾に向かって丘陵下を貫通して造られた全長約700mの放水路(下駄船を使って掘削された)のトンネル/大小2本あり中央部で曲がっている→理由不明→増水時に、大マンポのカーブにより流速を下げ、小マンポから緩やかに水を逃がすためと推測されている/舟尾・奥原村新開願の古文書(安政6)に「二ノ宮川御付替舟尾村右新開所江川尻取込被成候ニ付、私共村方等御田地川土居ニ相成」と記載 1
  深見のマンポ ふかみ 七尾市 田ノ浦新開 素掘トンネル
(水路)
長約300m 江戸期? 世界農業遺産 市産業部世界農業遺産推進総室(田鶴浜町史p250) 保存状態良好 『田鶴浜町史』によれば、山沿いの土地の新田開発にはマンポがよく使われたとあるが年代は不詳/湯川地区のマンポは明治30頃なので深見地区のマンポも近代かもしれない 1
写真 漆沢の池 うるしざわ 七尾市 (袖ケ江町) 溜池 堤長240m,
堤高6.1m
享保10(1725) 世界農業遺産/
ため池百選
WEB 昭和30頃に上流側C護岸化 十村役・北村平内安仲が「うるし沢」を「はがね土」(止水コアに良質粘土を用いる)工法を用いて締め切り、能登最大級の溜池を築造 2
  漆谷池 うるしだに 七尾市 (中島町) 溜池 堤長25m 文政8(1825)   市教委 明治43大改修   3 -
  野木谷内堤 のぎやち 七尾市 (中島町) 溜池 堤長50m 弘化3(1846)   市教委 大規模な修復   3 -
  牛ケ谷堤 うしがたに 七尾市 (下笠師) 溜池 堤長50m 安政年間(1854-59)   市教委 昭和初期決壊により大規模修復   4 -
      野々市市                    
写真 吉光一里塚 よしみつ 能美市 <北国街道> 一里塚(1基) 南塚:高約1.5m,長径約6m、短径約4.5m,塚木:榎 慶長9(1604)以降 県史跡 現地解説板/WEB 南塚の塚木:オリジナルの可能性大/明治14の手取川の洪水で北塚が流失 県内に唯一残る一里塚/吉光、粟生の境に築造 2
  和佐谷町の道標
(峠口橋詰道標)
わさだに 能美市   石道標(凝灰岩) 高60㎝,幅24㎝,厚23㎝ 嘉永6(1853)   歴史の道
3p122
原位置 (正面)「左 谷道」、(右面)「右 大口道」 1 -
写真 二ヶ用水隧道 にか 能美市 <ニヶ用水> 素掘トンネル
(水路)
長389.6m 弘化4(1847)   西北陸土地改良調査管理事務所/WEB 保存状態良好だが非現役 施工: 越中富山の熊林村の椎名道三/天保・天明の飢饉を受けて二ヶ用水を開削→現在は下記の「宮竹用水」に統合/用水隧道としては天井が高く、明かり取りの窓が多い/「窓」は洪水時の余水吐けの役目も持っていたとされる 2
写真 宮竹用水 みやたけ 能美市・小松市 手取川(左岸) 用水路 幹線:長約33㎞,支線:総延長約62㎞ 正徳・享保年間(1711-6) 疏水百選 WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水と一本化し、逆サイフォンにより導水 手取川左岸一帯を灌漑する用水路/支線を合わせると100㎞近い大規模用水 4
  峨山道 がざん 羽咋市・輪島市   道路 長約52㎞ 暦応3(1340)   輪島市教育委員会 昭和61修景整備/春と秋に峨山禅師の遺徳を偲び峨山道巡行を実施 曹洞宗・總持寺(輪島市)と永光寺(羽咋市)を結ぶ山道/暦応3から両寺の住職を兼ねていた峨山韶碩禅師が20年以上にわたって往来したと言われる(毎朝未明に永光寺の朝課を勤め、山越えした後、總持寺の朝の読経に間に合わせた) 2
  柴垣町‎の題目塔道標
(滝谷杖塚道標)
しばがき 羽咋市 <能登街道> 石道標(自然石) 高85㎝,幅37㎝,厚26㎝ 正徳6(1716)   歴史の道
4p217,222
原位置(向きを変えた) (正面右)「右 八幡宮道」、(同左)「左 □□□」/正面中央に「妙法蓮華経」と陰刻 1
写真 本江町の道標
(永光寺道標)
ほんごう 羽咋市 (寺境)<能登街道> 石道標
(駒型、凝灰岩)
高154㎝(うち、台石26㎝),30㎝角 宝永6(1709)   歴史の道
4p217,222
原位置 (正面)「洞谷山永光寺道」、(左面)「是より 八町半阿里」 1
写真 富樫用水 とがし 白山市・野々市市 手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長20.58㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB 一部昭和30頃に石積水路化、その他はC改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
  富樫用水の隧道 とがし 白山市 富樫用水 素掘トンネル
(水路)
長約300m 江戸末期   手取川七ヶ用水土地改良区/WEB 非現役/入口は埋没、出口も締め切られている 施工:枝権兵衛/夏に水が枯渇する富樫用水へ安久濤ヶ淵から取水するために開削されたトンネル/この取水部に「明治期の大改修」で7用水合同取水口が設けられたため、七ヶ用水改修近代化の始まりとされる 4
写真 郷用水 ごう 白山市・野々市市 手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長25.17㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
写真 中村用水 なかむら 白山市・金沢市・
野々市市
手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長23.56㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
写真 山島用水 やまじま 白山市 手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長34.90㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB 約5㎞を修景整備/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水/七ヶ用水の中で最長 4 写真
写真 大慶寺用水 だいけいじ 白山市 手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長13.52㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
  中島用水 なかじま 白山市・
(能美)川北町
手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長6.81㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
  新砂川用水 しんすながわ 白山市・
(能美)川北町
手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長13.09㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
  ミンジャ(明谷用水)   白山市 (白峰地区) 上水路   元和3(1617)頃   市教委 昭和30代に簡易水道が引かれるまで現役/暗渠化し流雪溝として利用/開水路として残る部分もある 土豪・加藤籐兵衛が私費で整備/名谷川左岸にあるミンジャ通水を記念した銘文に「元和3」とある→江戸初期の整備 3
  三ケ用水 さんが 白山市   用水路 長4.5㎞ 元禄年間(1688-1704)?   WEB 大正13C堰堤化/昭和60改修 河合、瀬木野、広瀬の3集落が恩恵を受けていた用水 4
  払谷用水 はらいだに 白山市   用水路 長1.6㎞ 寛延3(1750)   WEB 現況不明 尾添村が寄合いで決議し、三津谷の弥四郎の指揮の下で築造した水路   -
  火除け地 東まねき ひよけ 白山市 (東一番町・東二番町) 防火帯(空き地) 長約30m,幅約8m 江戸期?   歴史の道
1p97
溜池は地下防火用水として空き地は火の見櫓を経て駐車場として利用 延焼防止のため道の両側に設けられた空き地(フェーン現象でよく火災が発生したため)/溜池と旅人の休憩所が設置されていたとされる 3
  火除け地 西まねき ひよけ 白山市 (安田町) 防火帯 長約30m,
幅約12m
江戸期?   歴史の道
1p97
南側は宅地化、北側は駐車場として利用 延焼防止のため道の両側に設けられた空き地(フェーン現象でよく火災が発生したため)/溜池と旅人の休憩所が設置されていたとされる 3
  富樫用水 とがし 野々市市・白山市 手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長20.58㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB 一部昭和30頃に石積水路化、その他はC改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
  郷用水 ごう 野々市市・白山市 手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長25.17㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
  中村用水 なかむら 野々市市・金沢市・白山市 手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長23.56㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
  峨山道 がざん 輪島市・羽咋市   道路 長約52㎞ 暦応3(1340)   市教委 昭和61修景整備/春と秋に峨山禅師の遺徳を偲び峨山道巡行を実施 曹洞宗・總持寺(輪島市)と永光寺(羽咋市)を結ぶ山道/暦応3から両寺の住職を兼ねていた峨山韶碩禅師が20年以上にわたって往来したと言われる(毎朝未明に永光寺の朝課を勤め、山越えした後、總持寺の朝の読経に間に合わせた) 2
写真 曽々木の岩崖道 そそぎ 輪島市   断崖路 長約400m,
幅約50㎝
寛政4(1792) (国名勝) WEB 明治期に隧道を開削したため、良好に残るが歩くのは危険/珠洲市側は遊歩道化し痕跡なし かつて、能登半島の最北端に突き出た岩倉山沿いの「ヒロギの嶮」は、道なき道で転落死が絶えなかった。みかねた禅宗寺院・海蔵寺の八代目の住持・麒山瑞麟和尚が、托鉢行脚し浄財を集め、工事の先頭にも立ち、13年をかけて造らせた断崖路/明治の素掘りのトンネル道の方は、海草の粘液による波の花ができるため、「波の花道」として観光化→トンネルの一部崩壊で遮断 2 写真
  門前町本市の馬頭観音道標(本市道標) もんぜん、
もといち
輪島市   石道標
(自然石、安山岩)
高154㎝
(うち、台石61㎝),幅60㎝,厚55㎝
安政7(1860)   歴史の道
4p216/
6p154
数回移設 (正面右側)「右 あな水」、(同左側)「左 わじま」/正面中央に「馬頭觀世音」と陰刻 2
写真 白米の千枚田 しろよね 輪島市   棚田 1004枚 寛永15(1638)頃 国名勝/
世界農業遺産/日本の棚田百選
WEB 国連食糧農業機関(FAO)が認定した世界農業遺産のシンボル的存在 能登小代官・下村兵四郎(後の板屋兵四郎=辰巳用水の築造者)が開削した谷山用水を水源とするため日本海に面した丘陵上だが水の心配はない/写真は、イルミネーション「あぜのきらめき」(25000個のLEDが15分間隔でピンク→グリーン→ゴールド→ブルーと変わる) 1
写真 輪島の日和山方角石 わじま、
ひより
輪島市 <親の湊(=輪島港)> 方角石 高30㎝
(うち、台石17㎝),幅34㎝,厚35㎝
享和4(1804) 市史跡 船・地図・日和山/現地解説板 鉄柵あり/文字の40%は判読不能、残りもようやく推測できる程度のものが多い 中央部に外側に向けて時計回りに「東、南、西、北」と陰刻、その外周部に「東」の外側から「西」の外側まで時計周りに「卯、辰、巳、午、未、申、酉」と陰刻(残りは判読不能)/現存する沖縄を除く国内で2番目に古い方角石とされる→三重県志摩市の市立磯部郷土資料館所蔵の「大的矢の初代方角石」は1700年代と推定されている 3
写真 曽々木の宮水 そそぎ、みや 輪島市 (町野町曽々木) 湧水   江戸期 or それ以前   WEB 現役で飲用 嘉永6(1853)加賀藩主が視察で町野町南時国を訪れた際、この湧水を飲用したとされる/水の権威・故戸田正三博士(初代金沢大学学長)が世界の三指に入る名水と賞賛 1
写真 二宮の道標
(石動山二宮口道標)
にのみや (鹿島)中能登町 <能登街道> 石道標(凝灰岩) 高212㎝(うち、台石30㎝),
幅57㎝,厚56㎝
文政2-3(1819-20) 国史跡(石動山関連) 歴史の道
2p101/
5p64
原位置/「迄」以下の刻字を意図的に削る/中央下部で水平に折損→修復/頂部背面欠損 (正面)「石動山本社迄 五十八町」/正面上部に長方形の窪み→菊花紋章が嵌め込まれていたとの伝承(近代以降?)/建立:加賀藩加賀八家筆頭・前田土佐守/建立年代は刻字されていない→建立にあたって石動山と二宮村で交わされた手紙に記されている 3
写真 井田の道標
(井田不動瀧道標)
いだ (鹿島)中能登町 <能登街道> 石道標
(自然石、花崗岩)
高180㎝(うち、台石30㎝),
幅76㎝,厚65㎝
天保12(1841)   歴史の道
5p217,222
原位置?(台石が花崗岩でないため、移設の可能性あり) (正面)「(梵字)瀧道 從是八丁」 2
  三ツ池 みつ (鹿島)中能登町 (春木地区) 溜池(連続した3つの池)   17世紀中頃   町農林課 長谷池のみ県営老朽溜池整備事業で整備 肝煎・八郎兵衛が築造の端緒となったと言われる/集水面積が 狭かったためトンネルを掘ったが数年後崩壊→安永年間(1772-77)に肝煎・三郎右衛門が復旧しようとして落盤・崩壊/昭和26のトンネル新設工事では「崩壊していなかった旧隧道154.5m」を利用 2
  宮坂の道標
(向粟崎道標)
みやさか (河北)内灘町 町歴史民俗資料館 石道標(凝灰岩) 高86㎝,幅15㎝,厚18㎝ 安政6(1859)   歴史の道
3p121
移設(もと、向粟崎) (正面)「右 大さき道/左 はまのと たかまつ道」 2
写真 倶利伽羅峠道 くりから (河北)津幡町・
富山/小矢部市
<北国街道> 道路 西側:1.5㎞,東側:2.5㎞,幅5~9m 江戸期 県史跡 WEB 歩道として修景整備 石川と富山の境界に位置する北国街道の要衝 2
  川尻用水 かわしり (河北)津幡町 津幡川河口 用水路   安政5(1858)   WEB 昭和40の津幡川の拡幅・直線化で旧状消失 津幡川の河口に土堰を設け流水を堰き止めて利用→必要な時期が終わると土堰はすぐに切り払われた→大きな負担→土堰を常設 5
写真 中島用水 なかじま (能美)川北町・
白山市
手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長6.81㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
写真 新砂川用水 しんすながわ (能美)川北町・
白山市
手取川(右岸)/
手取川七ヶ用水
用水路 総延長13.09㎞ 平安後期頃以降 疏水百選 手取川七ヶ用水土地改良区/WEB C改修/取水口を手取川七ヶ用水として一本化 手取川の旧流路を利用した用水路/中世起源の大用水 4
写真 保元の袋堤・跡 ほげん、
ふくろ
(能美)川北町 <手取川> 石堤防(輪中堤) 長約50m 江戸期   WEB/山村 当初の石積が一部残る/当初は手取川まで続いていたとされる 暴れ川であった手取川の扇状地に残る輪中堤/かつては周辺の村に「村囲堤」が築造され、洪水の被害を少なくするため、村は線状に広がっていたとされる 4
  舘開の題目塔道標 たちひらき (羽咋)志賀町   石道標
(自然石、砂岩)
高121㎝,幅65.5㎝,厚31.7㎝ 嘉永6(1853)   歴史の道
4p216
原位置だが、大きな石基壇(近代以後)上に載る (正面右端)「右 ふくうらみち」、(同左端)「左 でむらミち」/正面中央に「南無妙法蓮華經」と陰刻 2
写真 福浦港の目繰り ふくうら、
めぐり
(羽咋)志賀町 <福浦港の大澗・水の澗> 船繋ぎ穴(数10個)   江戸期 町有形民俗 中部の土木史p58-59 一部欠けるものの、一部は現役 北前船の重要な経由地であることを物語る重要な遺構/崖のかなり高い位置に多くの船繋ぎ穴が設けられている→他の船繋ぎ穴と形態が異なり独自色が強い 2
写真 福浦港日和山の方角石 ふくうら、
ひより
(羽咋)志賀町 日和山 方角石 高17㎝,51㎝角 弘化4(1847) 町建造物 WEB/船・地図・日和山 鉄棒で覆う 北前船の重要な経由地であることを物語る重要な遺構/角柱の各隅に「東、南、西、北」と陰刻、その中央が円形に突出加工され、方角を示す十二支が陰刻/船頭・佶平が海上安全を願って寄進→側面(西北面)に「海上安全」と陰刻 1
  臼が峰往来 うすがみね (羽咋)宝達志水町・富山/氷見市 <臼が峰往来> 道路   古代~江戸期 町指定/歴史の道百選 WEB 旧街道らしい整備 古代には『万葉集』の「之乎路から ただ越えくれば 羽咋の海 朝凪したり 船楫もがも」の歌(大伴家持)で知られ、『平家物語』では「木曽殿…氷見の湊を…志保の山打越えて」と書かれた道/江戸期には、諸国巡察のため幕府から派遣される巡見使が通る御上使往来と呼ばれた 2
  八ケ用水 はっか (羽咋)宝達志水町 新宮川、渋谷川 用水路 長約6㎞  寛永元(1624)   WEB C改修 子浦、荻市、柳瀬、荻谷、新保、粟原、粟生、土橋の8村に分水する用水/水量が少なく砂利の流入が多いため、水路の両側に堀り揚げた砂利や泥土を積んでおく「土揚場」が造られていた 4
  宝達川 ほうだつ (羽咋)宝達志水町 <加賀藩> 付替え   宝暦3(1753)→土砂堆積のため天井川化   町教委
(押水のあゆみp6-7)
改修大一部/土砂堆積のため天井川化→堤防かさ上げ 加賀藩により山崎集落から海まで直線的に開削し流路変更 3
  御前下坑道・跡 ごぜんした (羽咋)宝達志水町 <宝達金山> 坑道   戦国末期~17世紀末期   町教委
(押水のあゆみp134-136)
坑口付近の崩落が進む 宝達金山そのものは永正元(1504)頃より露天掘りによる採鉱が始まったと推測されているが、坑道掘り移行した時期は不明/採掘を行っていた技術者(「宝達者」と呼ばれる)は、加賀藩内の多くの土木事業に関与したとされる 4
写真 中尾平坑道・跡 なかおひら (羽咋)宝達志水町 <宝達金山> 坑道   17世紀初期~末期 町準指定 町教委
(押水のあゆみp134-136)
中には入れない/草刈り等を実施 上記「御前下坑道・跡」より時代が下ると推定されている/採掘を行っていた技術者(「宝達者」と呼ばれる)は、加賀藩内の多くの土木事業に関与したとされる 3
  菅原溜池 すがわら (羽咋)宝達志水町 (菅原) 溜池 堤長105.6m,
堤高8.1m
享保15(1730)   能登の文化財38p35 高10mに嵩上げ 施工:十村役・中橋久佐衛門/藩費で築造(改作奉行から借入)/県下第一の溜池とされる 3
写真 押の泉 おし (羽咋)宝達志水町 (紺屋町) 湧水 石枠:外径75㎝,高58㎝ 9世紀?   町教委
(押水のあゆみp104)
現役/屋根付き/円筒状の石枠(後世の追加?) 弘法大師が突き刺した杖の穴から湧き出したとの伝承 1
  甲の鹿橋碑 かぶと (鳳珠)穴水町   石碑(自然石) 高160㎝ 安政8(1779)?   歴史の道
4p153-154
刻字の大部分が風化 恵寛和尚の発願により村民の協力で架けられた長約27mの石橋鹿橋の竣工記念碑 2
  曽良の宝篋印塔道標 そら (鳳珠)穴水町 <能登街道> 石道標(宝篋印塔型、安山岩) 高169.5㎝(うち、台石19.5㎝),
幅52㎝,厚50㎝
安永4(1775)?   歴史の道
4p156,216
石塔の組合せが不整合 (正面)「右 八なミ/左 山ミち」/宝篋印塔の道標はきわめて稀/「□永四年」と陰刻→安永と推測されている 3
  馬飛池 まんとべ (鳳珠)穴水町 (沖波) 溜池 堤長135m,堤高8.3m 安政年間(1854-59)   能登の文化財38p36 大正7に改修、昭和8に0.6m、昭和36に1.5m嵩上げ 施工:諸橋十村役・北村政右衛門/初期は北村家の私費、その後は藩費公借/奥能登最大の溜池 3
  高内畠地蔵堂霊水 こうないばた (鳳珠)能登町   井戸   戦国末期?   WEB C改修/飲用不可 上杉謙信に寺院を焼き払われた住職の一人が高野山に登り一体の石地蔵を持ち帰りこの地にお堂を建て安置した→住職の夢枕に「この地に井戸を掘り地蔵にかける水とし、また病に苦しむ人も助けよ」とお告げがあり井戸を掘っところ、眼病・皮膚病・胃腸病に効く名水が湧き出たという伝承 3