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島根県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 竹矢町の国分寺前の古道
(出雲国分寺跡附古道)
ちくや 松江市 <国分寺参道> 道路 長486m,幅約6m 律令時代   木下 良/市教委 もともと直線でない農道だったため、圃場整備で、石畳の上に土を盛り、直線的な古道を再現した 出雲国分寺の発掘調査に際して、国分寺の前面に幅約6mの石敷き道路の存在が明らかになった→山陰道から国分寺への参道と比定 2
写真 大草・山代・竹矢界の「十字街」 おおくさ・やましろ・ちくや 松江市 <山陰道・枉北道> 道路 幅約4m 律令時代?   木下 良/市教委 アスファルト舗装/道路線形は、当初はもっと直線状だったと推定される/トレンチ調査は行われていない 古代の山陰道/『出雲国風土器』「巻末記」に、「国の庁、意宇の郡家の北の十字街に至る」とある/大草・山代・竹矢の3大字の境界になっている→これらの3大字は、古代の大草・山代・筑陽の各郷名を継承→山陰道と隠岐に向かう駅路がそれぞれ郷の境になっていたことを示す(正西道(=真西に行く道)と枉北道(=北に曲がって島根半島・隠岐方面に行く道)が交わる十字路) 3
写真 美保関の青石畳 みほのせき 松江市 美保関 石畳道
(青石、笏谷石)
長約200m,
幅約3m
天保~弘化期(1830-47)   市教委/WEB 沈下・破損のため修復・復元 廻船問屋が集まっていた(50軒ほど)美保関の町中を舗装したもの⇒現存する江戸期の石畳の99%は峠などの路面損傷防止用に造られたもので、町中の石畳は極めて稀/町中は青石、美保神社参堂脇は笏谷石で舗装⇒青石は近くの海中から切り出したもの、笏谷石(越前産)は北前船にバラストとして積まれていたもの/山間部の石畳と違い、石のサイズがほぼ均一できれいに組み合わせられて隙間のないのが特徴 1
写真 北惣門橋 きたそうもん 松江市 松江城・東側内堀 木桁橋 長18.24m,
幅3.82m(3G)
江戸期   市教委 平成6に再現(発掘結果、絵図、文献史料に基づき復元) 内堀東側にあった家老屋敷と場内を結ぶ重要な橋/復元されたにせよ、修復されたにせよ江戸期の木橋は稀少 2
写真 伊志見一里塚 いじみ 松江市 <山陰道> 一里塚(2基) 北塚:高1.3m,直径5.1m,南塚:高0.7m,直径5m 江戸期 国史跡 市教委/歴史の道2
p22
塚木の松は風害・害虫で枯れ、北塚に切株のみ残る 両塚が残る一里塚は県内に3ヶ所 3
写真 末次町の道標 すえつぐ 松江市 <末次道> 石道標 高52㎝,14㎝角 江戸中期?   出雲の石造美術p25
/野津貴章
移設→個人宅/写真は左面 (正面)「右 大庭道」/開拓が明暦元(1655)頃から始まった→『島根県史』では、建造年を寛文期と推定→全国の道標の建立年の動向と刻字内容から見て17世紀に建立された可能性はない 4 -
写真 西長江町の道標 にしながえ 松江市 <松江杵築往還> 石道標(自然石)   弘化3(1846)   島根県の歴史街道p165/WEB 移設 (右面)「右 一畑中道」(「中道」は小さな文字)、(左面)「左 大社」/自然石なので右・左との面が確定しているわけではなく、どちらかというと右側・左側という程度/一畑中道の起点の可能性が高い 2
写真 浜乃木の地蔵道標 はまのぎ 松江市 <山陰道> 石道標 高約60㎝(塔身) 文久2(1862)   歴史の道2p11 移設 (左面)「右、大社/札所/玉造、道」/正面に地蔵立像(蓮台)を陽刻/かつては街道の一丁地蔵 2
写真 中原町の道標 なかはら 松江市 婦人会館・駐車場
<松江杵築往還>
石道標(自然石) 高150㎝ 江戸期?   歴史の道10p26 移設 (正面)「右 大社 一畑道」 2
写真 片原の舟着場 かたはら 松江市 外堀の京橋川南沿い 石雁木   江戸期   市教委/野津貴章 石垣と雁木の一部は江戸期のもの/ほとんどは改修済み 城下町に物資を搬入する河岸として賑わったところ 3
写真 桂島・櫛島間の防波堤 かつら、くし 松江市 <加賀港> 石防波堤 長325m,高(海底から)3.6m,底幅27m,天端幅9m 寛政2(1790)   市教委/島根県の歴史街道p246/山陰中央新報社(2008.8.18) 全体に保存状態良好/防波堤上に細いC遊歩道を整備 計画・施工: 松江藩七代藩主・松平治郷/加賀港の入口にある桂島と櫛島を長さ180間、底幅15間、天端幅5間の巨大な防波堤でつないだもの→加賀港に停泊できる船を増やすことで海運振興を目指した/藩の役人(総計82人)の陣頭指揮で、伝馬船延べ33600隻、石を突き固める人夫8000人、捨て石人夫3000人を使い、わずか18日間で完成したとされる 2 写真
写真 横浜町の宍道湖護岸 よこばま、
しんじ
松江市   石護岸 2段 江戸期   市教委/野津貴章 市街地化/近代の間知石垣の下に顔をのぞかせている 宍道湖の水際に並べられた円筒形の護岸石(如泥石) 3
写真 日吉の切通し ひよし 松江市 意宇川 付替え(切通し) 幅12.7m→約30m
長29m,開削高約20m(最終的な掘削土量23000t)
承応元(1652)
→延享4(1747)拡幅
  市教委/WEB 一部当時のまま 大百姓・周藤弥兵衛家正が、意宇川の水害を減らすため直線化を陳情→松江藩初代藩主・松平直正が3年がかりで剣山を切り開いて意宇川を直線化→切通し部が狭かったため氾濫の防止に役立たず→家正の孫の弥兵衛良刹が私財を投じて切通し部を42年かけて拡幅(私財が底をついて人を雇う事ができなくなると一人で鑿を持って岩を削ったと言われる) 2
写真 美保関おかげの井戸 みほのせき 松江市 美保神社・参道脇 石井戸
(八角形、笏谷石)
  文久元(1861)   市教委 保存状態良好/覆屋付き 施主:大宮司横山長門守/笏谷石(石の中に混ざり物があるのが特徴) 1
  出西・伊波野一里塚 しゅっさい、
・いわの
出雲市 <山陰道> 一里塚(2基)   慶長9(1604) 国史跡 歴史の道2p27/WEB 塚木の松は害虫で昭和46伐採、北塚切株のみ残る 近世山陰道には22基の一里塚があったが、そのうち国史跡になっているものは3基 2
写真 平野町の一畑常夜灯 ひらの 出雲市 光福寺・前
<一畑参詣道>
石常夜灯(自然石) 安政5(1858)   歴史の道10p35 移設/火袋欠損 竿正面に「一畑薬師」と陰刻 3
  大社町遙堪の道標 たいしゃ、
ようかん
出雲市 <札打道> 石道標 高60㎝ 江戸期?   WEB 原位置? (正面右)「『右、きつ起やしろ道/くわんおんし道」(=杵築大社=出雲大社のこと)、(同左)「左 志のさ起やくし」(=篠崎薬師) 1 -
  大社町の籠立場・跡 たいしゃ 出雲市 <松江杵築往還> 籠立場   江戸期   歴史の道10p39     4
  斐川町の一畑常夜灯 ひかわ 出雲市   石常夜灯
(用水路舟運)
高3m 弘化2(1845)   歴史の道2p23 移設? 宍道湖の湖畔で、松江・平田に向かう舟の発着場 2
  高瀬川 たかせ 出雲市 斐伊川 用水路 長11.4㎞,
幅3.6-7.2m
貞享4(1687) 疏水百選 大梶七兵衛に関する諸問題(美多 実) C改修 松江藩の開発棟梁(古志町の豪農)初代・大梶七兵衛(朝泰)が開削/農業用水路と高瀬舟による物資運搬水路を兼ねる 3
写真 出西岩樋・跡 しゅっさい 出雲市 斐伊川~高瀬川 トンネル式閘門
(2段式)
  貞享2(1685)   現地解説板 昭和41の改修で閘門機能は消滅→灌漑用水の取水口 松江藩・竜野九郎ヱ門が6年かけて開削/斐伊川流域の仁多、飯石、大原郡から米、鉄、木炭などを松江に舟で運ぶために造られた/記録上、岡山の吉井水門に次いで国内で2番目に古い運河閘門/下記「来原岩樋」と並び国内で2例だけの連続2段閘門 5
写真 来原岩樋 くりはら 出雲市 斐伊川~高瀬川 トンネル式閘門
(2段式)
(素掘トンネル部)
長約30m,幅2.4m,高約4m
元禄13(1700) 選奨土木遺産 大梶七兵衛に関する諸問題(美多 実) 斐伊川との間は道路で遮断/下段の閘室は公園化 3代目・大梶七兵衛(朝則)が、祖父の遺した設計者をもとに開削/貞享4
(1687)に祖父が完成させた高瀬川(上記参照)と斐伊川を結ぶ目的/記録上、岡山の吉井水門、上記「出西岩樋」に次いで国内で3番目に古い運河閘門(原形をある程度留めるものとしては2番目)/出西岩樋と並び国内で2例だけの連続2段閘門→下段の閘室が特殊な構造で、高瀬川と間府川(1712開削)の2つの川に接続するため2つのゲートが有する)
2 写真
写真 馬木岩樋・跡 まき 出雲市   素掘トンネル
(水路)
長18m 元禄2(1689)
〔十間川開削の竣工年〕
  WEB 全面RC化 松江藩の開発棟梁(古志町の豪農)初代・大梶七兵衛による十間川開削の要となるトンネル水路/神戸川の水を古志知井宮に引く灌漑用水/七兵衛は完成後間もなく69歳で死去、諸事業に私財を投じ貧しい中での死であった 4
写真 旧宇賀池土手 うが 出雲市   土堰堤 堤長140m→
堤長約10m(現存)
天平5(733)以前   市教委(風土記論叢2p62-63) 周辺の宅地化に伴い、土手の大半は削平化 『出雲国風土記』(713-733)の「神門郡」の条に、「宇賀池、周三里六十歩」とある→周囲1.7㎞の「宇賀」と呼ばれる大規模な池が神門郡に存在していたことを示す/『出雲国風土器』記載の池の中でも大規模なもの/江戸時代初期の十間川開削で縮小 4
写真 宇賀池 うが 出雲市   溜池 堤長160m 江戸初期   市教委(風土記論叢2p62-63) 古代の宇賀池は消滅したが、江戸初期の新・宇賀池はある程度原形を保っている 現在の宇賀池は、上記「旧宇賀池」の北部に存在する周囲450mの小規模なもの 2
  鷺銅山堅坑・跡 さぎ 出雲市 (大社町鷺浦) 黒鉱の竪坑   大永6(1526)~昭和初期   市教委/WEB 杉林のなかに、竪坑坑口が残る(立入禁止) 石見銀山のさきがけをなした古い銅山/現存する竪坑の年代不明 4
  屋敷谷たたら・跡 やしきだに 出雲市 (多伎町奥田儀) 製鉄施設(精錬鍛冶炉)   室町期?   市教委/WEB 発掘調査後に埋め戻し 平成19,20年の調査で、中世製鉄の製鉄炉(地下構造)1基、精錬鍛冶炉3基を発掘(小舟なしor未発見)→田儀櫻井家が大規模にたたら経営を行う以前、中世に製鉄集団が存在したことを示す貴重な発見とされる(江戸期の櫻井家関連でないので国史跡になっていないが、重要度は高い) 5
  朝日たたら・跡 あさひ 出雲市 (佐田町高津屋) 製鉄施設(高殿鈩) 12.7m×14.5m 17世紀初頭? 国史跡 市教委/WEB 新造建屋内に地下遺構が残る 田儀櫻井家が経営した代表的なたたら場/調査や文献から、周囲の地名や祠跡から大鍛冶を伴う近世高殿鈩の遺跡であると推定される 3
  聖谷たたら・跡 ひじりだに 出雲市 (多伎町奥田儀) 製鉄施設(排気坑)   享保19(1734)以前 国史跡 市教委/WEB 山中に小舟と焚き口、鉄池・石垣、排滓場が残る(発掘調査未了) 遺跡内に、田儀櫻井家4代当主櫻井宗兵衛清矩の名とともに享保19の紀年銘が刻まれた地蔵が安置されていたことから、その当時から操業していたと推測される 3
写真 越堂たたら・跡 こえどう 出雲市 (多伎町口田儀越堂) 製鉄施設(たたら高殿石垣)   江戸期~明治期 国史跡 市教委/WEB 出雲市内のたたらの中では、保存状態最良/写真は平成18の最初の調査時のもので、現在は市が奥にある家を買い取り、その下の遺構を発掘中) 江戸期~明治期に田儀櫻井家によるたたら製鉄が行われていた(文献と発掘調査の双方で確認)/臨海部に立地するという地理的条件を活かし、たたらの原材料(砂鉄・木炭)の調達から鉄製品の搬出に至るまで、海運を利用したという点が特徴(山口県の大板山たたら製鉄遺跡に似ているが、こちらは①海に近く川もある、②砂鉄だけでなく木炭も搬入した、という点で異なる) 2
  掛樋たたら・跡 かけひ 出雲市 (多伎町奥田儀) 製鉄施設(石垣、排気坑)   江戸期   市教委/WEB 大規模な石垣が残る((発掘調査済み) 田儀櫻井家が経営したたたら跡 3
写真 差海川 さしみ 出雲市 神西湖~日本海 排水(放水路) 長1.3㎞,幅約18m 貞享4(1687)   歴史の道2p33/WEB 護岸Cブロック改修 排水河川のない神西湖の湖害(長雨で溢水し農作物に被害)を防ぐため、松江藩の開発棟梁(古志町の豪農)初代・大梶七兵衛(朝泰)が藩の許可を受け私財を投じて放水路を開削(放水路案は、神西沖村の間島作庵と藤崎五右衛門によるもの) 2
写真 若狭土手 わかさ 出雲市 斐伊川 付替え   寛永16(1639)頃   市教委/現地解説板 嵩上げ・改修/太平洋戦争時、軍用材としてほとんどが伐採 施主:出雲松江藩主・京極若狭守忠高、技術者・川口昌賢(忠高は寛永14に死去→信濃から転封した松平直政が引き継ぐ)/斐伊川の本流を武志で東に向け穴道湖に注ぐ大工事の要⇒武志の土手⇒若狭守に因んで若狭土手と呼称/その後も、松山藩は斐伊川の付替え工事を5回も行った 3
写真 鯰ノ尾土堤 なまずのお 出雲市・雲南市 赤川・斐伊川 土堤防 長約2㎞ 江戸期   歴史の道8p14 数回の増築や改修 斐伊川から赤川への逆流防止/赤川では、延宝元(1673)から慶応3
(1867)の間に44回もの洪水が記録されている
2-3
  荒木浜の海岸砂防林
(八通松林)
あらき
(やとおり)
出雲市   海岸砂防林 長約1㎞,幅250m 延宝9(1681)   WEB オリジナルの木はほとんど残っていないし、「八通」の跡も留めていない 松江藩の開発棟梁(古志町の豪農)初代・大梶七兵衛(朝泰)と馬庭佐平太が6年をかけて造成/神戸川河口付近の荒木浜の荒れ地を農地にするために黒松を植林→松を8列に植えたことから「八通松林」と呼ばれる 4
写真 出雲平野の散居村の築地松 いずも、さんきょ、ついじ 出雲市   防風林<防水林>   江戸起源   市教委 現在の木で江戸期のものは少ないかもしれないが、「防風」という地域の伝統的風景は保全されている 出雲平野の荒茅町、矢野町、斐川町併川、斐川町直江などに残る農家の防風林の総称/黒松を北・西に植えて冬の北風に備えた/樹齢は不明だが江戸期のものも残っている可能性が高い/元々は防水機能も兼ねていたが、江戸中期から斐伊川の堤防工事が進み洪水の心配が少なくなると、防風機能のみとなった 1
写真 網屋浜台場・跡 あみやはま 出雲市   台場(石塁)   寛政11(1799)   市教委 発掘調査の結果2ヶ所の石構造を確認 台場としては全国最初期/完成期の石垣と後年の拡張期の石垣の2ヶ所が残る→奥行きが浅くため平坦なため、大砲を用いたとは考えにくく、大筒を用いた可能性が高い 3
写真 河下台場・跡 かわしも 出雲市   台場(石塁)   文久3(1863)   市教委 発掘調査の結果2ヶ所に分かれた石防塁を確認 東西の台場に分かれる/東側前面と背面の石垣が良く残る・西側石材の保存状態が悪いが、規模が3倍以上/西側の「排水溝」の真の目的は不明だが、火薬庫の可能性もある 3
  粟谷一里塚 あわだに 雲南市 <宍道尾道街道> 一里塚(1基)   江戸期   歴史の道8p22 道路拡張のため削られ、塚には大きな枯れ木が残るのみ   4
写真 木次町寺領の地蔵道標 きすき、
じりょう
雲南市 <広瀬木次往還・出雲巡礼道> 石道標(舟型) 高約100㎝(塔身のみ) 文化4(1807)   吉岡速人 移設 (光背像上)「十/四/番」、(同右)「右ハ よこた ひろせ道」、(同左)「れんげじハ 古ち良」(=こちら)、(台石正面中央)「五十九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2
写真 大東町下久野の道標 だいとう、
しもくの
雲南市 川井峠下
<湯町八川往還>
石道標(自然石) 高約90㎝ 文政5(1822)   島根県の歴史街道p132/吉岡速人 原位置 (正面)「右ハ 大とう まつ江/左ハ 加も 一者"た」 1
写真 大東町大東の道標 だいとう、
だいとう
雲南市 神田橋北詰
<湯町八川往還>
石道標(自然石) 高約80㎝ 文政13(1830)   島根県の歴史街道p131/吉岡速人 移設(C台石)/刻字判読困難 (正面)「右 松江 川上 湯村 広瀬/左 仁多 川下 加も 大社」 2
  町下渡し・跡 まちしも 雲南市 <宍道尾道街道>/赤川 渡し場   文久年間(1861-63)以前   歴史の道8p15 場所がほぼ特定できる程度 渡船は一艘のみ 5
  細工田渡し・跡 さいくだ 雲南市 <宍道尾道街道>/赤川 渡し場   江戸期   歴史の道8p15 場所がほぼ特定できる程度 加茂柳橋の50m下流の板見堂から宇治村への渡し場 5
  斐伊川の渡し・跡 ひい 雲南市 <宍道尾道街道>/斐伊川 渡し場   文久年間(1861-63)以前   WEB 場所がほぼ特定できる程度 当時このあたりに橋は無く、斐伊川を渡る人は徒歩や船を使っていた 5
  うしおの沢池   雲南市   溜池   宝暦13(1763)   WEB 数回の増築や改修 池の底に断層があり、2箇所から湧水 3
写真 菅谷たたら高殿の製鉄炉 すがや 雲南市 菅谷たたら山内 製鉄施設(製鉄炉) 18.3m四方,
高8.6m
(中央に製鉄炉)
宝暦元(1751) 国有形民俗資料 WEB 木建屋は宝暦だが内部の炉は明治39製?/平成25に保存修理完了 全国で現存する唯一のたたら建築/田部家経営の多くのたたらの中で表的なもの→宝暦元(1751)~大正10(1921)まで170年間にわたり製鉄を行っていた 2 写真
  鯰ノ尾土堤 なまずのお 雲南市・出雲市 赤川・斐伊川 土堤防 長約2㎞ 江戸期   歴史の道8p14 数回の増築や改修 斐伊川から赤川への逆流防止/赤川では、延宝元(1673)から慶応3
(1867)の間に44回もの洪水が記録されている(評価が出雲市と異なるのは、雲南市に所在する部分が短く改修度が大きいため)
3
写真 清水の石階段 しみず 大田市 <銀山街道> 道路(不連続な石階段)   江戸期   吉岡速人 保存状態良好   1
  下赤名折橋の銀山街道 しもあかな、おり 大田市 <山陰道> 道路 長約900m 江戸期   歴史の道3p33 町道との交差点は舗装(それ以外は、江戸期のまま) 明治期に砲車を通すにあたり、折橋の安全性が指摘されたため県道への付け替えが行われた→保存状態がいい理由 2
写真 橋之海切道・跡 はしのうみ 大田市 <山陰道> 断崖路 長約15m 宝暦6(1709)   歴史の道2p51 15mほど痕跡が残る程度(写真は大田市側から見たところ) 岸壁の海岸を切り通した道(牛馬の通行を可能にするため)だが、海岸の断崖を通る交通の難所には変わりなかった/大波による決壊で幾度となく通行不可能となり、そのたびに補修を繰り返したとされる/なぜ海面近くではなく、もっと高い所を通さなかったかは不明(石川県輪島市の「曽々木の岩崖道」参照) 3
写真 清水の石畳 しみず 大田市 <銀山街道> 石畳道 長約30m,幅約1m 江戸期   歴史の道3p11/WEB 昭和52に修景的改修/オリジナル部分が約20m残る 左側が幅35Cmの岩に刻んだ石段(人用)、右側の幅65㎝は地岩をなめらかにした坂(駄馬用)とされる 3 -
写真 五百羅漢の石反橋 ごひゃくらかん、そり 大田市 羅漢寺<石見銀山> 石アーチ橋
(太鼓型I)
(福光石)
(3基)
長4.5m(A),
S4.2m
明和元(1764) 世界遺産/国史跡/ 日本百名橋p185-186
/WEB(石橋)
保存状態良好 アーチを構成する輪石が橋面石も兼ねた非常にシンプルな構造(ほぼ20㎝角、長約2mの台形断面角柱石材約20本を円弧状に並べたもの)→よほどアーチの技術に長けていないと造れない→江戸時代、九州からほとんど出なかった「アーチの技術」がどういう形で石見にまで伝わったかは不明/銀山川を挟んで掘られた3つの石窟に入るための橋/高欄の欄間に雲形文 1
  下赤名一里塚 しもあかな 大田市 <銀山街道> 一里塚(1基)   江戸期   歴史の道3p32 土塚のみ残る(塚木の松は伐採)   3
写真 仁摩町宅野の道標 にま、たくの 大田市 <山陰道> 石道標 高約100㎝ 文政11(1828)   歴史の道2p45/
吉岡速人
原位置 (正面)「右 本ん道/中 大もり小道/左 さく道」、(裏面)「右 いつも道/左 たくの町」 1
写真 大森町の道標 おおもり 大田市 大森代官所<銀山街道> 石道標(自然石) 高約80㎝ 天保年間(1830頃)   吉岡速人 移設 (正面)「みぎ 大もりぎん山/ひだり そしき 由のつ、道」 2
写真 松山の道標 まつやま 大田市 <銀山街道> 石道標(凝灰岩) 高57㎝,幅25㎝,厚24㎝ 江戸期?   歴史の道3p10/島根県の歴史街道p86/WEB C製祠内/下部埋設 (正面)「右、銀山大森五…/いづも大社…」/中世のものという記載は間違い 3 -
  温泉津町の駒繋ぎ石 ゆのつ 大田市 <鞆ヶ浦道> 馬繋穴   江戸期?   石見銀山街道p37
/WEB
保存状態良好 馬をつなぐために岩崖に造られた鼻ぐり穴→馬をつなぐ方法としては異例(普通は石柱状の馬つなぎ石を使用)→この地域に多い船繋ぎ穴に起因するものか?/ノミのあとが残る 1
  大浦の小埠頭 おおうら 大田市 大浦湊 石埠頭 長約50m 天保4(1834)   歴史の道7p23   幕末の海防論者・林徳法が備後鞆津の石工を招いて築いたとされる 3
  古龍港の和船繋留・跡 こりゅう 大田市 古龍港 舟繋石(有頭状) 20ヶ所 大永6(1526)以降   WEB 保存状態良好 博多の豪商・神谷寿禎が大永6に石見銀山を開いた後、古龍には銀山史の初期に多くの船が来港したとされる 1
写真 鞆ヶ浦の和船繋留・跡 ともがうら 大田市 鞆ヶ浦港 舟繋穴 数ヶ所 大永6(1526)以降 世界遺産
国史跡
島根県の歴史街道p248/WEB 保存状態良好 博多の豪商・神谷寿禎が大永6に石見銀山を開いた後、鞆ヶ浦には銀山史の初期に多くの船が来港したとされる 2
写真 沖泊の和船繋留・跡 おきどまり 大田市 沖泊港 舟繋石(棒状、臼状)、舟繋穴   寛文13(1673)以降 世界遺産
国史跡
WEB 保存状態良好 毛利氏の時代の銀の積み出し港/係船するために自然の岩盤に穴を刳り抜く/港内に数多く残る/現在も所々漁船の繋留に使われている/3種類(棒状、臼状、鼻ぐり状)の船繋ぎ石が同所に残るのは稀 1
  鵜島の常夜灯 うのしま 大田市 大浦港 石常夜灯(海運)
(灯明台型)
  江戸末期   歴史の道7p24 火袋後補/火袋中台より下部はすべてC改築の可能性 大浦港入口の常夜灯 4
写真 掛戸の切通し(掛戸松島) かけと 大田市 旧・波根湖~日本海 排水(切通し) 幅25m 徳治元(1306) 市名勝 歴史の道2p41 切通しの出口にある「掛戸の松」で有名 波根湖の水を直接日本海へ排水させるため、丘陵地(凝灰岩と礫岩からなる標高50m前後)を掘削した切通し/有馬次郎左衛門一政と、二代目の次郎左衛門尉宗茂が千数百人の夫役を指揮して7年余の歳月を費やしたとされる(鎌倉時代とされているが、16世紀という説もある)/国内の水路の大規模な切通しとしては格段に古い/水深は10-20㎝と浅いが、幅3m,深20㎝の東溝と幅2m,深30㎝の西溝がある(海水の流入防止のためと考えられている)/約20mの塔状の岩「掛戸の松」が工事の記念碑的存在 1 写真
  静間川の瀬替え しずまがわ 大田市 静間川 瀬替え   元禄年間(1688-1704)   歴史の道2p43   前原源三郎が新田開発の目的で、静間川の流路を変更    
写真 本間歩・跡 ほん 大田市 <石見銀山> 坑道   戦国末期? 世界遺産
国史跡
WEB 大きな坑道入口 開発時期は不明だが、上部に露天掘りの跡があることから、16世紀前半に遡る鉱脈を、戦国末期に坑道化したとも推定できる(各地の鉱山と比較しての推定) 1
写真 大久保間歩・跡 おおくぼ 大田市 <石見銀山> 坑道 長900m,
高(最大)5m
慶長6(1601)以前? 世界遺産
国史跡
WEB 限定的(長150m)に観光開放 慶長6(1601)に初代・石見奉行に任じられた大久保長安が槍を持って馬に乗ったまま入ったという伝承(名前の由来でもある)/坑内には江戸期と推定される坑道が縦横に走る/主坑道は坑口から約150m地点で落盤/坑口から50mの所に明治期の竪坑・斜坑 1 写真
写真 釜屋間歩・跡 かまや 大田市 <石見銀山> 坑道   慶長7(1602)以降? 世界遺産
国史跡
WEB 坑口に鉄柵 銀の採掘量が減ったため、慶長7に備中出身の山師・安原伝兵衛が清水寺に祈願したところ夢のお告げがあり鉱脈の発見につながったとの伝承がある/この間歩発見により、減り始めていた石見銀の産出量が増えた 1
  永久坑・跡 えいきゅう 大田市 <石見銀山> 坑道 長1400m 元禄6(1693)以前   WEB 坑道が水路化 当初は龍源寺間歩の水抜き坑として掘られた→元禄6(1693)~天明7(1787)にかけて石見銀山屈指の長い坑道に延延→明治32に優良な銅鉱脈が発見され最盛期→昭和18の台風による豪雨で水没・閉山 3
写真 龍源寺間歩・跡 りゅうげんじ 大田市 <石見銀山> 坑道 長約600m,
高約2m,幅1m
正徳5(1715) 世界遺産
国史跡
図説島根県の歴史p175/歴史の道3p16/WEB 修景・ルート変更した上で限定的(長273m)に観光開放 正徳5に開発された代官直営の御直山の坑道 2
  新切間歩・跡 しんきり 大田市 <石見銀山> 坑道 長520m 正徳5(1715) 世界遺産
国史跡
WEB 坑道が水路化(かなりの水量) 石見代官・鈴木八右衛門の時代に、坑道内に貯まった地下水を抜くために掘られた→享保年間(1716-36)に鉱脈に当たり、江戸時代後期には520mまで伸延→現在も常時出水 3
写真 福神山間歩・跡 ふくじんやま 大田市 <石見銀山> 坑道   江戸中期 世界遺産
国史跡
WEB 現在坑道入口を鉄柵で閉鎖 山師個人が経営した自分山/石見代官・川崎市之進(1767-78)の一時期、代官直営の御直山の坑道になった/坑口が3ヶ所あり、上段が空気抜き坑、下段の2坑は内部でつながり、銀山川の下をくぐって銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に堀り進んだと伝えられる 4
  新横相間歩・跡 しんよこあい 大田市 <石見銀山> 坑道 長370m 江戸中期以降 世界遺産
国史跡
WEB 入口から40m地点で崩壊 江戸中期以後に開発された代官直営の御直山の坑道/安政5(1858)頃が最盛期/「横相」は、鉱脈の方向を予め調査し、鉱脈の方向に直行するように横から坑道を掘り、坑内で掘り当たった鉱脈を掘り進む採掘法を指す用語 2
  蔵本坑・跡 くらもと 大田市 <石見銀山> 坑道   江戸期   WEB 閉鎖 江戸期の坑道/昭和13の大森鉱山再開発時にこの間歩から採掘が試みられたが、昭和18水害で坑道が埋没したのに伴い閉鎖され、現在は大森簡易水道の水源の一部に使用 3
  下河原吹屋・跡 しもかわら 大田市 (大森町)<石見銀山> 銀精錬施設   17世紀初頭   WEB 現存せず(史跡的価値) 発掘調査によって初めて発見された17世紀初頭の銀精錬遺跡 4
  福光の石山採石場・跡 ふくみつ 大田市 <山陰道> 石切場(凝灰岩)   戦国後期~現代   歴史の道2p51 江戸期の部分は現存せず(史跡的価値) 福光石を切り出していた大規模な石山/採石に使用されたノミの跡が残るが、現在見られるのは明治期のもの 4
  水ケ迫の石切り場・跡 みずがさこ 大田市 <鞆ヶ浦道> 石切場(凝灰岩) 数ヶ所 江戸期   石見銀山街道p29/WEB   鞆ヶ浦道北ルートに残る石切り場・跡/周辺の石仏等はここで取れた福光石を使用  
写真 清水の石切り場・跡 しみず 大田市 <温泉津沖泊道> 石切場 1ヶ所 江戸期   WEB 保存状態良好 「清水の石畳」(上記参照)に使う石を切り出したとされる 2 -
写真 沖泊の上の井戸群 おきどまり、うえ 大田市 沖泊港 石井戸(円筒)   寛文13(1673)以降 世界遺産
国史跡
WEB 4基中3基は石造、1基はC改修 石造の3基は1枚岩の円筒で、筒を2段重ねているものが2つ、1段のものが1つ/正念寺奥の井戸/港が造られた頃掘られたのではないかと考えられる/井戸水は集落の人々の生活に利用する他に、沖泊に入港してきた船に水を与え、米や酒に交換していた 2
写真 沖泊の浜の井戸 おきどまり、はま 大田市 沖泊港 石井戸   寛文13(1673)以降 世界遺産
国史跡
WEB 保存状態良好 正念寺奥の井戸/港が造られた頃掘られたのではないかと考えられる/井戸水は集落の人々の生活に利用する他に、沖泊に入港してきた船に水を与え、米や酒に交換していた 1
写真 清水の金柄杓井戸 しみず、
かなびしゃく
大田市 <銀山街道> 湧水   江戸期   歴史の道3p12/WEB 保存状態良好 堂床山の伏流水が湧出したもの/石垣が見事/銀山街道をゆく旅人の休憩地 1
  ホシの祓井戸 ほしのはらい 大田市 <鞆ヶ浦道> 湧水 深50㎝,幅40㎝ 江戸期   石見銀山街道p31 放置 「祓井戸」と刻まれた石碑(文政9建造)が建つ/「ホシ」とは眼病(ものもらい)の方言であり、眼病や皮膚病に効くとされた 3 -
写真 土床坂の石畳道 つっとこ 江津市 <山陰道> 石畳道 長150m→長58m 天保6(1835)   歴史の道2p57/島根県の歴史街道p92 残存部の保存状態は良好 土床坂の急勾配部分に敷設 1
  波子町の石畳 はし 江津市 波子八幡宮・付近
<山陰道>
石畳道 長約200m,
幅約40㎝
江戸期   歴史の道5p12 一部残存 波子八幡宮付近の石畳道で、雑草により道が見えにくくなっている場所がある 3
写真 土床坂の領境石 つっとこ 江津市 <山陰道> 境界石(尖頭角柱、花崗岩) 高167.5㎝,
幅22㎝
元和5(1616)以降? 市有形 歴史の道2p57/歴史の道5p8/島根県の歴史街道p93 慶応4(1868)撤去、戦後復元 (正面・右面・左面)「從是西 浜田領」 2
写真 土床坂の村境石 つっとこ 江津市 <山陰道> 境界石 高38㎝,幅22㎝,厚21㎝ 文化12(1815)   WEB(国境石散歩) 移設/本体以上に長い基部が露出 (正面)「江田村」 3 -
  八戸川高尾の船渡し場・跡 はちのへ、
たかお
江津市 八戸川 渡し場   江戸期   歴史の道10p78 江川堤防や八戸川堤防の改修により、往時の姿は喪失 川戸・市山間の往還は、平坦であるが、高尾・小田・今田の船渡しは難所であった 3
  渡津船着場・跡 わたづ 江津市 江川 船着場   正保(1644)以前   歴史の道2p57   寄州を船着場にしていたため、役人通行の時は道を整え、俵を積んで船着場を築いていた 4
写真 江津市本町の鼻ぐり石 ごうつほん 江津市   船・牛馬兼用の繋石   元禄年間(1688-1704)頃?   歴史の道2p57/島根県の歴史街道p94/市教委 保存状態良好 北前船や江の川廻船の中継地として利用された/川幅が狭く一直線に並んできた船から荷物を下ろし、牛や馬に乗せ換えて荷物を運んだ/丸い穴をくり抜いた石に、小舟や牛馬を繋いだ/本町川沿いに15基、横田家敷地内に4基→港湾の鼻ぐり石と異なり、同一形状の繋ぎ石が連続して並ぶ非常に珍しい光景 1
写真 才ヶ垰の石畳道 さいがとう 浜田市 <浜田三次往還> 石畳道(玄武岩) 長約1㎞
→長約150m,
幅約1.5-1.85m
文化年間(1804-17)   市教委/歴史の道9
p26
大半はアスファルト舗装されてしまい、北端に150mほどが残るのみ 三隅竜雲寺住職・崑山石瑞が勧進し、付近の住民が築いた/有福方面とを結ぶ道 3
写真 笠松峠の石畳道 かさまつ 浜田市   石畳道 長1.2㎞,幅1.2m 文化8(1811) 市史跡 島根県の歴史街道p202/WEB 建造当初の状態が近年の復元なしに保たれている貴重な存在 保存状態を含めると、全国で最もよく江戸時代の「峠の石畳」の雰囲気を感じさせる遺構/やや小ぶりの敷石材を使用/急勾配部分は階段化/波佐と長安を結び、鉄や和紙を運ぶ重要な街道 1 写真
写真 佐野の石畳道(ダンゴ坂) さの 浜田市 <芸州街道> 石畳道(花崗岩) 長約120m,
幅約2.5m
江戸期   市教委/歴史の道9
p10
上部は崩壊/小規模な修復 坂道に平たい石を敷き詰めた、非常にきれいな石畳道/浜田藩主が参勤交代に利用していた 2
  唐谷坂石畳道 からたに 浜田市 <石見街道> 石畳道 長約97m,幅90㎝,岩盤道長約40m 江戸末期   市教委/WEB ダム建設を契機に発掘調査→その後の経過不明 浜田在住の六部僧・鯉塚新右衛門が庶民の苦労を軽減しようと急坂を石畳に改修/岩盤道は長約40mの切り通しに30~50㎝ごとに階段状の刻み目がある  
写真 長沢町の地蔵道標 ながさわ 浜田市 神在坂<山陰道> 石道標(丸彫)   明和元(1764)   歴史の道5p14 移設、集約/木覆屋内 (台石正面)「右 下府道/左 多陀寺道、國寺道」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 2
写真 田橋町の題目塔道標 たばせ 浜田市   石道標 高約60㎝ 天保4(1833)   吉岡速人 原位置? (右面)「ミき ゐのむら/ひだり やまみち」、(左面)「右 長者ま/左 た者せ」/正面上部に「道俣大神」と陰刻 1 -
写真 久佐川の道標 くさがわ 浜田市 <浜田広島街道> 石道標(自然石) 高71㎝,幅37㎝,厚20㎝ 江戸期?   歴史の道9p11 原位置? (正面右)「右 市山通リ/みまたみち」、(同左)「左 はまだみち」/中央刻字部のすぐ上を丸く削り込み、梅の花弁の模様を刻む 1 -
写真 津摩浦の防波堤 つまうら 浜田市 津摩漁港 石防波堤 長63m,高5m 天保7(1836)頃   市教委 内港側に江戸期の石積がよく残る/途中まで天端C舗装 津摩浦大年寄・桑原善兵衛が漁民と協議の上、文政7(1824)に長63mの石突堤の築造を計画→風波が激しく再三失敗→200両を寄付し岡山から石工を招いて完成させた 2
写真 外ノ浦の方角石 とのうら 浜田市 日和山 方角石 径27.5㎝、
地上部高23-26㎝
天保5(1834) 市史跡 市教委/WEB 原位置 外ノ浦は風待ち港として多くの船が入港/山陰で原位置に残る方角石はここだけ 1
  瀬戸ヶ島町の浦番所下の石垣 せとが、うら 浜田市(瀬戸ヶ島) 夷ノ鼻 石垣 約10m四方 元和5(1616)   歴史の道7p49 石垣のみ残る 海上交通の発達に伴い、初代浜田藩主・古田大膳大夫重治が浦番所を設置した際の石垣 3
  寺尾用水隧道 てらお 浜田市 三隅町井川 素掘トンネル
(水路)
長約20m 宝暦10(1760) 市史跡 WEB   施工:永見文蔵   -
  長迫堤(たたら谷堤) ながさこ 浜田市   溜池 堤長80m,堤高5m 文政8(1825)   WEB 保存状態良好 七条村庄屋・岡本甚左衛門が七条原開拓のために最初に築いた大規模溜池→35戸178人が住む村が誕生 1 -
  甚左衛門堤(広草田大堤) じんざえもん(ひろくさた) 浜田市   溜池 堤長120m,
堤高10m
安政3(1856)   WEB 堤防上に金網柵 上記「長迫堤」の完成後、七条原開拓をさらに進めるため岡本甚左衛門は浜田川から導水し、より大きな溜池を築造することを計画/「富くじ」の発行、たたら製鉄、牛馬市などを財源としたが資金不足のため未完成のまま死亡、長男の新右衛門が安政3に工事を再開・完成させた/現在も11haの水田を潤す水源 2
写真 室谷の棚田 むろだに 浜田市   棚田(たたら) 4520枚
→約1000枚
江戸期 日本の棚田百選 吉岡速人 保存状態良好 鉄穴流しの跡を水田にしたと言われる〔地域性が出ている〕→石積みでなく土畦畔(土砂を河川に流さない方法として、窪地を作りそこに土砂を流し込み、その後を田にした)/かつては、日本最大の棚田 1 写真
写真 都川の棚田 つがわ 浜田市 旭町都川 棚田石垣 石垣:高約5m 江戸期 日本の棚田百選 WEB 保存状態良好 棚田の枚数は少ないが、周囲の景観と石垣の美しさが魅力的/中世(平安期~室町期)に建造されたという説もある 1
写真 鎌手峠東の山陰道石畳 かまて 益田市 <山陰道> 石畳 長約200m(断続) 江戸期   市教委 幕末に長州藩が峠の東側を拡幅→石畳は中央部のみ   3
写真 左ヶ山町の山陰道石畳 ひだりがやま 益田市 <山陰道> 石畳 長45m,幅約1m 江戸期   市教委 ブロワーで土や枯れ葉を飛ばして整備→石畳は中央部のみ   2
写真 鎌手峠西の山陰道石段 かまて 益田市 <山陰道> 石階段 長10m 江戸期   市教委 ブロワーで土や枯れ葉を飛ばして整備→石畳ではなく「地山の岩を削って階段状にしたもの」 石を一列に並べるのではなく、地山を削って階段状にした例は、和歌山県海南市の「藤白坂の石段」以外にあまり例がない 1
写真 妙義寺の参道橋 みょうぎ 益田市 妙義寺・参道 石桁橋(山型) (2G) 天保13(1842)   岡崎文雄/市教委 保存状態良好 明治10の絵図に描かれているので江戸期の架設であることは確実/長径間の石桁を中央で継いでいるため山型になっている 1
写真 美濃地一里塚 みのじ 益田市 <仮称:津和野~飯浦街道> 一里塚(1基) 塚木:榎 江戸期   市教委 塚木:榎は恐らくオリジナル(少なくとも、江戸期の再植)   2
写真 梅月一里塚 うめつき 益田市 <山陰道> 一里塚(1基)   江戸期   市教委 ムクロジの巨木は塚下部に生える→塚木ではない/山口線の敷設時に半壊   3
写真 匹見町匹見の道標 ひきみ、
ひきみ
益田市   石道標(板碑型)   享保8(1723)   市教委 原位置 (正面)「卅三所之内/石刕一國 東光山/十四番 和田寺」 1
写真 東町の道標 ひがし 益田市 (辰ノ口)<山陰道> 石道標(蒲鉾型) 高67㎝,幅25㎝,厚20㎝ 天保4(1822)   市教委 移設/刻字は磨耗/下部埋設(約15㎝) (正面)「浜田太(or大)道」(資料による) 4 -
写真 喜阿弥の道標 きあみ 益田市 (滑) 石道標 高45㎝ 文久2(1862)   市教委 移設/下部埋設 (正面)「右ハ と多 人丸/左ハ きあみ/東ハ 志ら加み」(=白上) 2 -
写真 高津の道標 たかつ 益田市 万葉公園<巡見使道> 石道標(尖頭角柱) 高51㎝,14㎝角 江戸期?   歴史の道10p85 移設 (正面)「左 長門道」、(左面)「右 人丸社道」 2 -
写真 多田町の領境石1 ただ 益田市 扇原関門・跡 境界石(尖頭角柱) 高184㎝,幅22㎝,厚20.5㎝ 江戸期   WEB(筑前国境石散歩) 民家→原位置? (正面・右面・左面)「従是北 濱田領」/浜田藩~津和野藩/下記の「多田町の領境石2」と一対 1
写真 多田町の領境石2 ただ 益田市 扇原関門・跡 境界石 高116㎝,幅24㎝,厚22.5㎝ 江戸期   WEB(筑前国境石散歩) 民家→原位置? (正面)「従是南 津和野領」/津和野藩~浜田藩/上記の「多田町の領境石1」と一対 1
写真 上黒谷町の領境石 かみくろだに 益田市 (横尾) 境界石 高75㎝,16㎝角 江戸期   市教委 移設/下部欠損→「野領」の部部は桂正寺・門前(横倒し状態) (正面)「従是東 津…」/津和野藩~浜田藩 3 -
写真 中島の領境石 なかのしま 益田市 <巡見道> 境界石 高160㎝,幅20㎝ 江戸期   吉岡速人 移設→個人宅 (正面・右面)「従是東 濱田領」 4
写真 今市船着場・跡 いまいち 益田市 (乙吉) 石垣 長約30m 江戸末期 市史跡 市教委/WEB 現存石垣は幕末期/石垣が途切れた辺りの発掘調査で、荷揚場跡と推測される遺構(礫敷き)が発見されている 益田氏が山陰諸地域や日本列島の各地だけでなく、中国や朝鮮とも交易を行っていた〔李氏朝鮮の『海東諸国紀』(1471)〕拠点であった可能性/今市の、都市としての成立は16世紀中頃なので、この場所がより以前から益田氏の外港として機能し、それに伴った町が付随し、それが、益田藤兼(1529-97)の時代に今市という都市として再構成された可能性も 4
写真 蟠竜湖疏水の間歩 ばんりゅうこ 益田市 県立万葉公園 素掘トンネル
(水路)
長約180m,幅45-60㎝,高1.8-3.6m 宝永4(1707)   市教委 呑口・吐口ともC改修(内部は素掘りのまま) 高津の庄屋・永嶺嘉左衛門/高津沖田の灌漑用水の安定供給を実現するため、沖田~蟠竜湖間をショートカットするトンネルを造ったもの 3
写真 雁丁池 がんちょう 益田市 (白上) 溜池 長約70m 寛永年間(1624-44)   市教委 安政年間に拡張 僧・願長が築造/法名から命名 1
写真 中垣内の棚田 なかがうち 益田市   棚田石垣 面積1.35ha,
棚田数147枚
平安-室町起源
(現存石垣は江戸期以降)
日本の棚田百選 WEB 保存状態良好 直線状の石垣(階段状の石垣)が特徴(平均勾配1/4の急傾斜地) 1
写真 都茂鉱山・跡
(丸山銅山・跡)
おおどり 益田市   間歩   元慶5(881)、
慶長7~慶安4(1602-51)
  市教委 近世初期の間歩/中に入れないよう埋められている 『日本三代實録』(901)の39巻(881年正月~5月)に、3月7日、都茂郷丸山で銅が発見され、鼓鋳を試みたら真銅が得られたので従八位を現地に派遣したとの記録がある。実際に銅山として機能したことが分かっているのは江戸初期 3
写真 大鳥たたら・跡 おおどり 益田市 (美都町宇津川大鳥)     正徳4~明治9
(1714-1875)
市史跡 市教委/二川郷土史研究会 明治9に閉山/吹屋床、勘場、石垣、井戸などが残るとされるが正式な発掘調査は行われていない/写真は、勘場跡 青原村の原田勘四郎が創業し、寛政年間に鍋石村一ノ瀬のたたら経営者・江尾氏が引き継いだとされる 4
写真 本谷山たたら・跡 ほんたにやま 益田市 (匹見町道川)     文政7~天保2(1824-31) 市史跡 市教委 覆屋内に遺構が残る(発掘遺構ではないのでかなり風化) 那賀郡井野村から砂鉄を運び、このたたらで製品にした後、人馬で広島に運んだとされる 3
写真 三宅御土居の東土塁 みやけ、
おどい
益田市 元・泉光寺墓地 土塁 長90m,高5m 応安年間(1368-75)? 国史跡 市教委/WEB 平成27に墓地を買い上げ 益田兼見により益田川の水運や農業用水を管理するために築かれたとされる城館→東西に土塁、南側中央に虎口(?)、北側は益田川の水運の荷揚場/これだけの規模の土塁がなぜ必要だったかは謎 4
写真 三宅御土居の西土塁 みやけ、
おどい
益田市 元・泉光寺墓地 土塁 長50m,高4.5m 応安年間(1368-75)? 国史跡 市教委/WEB 平成27に墓地を買い上げ 同上 3
  宇賀荘の道 うかしょう 安来市 <広瀬清水街道> 道路   寛文6(1666)以降   島根県の歴史街道p112 近世街道の雰囲気を残す 宇賀荘の集落~伯太川の堤防に至る区間 1
  門生の鍵の手 かどう 安来市 <山陰道> 道路   江戸期   歴史の道1p23 舗装はされているが形状は不変 道が門生の家並みから汐土手に出る時、鍵の手に2度屈折する 2
写真 安来一里塚 やすぎ 安来市 <山陰道> 一里塚(1基)   慶長9(1604) 国史跡 歴史の道1p19/WEB 塚木は枯れたため昭和56伐採/礎石が名残を留めるのみ 土盛が非常に低い 4 -
写真 門生町の題目塔道標 かどう 安来市 <広瀬清水街道> 石道標 高約50㎝ 宝暦年間(1751-64)   歴史の道1p42/島根県の歴史街道p112/吉岡速人 原位置?/刻字判読困難/下部埋設 (右面)「右 きよみず」、(左面)「左 ひろせ」、正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻/名木桜、地蔵菩薩と並ぶ 2 -
  宇賀荘町の道標
(清水分れの道標)
うかしょう 安来市 <広瀬清水街道> 石道標(自然石)   文政年間(1818-29)以前?   歴史の道1p41 原位置? (正面)「清水道」 1
写真 明治町の地蔵道標
(清水道分れの地蔵像)
めいじ 安来市 <安来阿井往還> 石道標(舟型) 高約60㎝ 江戸期?   歴史の道1p19/島根県の歴史街道p118 原位置?/木祠内で撮影・判読不能 (光背右)「従是 清水道」、(同左)「坂本迄 四拾丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 3
  中山峠の道普請碑 なかやま 安来市 <安来阿井往還> 石碑   安政6(1859)   歴史の道4p38 保存状態良好 普請に携わった有力者の名前が数多く刻字 1
  細井坂の御駕籠立場・跡 ほそい 安来市 <広瀬清水街道> 駕籠立場   江戸期   歴史の道1p21-22 水茶屋があったと思われる平坦面のみ確認可能   4 -
  東比田の鉄穴流し・跡 ひがしひた 安来市   鉄穴流し   江戸期   WEB   鉄穴残丘や分離丘陵状の突起と複合沖積錐のような複雑に入り組んだ地形が残る 3
  東赤江の汐土手・跡 ひがしあかえ 安来市 <広瀬清水街道> 土堤防(干拓) 幅3.6m 江戸期?   歴史の道1p18   かつての中海開拓の前線で、開拓地と海との境界として築かれた土手(黒松が植えてあった)/基礎が石であるため、2間の道幅が田んぼの真ん中にそのまま残り、往還と呼ばれている 3
写真 佐見一里塚 さみ (飯石)飯南町 <宍道尾道街道> 一里塚(1基) 塚木:クヌギ 江戸期   歴史の道8p31 農道敷設のため一部削り取られる 天然のマサ土の小丘を利用した巨大な一里塚/台風で大きいな枝が折れだが、くぬぎの大木は立派 3
  幽念坂の切通し ゆうねん (飯石)飯南町 <宍道尾道街道> 切通し   江戸期   歴史の道8p30 保存状態良好 峠の付近のみ切通しの街道の跡がよく残る 1
写真 赤名の道標
(大森銀山道道標)
あかな (飯石)飯南町 <銀山街道・宍道街道> 石道標(尖頭角柱) 高約80㎝ 安政3(1856)   歴史の道3p34/WEB 原位置 (正面)「右ハ、とん原 まつ江/大やしろ 一ば多、道」、(左面)「左ハ 石州、さけ谷 大田/大もり 五百らかん」/赤名宿は石見、出雲、備後の3つの国に接し、銀山街道が出雲街道と合流する地点 1
  野萱の鉄穴流し・跡 のがや (飯石)飯南町   製鉄遺構   江戸期   WEB     4 -
写真 市木の石州街道石畳 いちぎ、
せきしゅう
(邑智)邑南町 <石州街道(浜田広島街道)> 石畳道 道幅3m,敷石幅1m 18世紀後半~19世紀前半   町教委(瑞穂町閉町記念誌 環翠)
/歴史の道9p19
一部当時のまま 敷設された石の大きさは様々で、一辺30-70㎝のものが主だが中には170×80㎝前後の大きな石も使用され、隙間には10㎝大の小石が詰められている 2
  田の迫の石畳道 たのさこ (邑智)邑南町 <浜田三次往還> 石畳道 長約500m 江戸期   歴史の道9p47 放置   3
写真 三坂峠の国境石 みさか (邑智)邑南町 浄泉寺<浜田広島街道> 境界石(尖頭角柱)   江戸期   歴史の道9p18 移設/左面のみ字体が異なるが後刻がどうかは不明 (正面・右面・左面)「従是西 濱田領」/かつて、広島県側の「三坂峠の国境石」(北広島町参照)と並んでいた 2
  大林銀山の間歩群・跡 おおばやし (邑智)邑南町 大林銀山 坑道   江戸期?   町教委(瑞穂町内遺跡分布図2) 山林内に散在/放置 長戸呂(3以上)、道小(4以上)、山の内、水の奥(21以上)、大山谷(28以上)、阿色、新屋敷裏、正田(2以上)、山神社、東谷、梅田屋裏(2以上)、西谷、善棚、寺の奥(4以上)の間歩群、間歩から構成される 1
写真 久喜銀山の間歩群・跡 くき (邑智)邑南町 久喜銀山 坑道   江戸期?   町教委(瑞穂町内遺跡分布図2) 山林内に散在/放置 岩屋(7以上)、向原、東谷、床屋(13以上)、要九郎、中道間歩群、間歩から構成される 1
  矢上の鉄穴流し・跡 やかみ (邑智)邑南町 矢上盆地 製鉄遺構(残丘)   江戸期   WEB 西部の鹿子原付近では顕著な鉄穴流し跡地形が残る 堅くて掘り崩せなかった未風化の岩盤が,突起状の「鉄穴残丘」として残る/鉄穴残丘や分離丘陵状の突起と浅い谷など複雑に入り組んだ地形を形成 2
  神谷の棚田 かんだに (邑智)邑南町 (羽須美村神谷) 棚田石垣 面積12ha,
棚田数128枚
江戸初期以降 日本の棚田百選 WEB 石垣が低く草で覆われている部分が多い 江戸時代初期、鉄穴流しが行われ、その際に採取されたと思われる丸い石が石積みとして使われている 2
      邑智川本町                    
  やなしお道   (邑智)美郷町 <銀山街道> 道路 長約7km 正平9(1354)以前 歴史の道百選 山陰の近世・近代遺跡/WEB 一部旧道区間が残る 山陰・山陽を結ぶ主要な道の一つで近世は銀を大森から尾道まで輸送するための「銀山街道」(起源は中世だが、現在見ることができるのは近世の山越え街道)/一里塚跡、土橋、水溜場、荷置石等が残る 3
  九日市西の原の銀山街道 ここのかいち、にしのはら (邑智)美郷町 (九日市西の原)
<銀山街道>
道路 長約100m 江戸期?   WEB 水田際に残る銀山街道のオリジナルの姿 あまりに短い 1 -
写真 枦谷の道標 かたらがい (邑智)美郷町 <銀山街道> 石道標(自然石) 高約80㎝ 天保年間(1830頃)?   吉岡速人 近接移設? (正面)「みぎ ぢとう所 おん原/ひだりハ 小はら みよし、道」/大田市の大森町の道標と類似した銀山街道の道標なので、同年代の可能性 1
写真 赤はげ山の名垣 めいかき (隠岐)知夫村
(知夫里島)
(仁夫) 石垣 長約1㎞,高1.5~2m,幅1.5m 中世? 村有形民俗 WEB 牧柵代わりに利用 大小さまざまな自然石を積み重ねる/牧畑の境界や中世の土地所有者の境界などの説があるが不明/地元では「万里の長城」と呼ばれている 1
写真 大江のいもぐら おおえ (隠岐)知夫村
(知夫里島)
(大江) 芋蔵(14ヶ所)   江戸中期 村有形民俗 WEB 最近まで使用していた 江戸時代中期に芋を貯蔵するため風化した崖を掘った四角い穴/いち1ヶ所は間口66㎝,奥行303㎝/大江地区以外にも古海(うるみ)と多沢(たたく)に 2
写真 天川疏水 てんかわ (隠岐)海士町
(中ノ島)
(知々井)清水寺 湧水   奈良期? 名水百選、疏水百選 WEB
/WEB(みさき道人)
保存状態良好 行基が当地を訪れた際、流れ出る湧水に霊気を感じ、ここに建物を建て聖観音菩薩立像を祀り清水寺と号し、この水を天川と名づけたとされる/一日400㎥が湧き出し、農業用水、生活用水の貴重な水源 1
写真 屋那の松原 やな (隠岐)隠岐の島町
(隠岐島)
(都万) 海岸防風林 長400m,幅40m,総数約1000本→200本(径60㎝) 江戸期? 日本白砂青松百選 WEB
/WEB(みさき道人)
江戸期の松がかなり残存 その昔、若狭の国から隠岐に来て800歳まで生き続けたという八百比丘尼が、島内各所に植えた松の木の一部という伝説があるくらい立派な海岸防風林/都万の舟小屋(国登録有形)が隣に並ぶ→隠岐らしい風景 1
写真 春日の松原 かすが (隠岐)隠岐の島町
(隠岐島)
(布施)春日神社 海岸防風林 長370m、幅50m 江戸期? 県天然 WEB 春日神社の境内に残る 現在は神社境内に30本ほどの樹齢約350年の黒松が散在→海岸線から若干離れているが、かつては海岸砂防林だったという説もある(境内の参道並木としては散らばり過ぎている) 2
      (隠岐)西ノ島町
(西ノ島)
                   
写真 徳城往還 とくじょう (鹿足)津和野町 (小瀬~柳)<山陰街道> 道路 約2.8㎞ 江戸期 町史跡 WEB/吉岡速人 当時の雰囲気が残る 崩落や倒木はあるが、整備されている/駕籠立て場跡や茶屋跡が残る/津和野藩主が高津の人丸社に参詣する時の帰路 1
  日原町越原の旧往還 にちはら、
おっぱら
(鹿足)津和野町 <津和野奥筋往還> 道路   江戸期   歴史の道6p29 当時の雰囲気が残る 大谷尻から稜線に通じた古道で、三本松城の支城下瀬山城への間道 1
写真 中座の山陰道石畳 なかざ、
さんいん
(鹿足)津和野町 <山陰道> 石畳道 長150m,幅(内側1.4~1.9m,外側2.8~3.3m) 中世起源
(石畳の敷設年代は不明)
国史跡 町教委 発掘出現のため、保存状態は最良 発掘された石畳道/石畳だけでなく、石垣・石擁壁ともに非常に立派/敷石は小さいもので0.3m、大きいもので1m/江戸期の下関と京都を結ぶ商工業者の流通道 1
写真 ヶ峠の石畳 ますがとう (鹿足)津和野町 <津和野廿日市街道> 石畳道 長約1.5㎞ 元和3(1617)以降
(石畳の敷設年代は不明)
  歴史の道6p27
/WEB
車道が峠道を分断/保存状態の良い部分と放置部分が混在 石見銀山大森代官所の役人が、大森から日原・畑迫にあった幕府直轄領を往来する道/石畳は、峠の麓の鉄砲丁橋から枡ヶ峠を越え和田町までの区間 3
写真 笹山の石橋 ささやま (鹿足)津和野町 <津和野廿日市街道> 石桁橋 長4.2m(G) 江戸期   歴史の道6p8 部分的に残存 笹山水害の際、2枚あった桁石の上流側が流失 2
  瀧谷たたら・跡 たきだに (鹿足)津和野町 左鐙 製鉄鈩   江戸末期 町史跡 WEB 石積が辛うじて確認できる程度 江戸末期に活躍した野鈩の跡/現在は山林になっている 4
  伊豆師街道 いずし (鹿足)吉賀町 <津和野廿日市街道> 道路   元禄12(1699) 町史跡 歴史の道6p13 当時の雰囲気が残る この街道ができたことで、吉賀川の舟渡しは廃止となった 1
  九郎原一里塚
(榎ケ休み)
くろうばら (鹿足)吉賀町 <津和野廿日市街道> 一里塚(1基) 塚木:榎 天保年間(1830-43)以前   歴史の道6p17 榎の老木が残る/塚なし 一里塚の横に茶屋があり、当時「榎ケ休み」と呼んでいたことから一里塚も「榎ケ休み」と呼称されている(?) 3
写真 七日市の道標 なぬかいち (鹿足)吉賀町 <津和野廿日市街道> 石道標
(自然石、安山岩)
高約60㎝ 元禄年間(1688-1704)??   歴史の道6p15
/WEB
国道沿いのポケットパークに移設 (正面)「右 つ王の道」/「元禄の頃にできたと言われ」と書いてあるが、この地域の道標としてはあり得ない→古くても18世紀中頃の建立か? 2 -
写真 元・星坂の領境石 ほしさか (鹿足)吉賀町 田野原元郷主神社
<津和野廿日市街道>
境界石(尖頭角柱、花崗岩) 高約200㎝,
21㎝角
享保14(1729)   歴史の道6p19
/WEB
昭和42に江堂峠から移設/「津」の字の部分で折損→修復 (正面)「従是西 津和野領」/周防国(萩領)と石見国(津和野領)との境 2
  柿木の渡し場・跡と
籠立場・跡
かきのき (鹿足)吉賀町 <津和野廿日市街道> 渡し場、籠立場   元禄12(1699)? 町史跡 歴史の道6p12 護岸工事により、現在は標識が立つのみ 元禄12から参勤交代の道筋となる→渡し場や籠立場の年代は未確定 4
写真 亀田の水穴 かめた (鹿足)吉賀町 <津和野廿日市街道> 素掘トンネル
(水路)
長95m,吐口80㎝角四方 正保2(1645)   歴史の道6p11 保存状態良好/現役使用 伊予国の鉱山師・羽生太郎左衛門/灌漑により開拓した3haの水田は、現在も耕作している/切羽口で火を焚き岩を熱して水をかけ、砕けやすくしてノミで崩して掘り進んだと言われる 1
写真 大井谷の棚田 おおいだに (鹿足)吉賀町 (大井谷) 棚田石垣 面積17ha→8ha,
棚田数約600枚
室町?~江戸期 日本棚田百選 WEB 補修や積み直しを経ている/棚田オーナー制の導入 600年前に大井谷に住み着いた三浦氏により造成/石垣が主体の棚田で、曲線状になっているのが特徴 2
写真 船通山の石畳道 せんつう (仁多)奥出雲町 船通山(鳥上滝コース) 石畳道(土道部分もかなりある) 長約1㎞ 江戸期~明治期?   町教委/WEB 昭和45~46に約100m改修 鳥上滝コースは全長約2.2㎞で石畳部分と土道部分が混在/たたら製鉄が盛んに行われた時代に炭焼に使用する木材を馬に運ばせるために整備された石畳道/正確な建造年代は不明 1-3
写真 馬馳の題目塔道標 まばせ (仁多)奥出雲町 <湯町八川往還> 石道標(自然石) 高約180㎝ 文化6(1809)   歴史の道4p17/島根県の歴史街道p132 近接移設? (裏面下部右)「右、みなり/たかのやま」、(同左)「左、よこた/かめだけ」/正面に大きく「南無阿弥陀佛」と陰刻 1
  郡村の道標 こおり (仁多)奥出雲町 <湯町八川往還> 石道標(自然石)   江戸期?   歴史の道4p19 原位置? (正面)「右 よこた/左 かめたけ」 1 -
写真 羽内谷鉱山の鉄穴流し本場・跡 はないだに (仁多)奥出雲町 <羽内谷鉱山> 製鉄遺構
(砂鉄採集施設)
長約120m 江戸期 町史跡 町教委/現地解説板 木製水路→C改修の上に木張り(出切以外)/もともと石造でなかったため保存状態が悪い 鉄穴流しの本場(最終工程)が、上流から第1出切、第2出切、大池、中池、乙池、洗樋の順に残る(1㎞上流で砂鉄を多く含む岩石を切り崩していた)/形態を良く留め、かつ、大規模だが、昭和47まで操業していたため江戸期の雰囲気はない 3
写真 福頼地区の鉄穴残丘群 ふくより (仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(鉄穴残丘)
  江戸期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 鉄穴残丘が明瞭に散在して残る/写真は最も明瞭な形で2つ並んで残る例) 鉄穴流しで、流し崩された跡地が棚田として造成され、その中に墓地などがあるため崩さず残された残丘が点在する独特の風景/「奥出雲たたらと棚田の文化的景観」の中核地 1 写真
写真 福頼地区の旧鉄穴間歩 ふくより (仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(鉄穴水路)
  江戸後期~明治初期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 保存状態良好 鉄穴水路(走り)を流すために掘られたトンネル(羽内谷鉱山の鉄穴横手にある隧道)/農業用水路に転用されている 1
写真 福頼地区の溜池群 ふくより (仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(鉄穴流しの築堤)
  江戸期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 農業用に転用されて残る/一部、堰堤を改修/写真は保存状態の最も良い大畑池 鉄穴流しのために築堤された後、農業用の溜池として転用されたもの/「奥出雲たたらと棚田の文化的景観」の中核地 1-2
写真 福頼地区の棚田 ふくより (仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(棚田)
  江戸期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 保存状態良好 鉄穴流しで、流し崩された跡地が棚田として造成されたもの/石垣が一切用いられていないのが特徴 1