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福井県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 鹿俣峠の石畳 かなまた 福井市 鹿俣町~東大味町
<朝倉街道>
石畳道 長約100m? 江戸期?   市教委 旧道にまだらに石が残る 朝倉街道は、戦国大名・朝倉氏が経済・軍事目的で整備したもので、写真の峠を越えると、朝倉氏の本拠地である一乗谷の入り口(上城戸)へと通じていた/朝倉氏の滅亡後、柴田勝家によって拠点が北ノ庄、北陸街道沿いに再び移されたため、朝倉街道は使用されなくなったと解釈されている/石畳化の時期は不明 3
写真 九頭竜舟橋の鎖つなぎ石 くずりゅう 福井市 九頭竜川(右岸) 石柱(3基) ①:高231㎝,
幅55㎝,厚38㎝
②:高225㎝,
幅55㎝,厚45㎝
③:高140㎝,
幅47㎝,厚37㎝
天正6(1578)   WEB 九頭竜川に架けられていた舟橋の鎖が繋がれていた石が右岸河川敷に移設・集約/鎖により削れた跡が見られる/①「明治天皇御駐輦趾」、②「史蹟 稲多宿場」、③「四十八艘記念」に転用 天正6(1578)、柴田勝家が、越前の浦々(漁村)から48艘の舟を供出させ、農村からは刀狩りで供出させた鎧、甲冑、弓矢、鳥銃、刀剣、轡の一部を使って鉄の鎖を作り、白口藤の綱2本を併用して舟橋を造ったとされる/ただ、この地点にはそれ以前から舟橋は造られており、『越登賀三州誌』(1819)には建武2(1335)とあるが、これは同時代史料ではないので疑問が残るが、朝倉氏時代に「高木船橋」があったことは『西野次郎兵衛家文書・資6』に記されている(規模不明)/江戸期の舟橋は、基本的に勝家の舟橋を踏襲したもので、舟48艘、橋の長さ120間(216m)、鎖520尋(788m)、鉄の大鎖1本と白口藤綱2本で50以上の浦方が資金を出して作った舟を繋ぎ橋とした/鉄鎖の中央部は白口藤とし、洪水時に切り離された/浦方は漁業権と引き換えに舟の維持管理の費用を負担したが、洪水等で破損すると一艘あたり35両ほどの出費となったことから、減免願が数多く嘆願された 3
写真 九十九橋の石材 つくも 福井市 <福井大橋> <石桁橋> 石桁部
長約75m(32G),
木桁部
長約85m(15G)
(元文4の架替時)
天正3(1575)   市教委(歴史の道6p135-145)
/福井市立郷土歴史博物館
/福井工大紀要26p133-140
元禄元(1688)に「福井大橋掛け直る。橋杭、石板とも残らず相改める」とある/明治期に撤去・保管されている高欄には安永6(1777)の銘が入っている/寛政3(1791)、弘化3(1846)に石欄干が38間、30間倒れるとの記載→石橋にもかかわらず建造当初の石材が残っていないことを示唆している/橋脚の石柱: 14ヶ所で展示・庭石など、橋桁の石梁: 11ヶ所で展示・門柱など、敷石: 1ヶ所で27枚保管、欄干: 1ヶ所で97m分を保管
〔写真は、神明神社境内の橋桁材の記念碑への転用例: 高264㎝〕
国内最長の石桁橋/一般には、柴田勝家が南半を石造、北半を木造とする「半石半木」の桁橋に架け替えたとされている。根拠としては、石工棟梁・彦三郎に石工の動員を指示していることがよくあげられている。もう少し詳しく検討してみよう。貞享2(1685)の「福居御城下絵図」には木橋の部分と石橋の部分が明確に色で分けて描かれている。しかし、この絵図は、記載内容から正保年間(1644-48)の作だとされている。一方、橋の架け替え記録を見ると、正保年間以前には架け替えは1回しかなく、慶長3(1598)に「大橋出来 北ノ庄青木紀伊守 渡り初め」という記録があるだけである。もし、勝家が木橋しか架けなかったとすれば、最初の架け替え時点でもう半木半石に変更されたことになり、如何にも不自然である。勝家の創建時から半木半石であったと見るのが妥当であろう/「九十九橋」という呼称の初出は寛政7(1795)の『東西遊記』であり、江戸時代の一般名称は「大橋」、略称は「米橋」(橋長が88間だったことに由来)であった/「九十九」の由来は不明である(寛文4には99間だったとされるが、名称初出の寛政7の時点では88間だったため)/石橋部分で橋脚を31本も必要としたのは、使用した石材の笏谷石(火山礫凝灰岩)が強度的に弱く長い径間をとれなかったため/「半石半木」の理由は不明だが、合理性のある説としては、すべて石材にしたかったが(長寿命なので)、笏谷石では径間が狭くて川舟が通れなかったため、半分を木桁としたというものがある(洲の部分を石桁、河水の部分を木桁) 4
写真 九十九橋の模型 つくも 福井市 福井市立郷土歴史博物館 石桁橋   江戸期   市立博物館 原寸大の模型/模型に隣接してアリジナルの橋脚の石柱1本も展示 九十九橋はバラバラに解体され、また残っている古写真、絵図ともに石桁の部分をイメージさせるものがなく、原寸大模型は貴重 2
  上中町の道標 かみなか 福井市 <勝山街道・永平寺道> 石道標   享和2(1802)   WEB 最下段の台石は後補だがほぼ原位置か? (正面)「永平寺道」、(左面)「永平寺 二里二十六丁」/玄透禅師が高祖大師550回忌を記念して建立 2
写真 長橋の船入場 ながはし 福井市 長橋漁港 石すべり   正徳2(1712)以前   市教委 すべりの大半はCされているが形態は保持/側面の石材が残るもの、すべり表面に一部石材が確認できるものもある 長橋の「居倉浦郷鑑」(1712)に舟揚澗6艘分と記載/江戸期由来のすべりが残る漁村 3
写真 徳光用水(足羽川用水) とくみつ 福井市 足羽川(左岸) 用水路   中世→元禄元(1688) 疎水百選 WEB C改修→環境整備 福井藩用水奉行・戸田弥次兵衛が大改修 3
写真 芝原用水 しばはら 福井市 九頭竜川(左岸) 用水路   慶長12(1607)   福井土地改良区(鳴鹿堰堤史p92
-99,423-425)
/中部の土木史p46-50
C改修/外輪用水は埋設パイプライン化 結城氏北ノ庄城の立地点は地下水の水質が悪く飲料水としては不適だったため、家老・本多富正に命じて九頭竜川から城下まで導水した上水道(江川をもとに整備・拡充したとされる)/上水利用が主で、農業利用が従という点が大きな特徴/既往の水利権の関係で取水口を十郷用水、春近用水の取水口の下流に設けられた 4 写真
写真 光明寺用水 こうみょうじ 福井市 芝原用水
(内輪用水の城内用幹線)
用水路 長1.7㎞ 慶長12(1607)   中部の土木史p46-50 平成7-16に擬石改修されたので、別途項目とした 芝原用水の内輪用水のうち、侍屋敷の飲料水・泉水用に引かれた城内用水/北へ分岐した町人地用と比すると、水路幅が広く、道路脇を流れていた(町人地用は狭く、道路中央) 2
写真 荒川 あら 福井市   分水(放水路) 約1㎞ 慶長6(1601)以降   市教委 C護岸→一直線に開削されたイメージはよく残る 結城氏北ノ庄城(福井城: 名称に関しては下記参照)の築城にあたり、新しく計画する城下町に対する吉野川の治水対策と、城を防御する濠の築造という2つの目的を解決するため、吉野川の東側に足羽川への直線放水路(荒川)を開削し、不要となった吉野川の旧水路を百間堀、荒川を外堀と位置付けた(荒川に治水目的があったかどうか証拠はないが、直線的な形態から放水路と考えるのが妥当であろう) 3
  福の井 ふく 福井市 <福井城・小天主台・脇> 石井戸   慶長6(1601)以前   WEB 保存状態良好 寛永元(1624)に北ノ庄から福井に改称された際の由来が、福の井の名に因んだものと伝えられている/大型の石枠 1
写真 千束一里塚 せんぞく あらわ市 <北国街道> 一里塚(1基) 9m四方 慶長9(1604) 県史跡 市教委/WEB 西塚の塚木(榎)はオリジナル/東塚は畑地に 県内の北国街道の一里塚で唯一現存/塚木の榎は秋に実をつけ、旅人が飢えを凌いだと伝えられる 2
  馬借街道 ばしゃく 越前市 <府中馬借街道> 道路   江戸期   WEB 保存状態良好(整備) 武生と海岸を結ぶ中・近世の街道/馬の水飲み場、馬の荷直し場、切通しなどが残る 1
  卍が辻 まんじ 越前市 龍門寺付近 道路   戦国末期?   WEB 辻の部分のみ洋風化粧石で舗装 どの道からも見通しがきかないようになった特殊な四つ辻/諸説あり 2
  九十九橋の橋脚石材 つくも 越前市 毫摂寺 <石桁橋>
長約75m(32G)
  江戸期            
  国兼の道標 くにかね 越前市 <北陸道> 石道標(花崗岩) 高152㎝,幅24㎝,厚21㎝ 弘化2(1845)   歴史の道2p209   「祈願所 大塩八幡宮 是ヨリ三丁」「南大門より今宿江ちかみちあり」「國分寺」  
  松ヶ鼻用水 まつがはな 越前市 日野川 用水路 長4.69㎞ 養老年間(717-23)?
→文明・享禄年間?
    C改修      
  皇子ケ池 おうじ 越前市 花筐公園 井戸 or 湧水   古代?     池の跡は保存されている 古代の2人の天皇が生まれた際に産湯として使ったという伝承に基づいた命名 4
写真 千代鶴の池 ちよづる 越前市   石組井戸   元弘3(1333)頃   WEB 良好に保存/非現役 京都・粟田口の刀鍛冶・千代鶴が刀や鎌を鍛える時に用いた井戸と伝えられている 2
  法善壁 ほうぜん 大野市 <美濃街道
(3本あるうちの1つ)>
片洞門 長30m程度 江戸期?   市教委 接近困難 断崖絶壁に付けられた道/近代の可能性もある 4
  篠座の地蔵道標 しのくら 大野市   石道標 高93㎝ 宝暦9(1759)   市教委 原位置 (正面)「右 みのかいとう」 1
  木本の地蔵道標 このもと 大野市   石道標 高76.5㎝ 寛政12(1790)   市教委 原位置 (正面右)「右 ほうけうじ道」、(同左)「左 みのみち」 1 -
写真 本町の石灯籠地蔵尊 ほん 大野市   基点石 高2m以上 天正3(1575)頃   市教委/WEB 原位置 織田信長により大野の領主に抜擢された金森長近が、街づくりの時に測量の基点とした場所とされる/測量縄とその他の用具が埋め、石燈篭を建立し中に地蔵尊を祀った/角柱状の竿石、四角錐台型の火袋、四角錐の笠石 1
写真 面谷銅山 おもだに 大野市   銅山   天正年間(1573-92)   市教委 ほとんどが明治・大正期の遺構だが、対岸に江戸期の間歩が多数見える   3
  阪谷金山 さかだに 大野市   金山   江戸期?   市教委 坑道が残る   2
  明倫町の火防堤・跡 めいりん 大野市   防火壁(石積) 長3m,幅1.5m,高50㎝程度のもの2ヶ所 天正3(1575)以降   市教委   金森長近が大野盆地で発生するフェーン現象による城下の火事の対策として設置したとされるが、このような小型の構造物で何ができたのかは不明 2
写真 殿様清水 とのさま、
しょうず
大野市 とねき沢公園 湧水   古代?   市教委 飲用不可 朝倉義景伝承のある湧水/近くに右近次郎遺跡という縄文遺構があることから、歴史はもっと古い可能性がある) 2
写真 篠座神社の御霊泉 しのくら 大野市 篠座 湧水   古代?   市教委 保存状態良好 大国主伝説のある湧水(この地域には縄文遺構があり大国主との関連は別として歴史は古いと思われる)/弁天池の臼から湧く清水は近世には「篠座目薬」と呼ばれていた(?) 1
写真 木本薬師堂の霊泉 このもと 大野市 木本 湧水   古代?   市教委 保存状態良好 継体天皇伝説のある湧水(この地には他にも関連伝承があることから、古代に遡る可能性がある)/木本藩主・松平直良(1605-78)が目を洗ったら眼病が治ったとの言い伝え 1
写真 坂戸の白水 さかど、
にごし
大野市 牛ヶ原 湧水   古代?   市教委 飲用不可/C護岸 弘法大師伝説のある泉(大師が水を請うた際、水が足りない所なので米のとぎ汁を出したら水が白く濁った) 3
写真 こせき清水   大野市 泉町 湧水   古代?   市教委 臼に蓋/小規模/荒れている 行基伝承のある湧水 4 -
写真 山王神社の堀 さんのう 大野市 日吉町 湧水   中世?   市教委 飲用不可 堀は中世の亥山城の名残り/掘れば必ず水が出る土地なので、その時点での湧水池の可能性が高い 2
写真 みくら清水   大野市 犬山 湧水   室町初期?   市教委 保存状態良好/小規模 中世の戌山城の水源として使われたとの伝承 1 -
写真 御清水 おしょうず 大野市 泉町 湧水 長30m 天正3(1575)以降 名水百選 市教委/WEB 現役/木造の覆屋は新設 三の丸付近にある大型の湧水の利用施設/臼と呼ばれる飲用部から順に果物を冷やす場所、野菜を洗う場所、洗濯する場所、オムツなど汚れ物を洗う場所と決められている 2 写真
写真 本願清水 ほんがん、
しょうず
大野市 糸魚町/イトヨの里 湧水   天正3(1575)以降 国天然/平成の名水百選 市教委/WEB イトヨの里として修景整備(一時はヘドロ化していた時期もあった)/かつての上水路機能は喪失 大野城下の生活用水に利用された湧水/下記の「背割排水」とセットで、大野城下の上水路網の水源として重要な役割を果たしていた 3
写真 蝶の水 ちょう 大野市 上半原 湧水   近世以前?   市教委 保存状態良好 美濃街道の油坂峠付近の湧水として旅人が利用 1
写真 お馬屋池 おうまや 大野市 城町・柳廼社 湧水   寛永12-21(1635-44)以前   市教委 飲用不可/西側の大半が埋め立てられた 江戸時代、大野藩の馬場や厩があったことから付いた名前/「越前大野城図」(寛政12-21)に池が描かれている/大きな木の根をくり抜いた臼を使用 3
写真 阿難祖地頭方の清水 あどそじとうほう、しょうず 大野市 阿難祖地頭方 湧水   近世   市教委 保存状態良好 阿難祖地頭方集落の南(近世由来) 1
写真 義景清水 よしかげ、
しょうず
大野市 泉町 湧水   近世   市教委 公園整備の際、一度埋められた臼を掘り出した 近くに朝倉義景の墓があることから付いた名前/この地域の古地名が「清水」であるため近世以前の可能性が高い 2
写真 ふくべ清水   大野市 春日 湧水   近世?   市教委 飲用不可/農業用 かつてもっとたくさんあったものが、圃場整備でここだけ残った 2
写真 中野清水 なかの、
しょうず
大野市 中野 湧水   近世?   市教委 公園整備   3
  新堀清水 しんぼり、
しょうず
大野市 泉町 湧水   近世 or 近代   市教委 ポンプアップ/木造の上屋を新設 新堀川沿いに湧く清水 3
写真 大野城下の背割排水 おおの 大野市 <大野城下町> 排水路   天正3(1575)以降   市教委/WEB C水路化/現在も生活用水の排水路として現役で使われているため、5本ともすべて残っている 織田信長により大野の領主に抜擢された金森長近が、城を取り囲むように配置した城下町の屋敷裏境界に設けた直線状の排水路/かつては、上記「本願清水」から引水した上水が道の中央を流れて上水路+排水路でワンセットになっていたが、上水路は埋め立てられたため、排水路だけが残っている 3
  大手町の道標1 おおて 小浜市 市立図書館・入口脇 石道標 高165㎝,31㎝角 嘉永4(1851)   市教委 移設 (正面)「右 志"由ん連以道」(=巡礼)/頂部を唐破風状に彫整 2
  大手町の道標2 おおて 小浜市 市立図書館・入口脇 石道標(尖頭角柱) 高120㎝,26㎝角 文久元(1861)   市教委 移設 (正面)「左 能勢妙見宮、園部/亀山/京都、道」、(右面)「右、田辺 福知/宮津 但馬」 2
写真 岡津製塩遺跡 おこづ 小浜市 岡津44号塩汲場 製塩施設   古墳時代後期~奈良時代 国史跡 市教委 遺構は地中に保存、地表面に当時の状況を再現 5m四方程度の区画(全部で3つある)の中に小さな石板を並べ、その上に素焼きの壷を複数置き、中に濃縮した塩水を入れて薪で焼いて煮詰め、濃縮する作業をくり返したと推測される/生産された塩は、奈良の都へ税(調塩)として納められていた 2 写真
写真 平泉寺南谷の石畳 へいせんじ、みなみだに 勝山市 <平泉寺> 石畳道 長約280m,
幅約1.8-3.0m
15世紀中頃
~天正2(1574)
国史跡 市教委(史跡白山平泉寺旧境内発掘調査報告書) 発掘遺構 中世起源とはっきり分かっている大規模な石畳群/平泉寺が永享12(14
40)に火災で焼失した後、約600の坊院を含め一気に復興されるが、その際に都市計画のように石畳の道路網も整備された(発掘結果に基づく分析)/末年の天正2は中世・平泉寺の焼亡の年
2
写真 平泉寺旧参道の石畳 へいせいじ 勝山市 <平泉寺> 石畳道 約700m,幅3.0m 中世 日本の道百選 市教委 昔からの参道 社寺参道としては最古・最大級/平泉寺は天長9(832)に白山信仰の拠点として開山/参道石畳も永享12の火災後の構築の可能性が高いが発掘遺構ではないため証拠がない→末年の同じなので必ず中世の石畳 1 写真
  谷付近の石畳   勝山市 <牛首道> 石畳道   江戸期         1
  元町の金灯籠   勝山市 建雷神社 青銅製常夜灯   万延元(1860) 市史跡   移設 災難よけの常夜灯として建立/背の高い石基壇 2
  比島の渡   勝山市   渡し場     市史跡   場所が特定されている程度   4  
  赤尾大堤 あかお 勝山市   溜池   寛政12(1800)頃 ため池百選          
  備荒倉   勝山市   郷倉 7.3m×10.9m 弘化4(1847) 市史跡        
  西蓮院排水路 さいれん 勝山市 <平泉寺> 排水路   15世紀中頃
~天正2(1574)
    発掘→復元 坊院の中から外へ排水するための溝と推測されている 2
写真 丸岡町北横地の道標 まるおか、
きたよこじ
坂井市   石道標(駒型) 高155㎝(うち、台石23㎝),30㎝角       原位置? (正面)「左 よさき道」 1
  崎浦の灯台   坂井市   石常夜灯   不詳 歴史の道・馬借街道・海の道p96          
  十郷用水 じゅうごう 坂井市 九頭竜川(右岸) 用水路 長約8.3㎞→約3㎞ 天永元(1110)     老朽化により埋立、パイプライン化、残存部もC改修   5
写真 新江用水 しんえ 坂井市 九頭竜川(右岸) 用水路 長約5.5㎞ 寛永2(1625)     C改修 施主:加賀藩浪士・渡辺泉龍/十郷用水から分水された水路 3
  平岩用水の堀割 ひらいわ 坂井市 竹田川(右岸) 切通し(水路) 長83.6m,幅1.21
m,深1.21m
慶応3(1867) 歴史の道1p96   現役使用/雑草が繁茂 平岩用水の取水口付近岩盤を開削した水路 2
写真 平岩用水の余水吐け ひらいわ 坂井市 竹田川(右岸) 余水吐け 長約10m,幅約2.5m 慶応3(1867) 歴史の道1p96   現役使用   1
写真 梶台場・跡 かじ 坂井市 <丸岡藩> 台場(土塁、背面は石積) 長約33m,高1.8m 嘉永4(1852) 国史跡 市教委/WEB 規模は小さいが、海を間近に望むスタンディグは全国的にもベスト 砲術家・高島秋帆に教えを受けた栗原源左衛門が設計、南常太郎が建設に携わったとされる/へ字型に突き出した海岸線上に弓型に築かれた土塁→5個の砲眼が4.5m間隔で配置 1 写真
  松ヶ鼻用水 まつがはな 鯖江市・越前市 日野川 用水路   養老年間(717-23)?     C改修   3  
  磯部池 いそべ 鯖江市   溜池 長径約45m,短径約30m 享和2(1802)頃 市史跡 WEB 保存状態良好 水不足に悩んでいた磯部村の百姓が、福井藩に願い出て構築(延べ12,784人が工事に従事)/溜池としては非常に小規模 1 -
  許佐羅江清水 こさらえ、
しょうず
鯖江市 (定次町) 湧水 長径約20m,短径約10m 古代? 市史跡 WEB 修景 『舟津社記』(1419)に、「正暦2年(991)夏大旱、村主等祈雨、不能雨、時夢神詠、則書え埋七処、忽然水多出矣。王野清水、坪我清水、黒久清水、天照江、天管江、長泉池、許佐羅江是也」と記載されている「舟津の七清水」の1つ/主に田の用水として利用された 2
写真 木の芽峠の石畳 きのめ 敦賀市 <北陸道> 石畳道   江戸期       『万葉集』,『延喜式』に記載あり/石畳は峠の茶屋の付近(今宿側)のみ 2
  葉原の道標 はばら 敦賀市 葉原集落内・旧街道 石道標(自然石) 高49㎝,幅21㎝,厚20.5㎝ 寛政3(1791)   郷土の碑文展・続p69 原位置?/大八車が当たって2つに折れ、下部が消失 (正面)「右ハ ゑち…」、(左面)「左ハ 山」 3 -
  挙野の道標 あげの 敦賀市 杉津~今庄の旧道沿い 石道標(駒型) 高75㎝,幅28.5㎝,厚16㎝ 江戸期   郷土の碑文展・続
p65
原位置/横転 (正面)「右 かいどう/左 やまみち」 2 -
  井川の道標 いがわ 敦賀市 <木ノ芽道・高野道> 石道標(自然石) 高66㎝,30㎝角 江戸期   郷土の碑文展・続
p68
移設/下部C固定(盗難防止) (正面)「右 京/左 えちぜん」 2 -
写真 児屋川河口の船入場 こやのがわ 敦賀市   すべり   文化12(1815)   市教委 すべりはC化/川幅改修の可能性 旧敦賀港の一部/文化12に疋田舟川から御手洗川まで開削し、児屋川と結んだ 3
写真 疋田舟川(敦賀運河) ひきたふなかわ 敦賀市   運河 長6.5㎞,幅2.7m
(竣工当初)
文化12(1815)   市教委
(敦賀市史・通史編上p550-551、「江戸時代における敦賀・琵琶湖運河開削計画の歴史」〔藤井譲治〕)
道路拡幅のため水路幅は1m程度と半分以下に縮小/修景 江戸期に入り京都の商人が寛文9(1669)、翌寛文10、文禄9(1696)、享保5(1720)、その後、幕府が天明5(1785)、琵琶湖北岸の問屋が文化8
(1811)に敦賀と琵琶湖(最初の5案は塩津、最後のみ大浦)を結ぶ運河計画を立てた/「運河」といっても陸送の部分が含まれたり、水路の場合も曳舟だったりと、近代の運河とは全く様相の異なるものであったが、運河開通に伴う輸送ルートへの反対運動などのため断念された/完成したのは7度目の案で、当時老中になったばかりの小浜藩主・酒井忠進が、家老・三浦勘解由左衛門を普請奉行とし、敦賀~疋田~大浦間で運河と牛車を用いた輸送を行うことを計画し、敦賀~疋田間の水路を文化12
(1815)に開通させた(資銀は大坂納屋町餝屋六兵衛が拠出)/幅9尺
(2.7m)の水路で、米を13俵運ぶ川舟(幅7尺)を通すことができた(舟の大きさは安政期のもの)/疋田~大浦間では、大坂~京都~大津間に次いで牛車が導入された/しかし、「運河」は20年間使われ天保5(1834)に廃止されてしまう/安政4(1857)に小浜藩と幕府により一時再開されたが、塩津への搬送が大変だったためあまり利用されないまま再び廃止された
3 写真
  疋田の舟留石 ひきた 敦賀市 疋田舟川 舟繋石 高24㎝,幅32㎝,厚57㎝ 文化12(1815)   歴史の道2p214 原位置(川沿い) 疋田舟川の関連施設 1
  大比田浦の舟揚場 おおひだうら 敦賀市   石すべり   江戸期   市教委 縮小されたが石敷を含め一部現存 北前航路ではなく、敦賀と武生を結ぶ地域航路の出発点/廻船問屋・田中家の舟揚場 3
写真 洲崎の高燈籠 すざき 敦賀市 旧笙ノ川河口・左岸
<敦賀湊>
石灯明台(海運) 高7.46m 享和2(1802) 県史跡 市教委/WEB 原位置 廻船業者・荘山清兵衛が、自邸・荘山屋敷の一隅に私費を投じて建立。最下部に基壇、その上に11段の布積台石を高く細く積み重ね、、その上に火袋を置き、二重の笠と請花・宝珠を載せる/全国で6基しか現存していない江戸期の大型石灯台 1
  瓜割泉 うりわれ 敦賀市 (清水町) 湧水   江戸期   市教委 現役 水量が豊富で瓜が割れるほどの勢いだったことから付いた名称 1
  社頭一里塚 しゃとう (今立)池田町   一里塚(1基)   江戸期 町天然   塚木の欅はオリジナル/榎が欅と一体化している   2
  上嶋用水(月ヶ瀬村用水)   (今立)池田町   用水路 長8㎞ 文化4(1807) 町史跡   大部分がパイプライン化   5
写真 松ヶ瀬一号台場・跡 まつがせ (大飯)おおい町   台場   嘉永年間(1848-54) 国史跡 市教委     3
写真 松ヶ瀬二号台場・跡 まつがせ (大飯)おおい町   台場   嘉永年間(1848-54) 国史跡 市教委     2
  鋸崎台場・跡 のこぎりざき (大飯)おおい町   台場   嘉永年間(1848-54) 国史跡 市教委     4
  高野の道標   (大飯)高浜町 <丹後街道> 石道標 高110㎝,33㎝角 天保6(1835)   歴史の道3p189   (正面)「右 ちくぶ志ま/左 中山」  
  青戸の入江石積・跡   (大飯)高浜町   石垣       歴史の道6p129,
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  ホノケ山の切通し   (南条)南越前町   切通し 高6m 中世以前   町教委 林道により一部破壊 塩の道として古代から使われていたルート/切通しというより堀割 2
  脇本一里塚 わきもと (南条)南越前町 <北陸街道> 一里塚(1基)   江戸期   町教委      
  湯尾一里塚 ゆのお (南条)南越前町 <北陸街道> 一里塚(1基)   江戸期   町教委      
  今庄一里塚 いまじょう (南条)南越前町 <北陸街道> 一里塚(1基)   江戸期   町教委      
  南今庄一里塚 みなみいまじょう (南条)南越前町 <北陸街道> 一里塚(1基)   江戸期   町教委      
  二ツ屋一里塚 ふたつや (南条)南越前町 <北陸街道> 一里塚(1基)   江戸期   町教委      
写真 今庄の道標 いまじょう (南条)南越前町 <北陸道・北国街道> 石道標(笠付き、常夜灯兼、凝灰岩) 高190㎝,30㎝角 文政13(1830) 町史跡 町教委/歴史の道2p46
/現地解説板
原位置?(自然石の台石は新設) (正面)「左 京、いせ/江戸、道」、(右面)「右 京、つるが/己可佐、道」
(何れも「京」以下の文字は、長方形に削り込まれた部分に刻字)/左面に「夏艸や ありかたき/世乃 志るべ石」との句が陰刻/頂部に火袋→正面が“日”、右面が“月”の開口部
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  合波の丸岡藩領標柱1   (南条)南越前町 白髭神社<北国街道> 境界石 高136㎝,幅24㎝,厚18㎝ 江戸期 町史跡 WEB/歴史の道2p52,212   (正面)「従是南 丸岡藩支配地」 1
  合波の丸岡藩領標柱2   (南条)南越前町 自信<北国街道> 境界石 高87㎝,18㎝角 江戸期 町史跡 WEB/歴史の道2p52,212 頂部欠損 (正面)「… 丸岡藩支配地」 3
  コツラ清水   (南条)南越前町   湧水                
      (丹生)越前町                    
  佐柿の鉤折れ さがき (三方)美浜町 <佐柿城下> 道路   江戸期   町教委 道路沿いが更地 折れ曲がった鉤折れの旧街道/石垣が比較的よく残る 3
  新庄の道標 しんじょ (三方)美浜町   石道標(自然石) 高55㎝,幅20㎝ 近世?   町教委 移設? (正面)「右 山/左 江、道」(緑字は異体字) 2 -
写真 日向川(日向運河) ひるが (三方)美浜町 日向湖~若狭湾 運河   寛永12(1635)
→元禄13(1703)復旧
  町教委(三方五湖の漁業・下p44-45) 護岸C改修 若狭湾に面した外浜が波浪による浸食で海浜が狭くなったため、日向湖を舟溜りとして利用するために企画された運河→開削により日向湖に海水が流入するようになった/津波で埋没し元禄13に復旧 3
写真 早瀬川 はやせ (三方)美浜町 久々子湖~若狭湾 運河   寛文4(1664)拡幅   町教委(わかさ美浜町誌1p15) 護岸C改修 寛文近江・若狭地震(1662)で久々子湖東部が隆起したのを受け、排水能力を高めるため幅を2間(3.6m)から9間(16m)に拡幅した 3
写真 嵯峨隧道(日向湖側) さが (三方)美浜町・
(三方上中)若狭町
水月湖→日向湖 排水(トンネル)
(素掘)
長145m 宝暦13(1763)   町教委/若狭町教育委員会 明治27・昭和7・昭和54に大改修→C巻立て、坑口近代化、水門構築/日向湖の養殖による汚水流入を防ぐため通常は締切 もともと宝永6(1709)に完成した大津の笹井豪商による町人請負型の新田開発のための隧道が発端(干上がり新田が少なく失敗→享保20(1735
)の大洪水で崩壊)/浦見川の開通により三方湖畔に生まれた新田村が、大雨による三方湖の氾濫で大きな被害を受けたのを受け、宝暦7(1757 )に田井村の赤尾善次ら7人が小浜藩に願い出て着工(藩は財政難)→ 工費がかさみ赤尾善次以外は脱落→赤尾本次郎の協力を得て宝暦13 に完成/その後も、寛政・天保年間に崩落・開削した
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  嵯峨隧道竣工碑 さが (三方)美浜町   石碑   寛政11(1799)   町教委(わかさ美浜町誌8p
356-357)
最初の竣工ではなく、2度目の工事の際のもの/嵯峨山の頂上→レインボーライン山腹に移設 (正面)「水天宮/住吉太明神/日吉太明神/天照皇太神宮/正八幡太神/大自在天神/三才瓣/日月不言行四時/天工人才萬物/天高地厚長五穀/人生以是保令命/人道仁義為縄則/君明臣潔信國民/寛政十一年己未/庚申/四月十六日/水抜成就」 2
  早瀬台場・跡   (三方)美浜町   台場       町教委        
  和田台場・跡   (三方)美浜町   台場       町教委        
  和田弁天台場・跡   (三方)美浜町   台場       町教委        
写真 日笠の道標 ひかさ (三方上中)若狭町 <丹後街道・若狭街道> 石道標(尖頭角柱、笏谷石) 高145㎝,幅30㎝ 文化13(1816) 町史跡 WEB 原位置? (正面)「左 北國 ゑちせん道」、(右面)「右 志由ん連以みち」(=巡礼) 1
  藤井の道標 ふじい (三方上中)若狭町 向陽寺・入口
<丹後街道・向陽寺参道>
石道標 高142㎝ 慶応3(1867)   歴史の道2p84 原位置? (正面)「向陽寺道 従是二十五町」 1
写真 三宅の道標 みやけ (三方上中)若狭町   石道標(自然石) 高約1m 文久2(1862) 町史跡 WEB/歴史の道4p82 移設 (正面中央)「す久 ちくふ志満道」(=竹生島)、(同右下)「右 村道」、(同左下)「左 吉田」 2
写真 無悪の条里起点石 さかなし (三方上中)若狭町   起点石   8世紀頃 町史跡 WEB 移設 条里設定時の測量の際の起点となった石(⇒あくまで伝承) 3
写真 長尾の堀切 ながお、
ほりきり
(三方上中)若狭町 三方湖→菅湖 排水(切通し) 長約120m 寛永19(1642)※   町教委(三方集落の歴史展p17、三方五湖の漁業・下p56) 護岸C改修 三方湖の水を菅湖に早く排出するために開削/寛永の飢饉に苦しむ小農の救済策(仕事をさせて飯米を配給)としての側面もあった/気山区有文書の検地帳から明暦3(1657)以前に開削された(※は、「1662 寛文近江・若狭地震報告書」「三方五湖の漁業・下」による) 3
写真 浦見川(浦見運河) うらみ (三方上中)若狭町 水月湖→久々子湖 排水(切通し) 長236m,幅6m,最大堀切高36m 寛文4(1664)   町教委(1662 寛文近江・若狭地震報告書) 保存状態良好 もともと寛文元(1661)に着手した京都の後藤・角倉両豪商による町人請負型の新田開発のための隧道が発端(完成前に大地震)/寛文2(1662
)5月1日の近江・若狭地震で、三方・水月・菅湖の唯一の排水河川であった上瀬川の河口が3.6m隆起し湖面上昇で多くの村が浸水したため、藩営事業として小浜藩三方郡奉行・行方(なめかた)久兵衛の総指揮で開削された排水路/緊急性があったため臨時通水、排水、再開削をくり返した/延べ22万5490人、1659両の大工事/345石の干上がり新田が誕生した/水月湖と菅湖が汽水化
1 写真
写真 嵯峨隧道(水月湖側) さが (三方上中)若狭町・(三方)美浜町 水月湖→日向湖 排水(トンネル)
(素掘)
長145m 宝暦13(1763)   町教委(多由比神社をとりまく集落の歴史展p44
、三方五湖の漁業・下p57)
明治27・昭和7・昭和54に大改修→C巻立て、坑口近代化、水門構築/日向湖の養殖による汚水流入を防ぐため通常は締切 もともと宝永6(1709)に完成した大津の笹井豪商による町人請負型の新田開発のための隧道が発端(干上がり新田が少なく失敗→享保20(1735
)の大洪水で崩壊)/浦見川の開通により三方湖畔に生まれた新田村が、大雨による三方湖の氾濫で大きな被害を受けたのを受け、宝暦7(1757 )に田井村の赤尾善次ら7人が小浜藩に願い出て着工(藩は財政難)→ 工費がかさみ赤尾善次以外は脱落→赤尾本次郎の協力を得て宝暦13 に完成/魚道が変化するなど漁業秩序が混乱した/その後も、寛政・天保年間に崩落・開削した
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写真 熊川宿の前川用水 くまがわ、
まえがわ
(三方上中)若狭町
①河内川→北川、
②北川→河内川
上水路(石積) ①長約650m、②長約450m ①天正15-20(1587-92)、②17世紀後半? 国重伝建 町教委(熊川村誌p123) 道路側C改修→石を貼り石積み水路を再現/家側の石積の多くは近世由来であろう 熊川は交通、軍事上の要衝として秀吉に重視されたため、浅野長政が小浜城主となった天正15以降、宿場が造成された/宿場の中町を流れる用水は、その頃開削されたと考えられている/現在は上町、中町から下町にかけて2ヶ所に用水が流れているが、上記「浦見川」を開削した行方久兵衛が開削・伸延したと推測されている/宿場の上水で家ごとに「かわと」と呼ばれる雁木が設けられた 2
      (吉田)永平寺町