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沖縄県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
金
城町石畳道
きんじょう
那覇市
<真珠道>
石畳道(石灰岩)
約8㎞→
長約300m,
幅5.3-3.0m
1477-1526年頃
県名勝
市教委/現地解説板/WEB
那覇を代表する観光地
尚真王代に南部へ通ずる重要道路(真珠道)の一部として修築された/石灰岩を加工して「あいかた積」のように敷き詰めた石畳/石畳に降った雨が周辺の井戸の水源になるよう工夫されている(現地解説板)
2
ヒジ川坂の石畳
ヒジガー・ビラ
那覇市
石畳道(石灰岩)
長約100m
16世紀頃
市史跡
WEB
金城ダムの築造にあたり、周辺整備
新旧の施設を、石灰岩の「あいかた積み」を使って巧みに合体化
2
C
末吉宮磴道橋
すえよしぐう・
とうどう
那覇市
末吉宮
石アーチ橋
(石灰岩)
S1.8m(A)
1456年
県有形
WEB
原形保存
わが国で現存最古の石アーチ橋末吉宮に上がるための階段状の参道橋/アーチ部は、2枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積
1
A
世持橋
(旧・慈恩寺橋)
よもち
那覇市
県道/龍潭(池)→排水路
石アーチ橋
(石灰岩)
1456年→1661年移設
市教委/WEB
移築・一部保存改修度大/龍潭側は池で接近できず、さらに鉄柵もある(橋が残るのは龍潭側のみ)
橋にあった微粒砂岩製の「世持橋勾欄羽目」は、沖縄の石材彫刻中最も優れたものの1つ(県指定、沖縄県立博物館蔵)
3
B
天女橋
てんにょ
那覇市
弁財天堂への参道/円鑑池
石アーチ橋
(石灰岩)
長9.75m,S3.3m
(A)
1502年→1621年改修→1744年改修→沖縄戦で崩壊→1969年解体修理
国重文
市教委/現地解説板/WEB
沖縄戦で崩壊したものを復元(微粒砂岩製の高欄は新設)
当初名称:観蓮橋/アーチ部は、4枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は布積、橋面石は繊細な組み合わせ/欄干は戦前にすでになくなっていた
2
龍淵橋
りゅうえん
那覇市
人道/円鑑池~龍潭への注ぎ口
石アーチ橋
(石灰岩)
S1.75m(A)
1502年頃
県有形
WEB
沖縄戦で崩壊したものを復元
アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている(橋としては珍しい3心円アーチ)/壁石は乱積
1
B
ヒジ川橋
ヒジガー
那覇市
ヒジ川橋取り付け道路(人道)/安里川<金城川>
石アーチ橋
(石灰岩)
長13.18m,S3.5m
(A)
1733年頃
県有形
市教委/WEB
金城ダムの築造にあたり、周辺整備
アーチ部は、4枚?の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積橋面は2段の太鼓型
1
B
下原橋
シチャーラ
那覇市
一般道/金城川
石アーチ橋
(石灰岩)
長4.0m(A)
17-18世紀?
WEB(石橋)
上流側がガードレール化されている以外は、オリジナルで現役(2t未満)
裏面から見たアーチの迫石は大きさがかなり不揃い/壁石は乱積み
2
C
識名園石橋
(北)
しきなえん
那覇市
識名園
石アーチ橋
(石灰岩)
1799年
世界遺産、国特別名勝
市教委/WEB
保存状態は完璧
未加工の自然岩と一体化した特異な橋/アーチ部裏面のみは整形加工/橋面は3段の太鼓型
1
A
識名園石橋
(南)
しきなえん
那覇市
識名園
石アーチ橋
(石灰岩)
1799年
世界遺産、国特別名勝
市教委/WEB
保存状態は完璧
橋面は7段の中国風の太鼓型/それに合わせて、高欄も弓なりになった面白いデザイン
1
A
識名園石橋
(六角堂前)
しきなえん
那覇市
識名園
石アーチ橋
(石灰岩)
1799年
世界遺産、国特別名勝
市教委/WEB
保存状態は完璧
橋面は4段の太鼓型(中央のアーチ型開口部は、下部を半円状、上部を凸状に加工した1つの石でできている)/高欄のない単純な構造
1
C
放生橋
ほうじょう
那覇市
<円覚寺参道>/放生池
石桁橋(石灰岩)
長2.7m(G)
1498年→沖縄戦で崩壊→1967年復原
国重文
市教委/WEB
沖縄戦で崩壊したものを復元
わが国現存最古の石橋/長方形の石版4枚を渡しただけの単純な構造/高欄は青石製で、精緻を極めた浮彫が見事
1
A
龍潭
りゅうたん
那覇市
人工の池
周囲416m,面積8400㎡
1427年
現地解説板/WEB
竜頭形の池/国相懐機が中国の造園法に習って造成させたとされる/万人に開放された園池/中国からの使節(冊封使)滞在中の重陽の日には竜舟宴(舟遊び)が行われた/龍淵橋の近くの石垣は見事
3
B
円鑑池
えんかんち
那覇市
人工の池
1502年
WEB
沖縄戦で破壊、昭和43に修復
首里城や円覚寺からの湧水・雨水を集め、龍淵橋をくぐって龍潭に溢水させる/池内の島に弁財天堂が建ち、そこに天女橋が架かる/見事な石垣
2
B
まへ原の印部石「ヨ」
まへばる
那覇市
小禄丘陵地帯の南側の民家の玄関先
印部石(自然石)
高45㎝,幅28㎝,厚11㎝
1737-50年
WEB(日本の測量史)
移設
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ヨ、まへ/原」と刻まれている/「ヨ」はいろは順
2
C
くし原の印部石「ふ」
くしばる
那覇市
具志2丁目
印部石(自然石、細粒砂岩)
高40㎝,幅19㎝,厚10㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.177/WEB(日本の測量史)
移設/台座上に記念碑のように設置/石の右上が折損している可能性あり
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ふ、くし/原」と刻まれている/「ふ」はいろは順
3
C
川原の印部石「ユ」
かわばる
那覇市
小禄小公園
印部石(自然石)
高33㎝,幅25㎝,厚9㎝
1737-50年
WEB(日本の測量史)
移設/C祠内に置いてある
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ユ、川原」と刻まれている/「ユ」はいろは順
3
C
安谷川
あたに・ガー
那覇市
石積井(湧水)
(コの字型に積まれた石垣)
15世紀以前
市史跡
WEB
屋根は後付け
矩形をした水溜めの3面と、正面が「あいかた積み」で造られている
2
C
佐司笠樋川
さしかさヒージャー
那覇市
<松山御殿>
石積井(湧水)
(下降通路の両側に3段の石垣)
1477-1526年
WEB
円筒状に積まれた「あいかた積み」のヒージャー林の中に埋もれている
1
C
龍樋
りゅうひ
那覇市
首里城
石積井
1523年(水口の渡来時期)
WEB
周辺の水盤等は復元
王宮の飲料水として使用/龍の形をした水口は中国製
2
C
世果報御井小
ユガフウ・ウカグヮー
那覇市
<松山御殿>
石積井(湧水)
15世紀?
WEB
保存状態良好
佐司笠樋川の隣にある小型の泉水
1
C
識名園・育徳泉
しきなえん・いくとくせん
那覇市
識名園
石積井(湧水)
(半月型に積まれた2段の石垣)
15世紀?
世界遺産、国特別名勝
WEB
保存状態は完璧
曲面の「あいかた積み」で造られた立派な水源井戸/1800年と1838年の碑が立つ
1
B
仲之川
ナーカヌ・カー
那覇市
石積井(湧水)
(L字型に積まれた2段の石垣)
16世紀頃→
1863年の災害で修復
市史跡
現地解説板/WEB
コンクリートを撤去、水道管を見えなくした
水量が豊富なため、日照りの際は首里城内の用水としても使用/背面断崖は大小の石材を用い「あいかた積み」で石壁を築き、井戸は長方形に積み上げた構造/立派な石畳が付属
2
B
金城大樋川
カナグシク・ウフヒージャー
那覇市
<金城村の共同井戸>
石積井(湧水)
(コの字型に積まれた3段の石垣)
1694年以前
市史跡
市教委/現地解説板/WEB
金城町石畳道にも近く、観光の拠点/コンクリートの建物を撤去し、水道管を撤去、解説板を小型化
岩盤の奥の水脈から湧き出した水をそのまま石垣で囲んだ井戸に導き、利用したもの/3方は土留の高い石積みが施され、背後の崖は4段に分けて堅固に積み上げられている/金城地区で最大の井戸
1
A
上ヌ東門ガー
ウィヌ・アガリジョウ・ガー
那覇市
<共同井戸>
石積井(湧水)
(石灰岩、1面だけに積まれた石垣)
18世紀(首里古地図に記載)以前
市史跡
市教委/現地解説板/WEB
屋根等の付加物を撤去し、昔の姿に近づけた(一部にC製の蓋)
首里の古い共同井戸の形式をとどめ、石積み、石組みとも精巧で均斉のとれた井戸/斜面をL字型に削り、半円型に掘り下げた構造
2
C
下ヌ東門ガー
シチャヌ・アガリジョウ・ガー
那覇市
石積井(貯水池からの引水)
(石灰岩、下降通路の両側に石垣)
18世紀(首里古地図に記載)以前
市史跡
市教委/WEB
屋根等の付加物を撤去し、昔の姿に近づけた
小型の共同井戸ではあるが、均斉がとれ、風情がある/斜面をL字型に削り、小型の三日月型に掘り下げた構造
1
C
寒水川樋川
スンガー・ヒージャー
那覇市
石積井(湧水)
(半月型に積まれた3段の石垣)
18世紀初頭以前
市史跡
市教委/WEB
きれいな半月形をした「あいかた積み」のヒージャー/水溜めも半月形/沖縄を代表する井戸の1つ
1
A
加良川
カラガー
那覇市
洞井(湧水)
1759年
市史跡
市教委/WEB
金属板で塞ぐ
自然の洞穴から出る水をせき止めたもの/巨木の根が特徴
3
C
宝口樋川
たからぐち・ヒージャー
那覇市
石積井(流下式水源)(下降通路の両側に石垣)
1807年→1842年修復
市史跡
市教委/WEB
首里の「宮城ぺーちん」らが寄付を集め開いた共同井戸/崖下に位置し、豊富な湧水を流下させるタイプのヒージャー(他にあまり例がない)/「あいかた積み」を使用
1
B
新垣ヌカ―
アラカチ・ヌカー
那覇市
<共同井戸>
石積井(流下式水源)(L字型に積まれた石垣)
琉球王国時代末期
市史跡
市教委/現地解説板/WEB
保存状態は良好(わずかに水も出ている)
新垣恒佳が男子の誕生を祈り、私財を投じて築造/道に面する屋敷の一角に地下タンクを掘り、屋敷内の奥の井戸から泉水を導き入れて地域の人々の飲料に寄与した
2
C
潮汲川
ウスク・ガー
那覇市
石積井(湧水)
(半月型に積まれた3段の石垣)
不明
市史跡
市教委/WEB
屋根等の付加物を撤去し、昔の姿に近づけた
水量が豊富で古くから地域の飲料水となり、溢れ出る水は斜面の裾に広がる水芋田の灌漑用水となっていた/斜面をL字型に削り、半円型に垂直に掘り下げた構造
2
C
孔子廟・石牆
こうしびょう・せきしょう
那覇市
石塀(石灰岩)
1837年
市教委/馬場
発掘により明らかになった遺構/孔子廟らしく、塀の頂部が丸くなっている
2
B
日影台
にちえいだい
那覇市
首里城
石の日時計
1739年(伝承)
現地解説板/WEB
沖縄戦で破壊、平成12に復元
十二支を刻んだ石の円盤に銅製の棒を立てたもの
2
B
宮良のヤラブ並木
みやら
石垣市
(石垣島)
浜川原
並木
長約150m,
約100本
1869年
市天然
WEB
保存状態良好/土舗装やウッドデッキで整備
30年ほど前に道路拡張で伐採されそうになったが村民により守られた
1
B
八重山の石敢當
やえやま
石垣市
(石垣島)
八重山博物館
石敢當(石灰岩)
高51㎝,幅37㎝,厚19㎝
1736-95年
日本の石敢當p.178
上部破損
(正面中央)「太公在此」、(その右)「泰山石敢當」/県内で2番目に古い/起工・修築を意味する「太公在此」の方が主体
3
B
白保
(笠原)
の垣
しらほ(ソーバリ)、かち
石垣市
(石垣島)
魚垣(石垣)
長約400m
琉球王国時代→
2008年復元
WEB
戦前は16基あった復元事例は全国で2例
石垣島に残る唯一の魚垣(かつては、島の東南海岸に沿って連続していた)
3
A
津波大石
つなみ、
うふいし
石垣市
(石垣島)
崎原公園
津波石
700t~1000t/長径12.8m,短径10.4m,高5.9m
約2000年前
国天然
WEB
公園内/石の上に一面に木が生えている
日本で2番目に大きな津波石/炭素14等による年代測定により約2000年前の先島津波により現在地に移動したことが判明/明和大津波では移動しなかったが回転した可能性は指摘
1
A
バリ石
石垣市
(石垣島)
伊原間の海岸
津波石
約216t/長径9.0m,短径7.0m,高3.9m
1771年
国天然
WEB
海岸の砂浜にごく近い海の中
ハマサンゴなので炭素14等による年代測定により明和の大津波に由来する津波石であることが確定
1
B
安良大かね
(イファンガニ)
やすら、うふ
石垣市
(石垣島)
平久保の海岸
津波石(流紋岩)
1771年
国天然
WEB/市教委
海岸の砂浜
『奇妙変異記』に、「安良村ゟ子之方伊波泊与申所ニ弐間角程鉄之様なる石有/但、此石俗ニ安良大かね与唱、元来同所之浜ニ有来候処、大波ニ三拾間余子方ニ引流置申候」と記されている
1
B
あまたりや潮荒1
すうあれ
石垣市
(石垣島)
津波石
約300t
1771年
国天然
WEB/市教委
サトウキビ畑内/草で覆われて石肌が見えにくい
『奇妙変異記』に、「桃里村之内いなふ田与申所ニ三間角之海石弐ツ有ル/但、此石弐ツ共俗ニあまたりや潮荒与唱、元来仲与銘之内、あまたりや与申浜ゟ三町程沖之方ニ有来候処、大波ニ根ゟ引越し、浜ゟ弐町余陸ニ寄揚置申候」と記されている
2
B
とふりやの高こるせ石
石垣市
(石垣島)
とふりや
津波石
大中小の3つの石(計約700t)
1771年
国天然
WEB/市教委
牧場の一角にブロック塀や石積みの延長として使用→外側からのみ見学可
『奇妙変異記』に、「大浜村ゟ卯方六町五拾八間、大浜津口北之端ニ四間角程之石有、同村ゟ子下中四町四拾八間とふりや与申所ニ同程来之石有ル/但、此石弐ツ共俗ニ高こるせ石与唱、元来こるせ御嶽之中一所ニ並立在来候処、大波ニ各弐ツ所ニ引流置候事」と記されている
3
B
あまたりや潮荒2
すうあれ
石垣市
(石垣島)
国道390号沿い
津波石
1771年
WEB/市教委
草で覆われて石肌が見えにくい
同上(指定は受けていないが、価値は変わらない)
2
C
登野城まつむとぅ家の津波石
とのしろ
石垣市
(石垣島)
津波石
1771年
WEB(みさき道人)
民家敷地内
明和の大津波に由来する津波石
3
C
真謝井戸
まじゃん、
ガー
石垣市
(石垣島)
白保集落
窪地井(湧水)
深9.7m
18世紀初期以前
市史跡
WEB
周囲をCブロックと柵で囲み立ち入り制限
『八重山島諸記帳』(18世紀初期)に「真謝井 村内に有」と記載→1771年の明和大津波で埋没→再建/18段の石段で降りていく窪地状湧水
3
C
アダドゥーナー
(安多手井)
石垣市
(石垣島)
下又屋敷遺跡
洞井(湧水)
深12m(斜道21m)
18世紀後半以前
市史跡
現地解説板/WEB
現在は放置状態(ゴミも)
1771年の明和大津波で埋没(それ以前から存在)→再建/40段の石段で洞内に降りていく洞窟湧水(ウリカー)
3
B
パイナーカー
石垣市
(石垣島)
洞井(湧水)
年代不詳
市史跡
現地解説板/WEB(みさき道人)
現在は放置状態(ゴミも)
長さ約20m、40段の石段のある洞窟湧水(ウリカー)/宇里家(ウーリャー)の7兄弟が掘ったとの伝承
3
C
ビッチュルムリィ
石垣市
(石垣島)
遠見台
(石積、渦巻状)
琉球王国時代
市教委
八重山諸島の中でも、変に修景されず、かつ、保存状態のもっとも良く、かつ、最大規模の遠見台
非常駐の遠見台のため、一括国指定されなかったが、本格的な渦巻き状の大型施設/石垣島の他の遠見台は、山地に造られているが、島の東南部は低地のため、他の平らな島と同じ石積構造とした
1
川平火番盛
かびら、
ひばんむい
石垣市
(石垣島)
遠見台、火番盛
1644年以降
国史跡
市教委
放置された小丘の上にあり、周辺の丘と区別がつかない
先島諸島の火番盛群/小丘上のため、特に施設なし
4
C
平久保遠見台
ひらくぼ
石垣市
(石垣島)
遠見台、火番盛
1644年以降
国史跡
残石らしきものがある程度
先島諸島の火番盛群/位置が特定できない山全体
4
C
登野城の星見石
のとしろ、
ほしみ
石垣市
(石垣島)
天体観測石
高145㎝
1670年頃
市教委/WEB
隣接地の道路沿いに移設/周辺が花壇化されている
宮良長重により設置/一定の距離をおいて人が座り、目、石、星とを結んで、農耕と関わる星座観測したと言われる
2
B
新川の星見石
あらかわ、
ほしみ
石垣市
(石垣島)
天体観測石
高約1m
1670年代?
市教委/WEB
ほぼ原位置/周辺は荒廃
宮良長重により設置?/WEBでは、登野城の星見石と間違えて紹介されていることが多い
3
C
大川の方位石
(大川の星見石)
おおかわ
石垣市
(石垣島)
方角石(円形)
or 天体観測石
時期不詳
WEB
教育委員会が保存
菊目サンゴ石の中央に穴を穿ち、12筋の溝を刻んで放射状に方位を示している→
地元では中央の穴に竿を立てて星の位置を観測したと考えられている
→中央に穴さえなければ、こうした形態は「方角石」そのものであり、宮古島市の「狩俣遠見番所の方位石」と類似度が高い
4
C
報得橋
むくえ
糸満市
<県道・奥武山~米須線/報得川>
石アーチ橋
(石灰岩)
S3.1m(A)
1732年→沖縄戦で崩壊→1993年発掘・移築
市有形
市教委/WEB
沖縄戦で崩壊したものを移設・復元/幹線道路脇に野越されているが駐車スペースもない
アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている/石工4687名と人夫11668名を動員/壁石は乱積片側のみ、建造当初の石組が残る
3
B
たふし原の印部石「す」
たふしばる
糸満市
照屋内原
印部石、印部土手
高33㎝,幅22㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.207
完形/石の周りに二重の石囲い
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「す、たふし原」と刻まれている/「す」はいろは順
2
B
照屋ガー
てるや(ティラ)
糸満市
石積井(湧水)
不明
市教委
水源部はRC建家で覆われている
水源を囲む三方の石垣が残る
4
C
安波茶橋と石畳道
あはちゃ
浦添市
<中頭方西海道>/小湾川・アブチ川
石アーチ橋
(石灰岩)
長3.4m(A),
長?m(A)
1597年頃
市史跡
WEB
復元と修景の合体(北橋の復元は平成10)=大規模な公園化
首里城と浦添・中頭・国頭方面を結ぶ宿道の一部/アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は布積の変形
2
B
当山の石畳道
とうやま
浦添市
石畳道(石灰岩)
長約200m,
幅3-4.5m
17世紀後半頃
市史跡
WEB
琉球王国時代、首里城と沖縄本島中部を結ぶ中央街道の一部/地元で「馬転がし(ウマドゥゲーラシ)」などとよばれていた
1
B
あさと原の印部石「ス」
あさとばる
浦添市
仲間後原
印部石(砂岩)、印部土手
高44㎝,幅21㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.150
完形(再整備?)/円形の印部土手(径1.2m,2.4mの二重の環石に囲まれる)
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ス、あさと原」と刻まれている/「ス」はいろは順
2
B
沢岻ヒージャー
たくし
浦添市
石積井(湧水)
10世紀頃→石積
市史跡
WEB
1999年に復元整備
1000年の歴史と解説板には書いてあるが、実際は不明
3
B
西原東ガー
にしはら・アガリ
浦添市
石積井(湧水)
15世紀初頭→
18世紀初頭に石積
市史跡
WEB
カーの前にヒンプンがあるのが特徴/小規模
1
C
仲間ヒージャー
なかま
浦添市
石積井(湧水)
1731年以前→
1935年に水タンク設置
市史跡
市教委
2009年に復元整備
ヒージャーとしては、最古級の起源切石で囲まれている
2
B
赤皿ガー
あかざら
浦添市
石積井(湧水)
琉球王国時代
市史跡
WEB
当時のまま
赤い皿で国王が水を飲んだという故事に因んだ命名/ごく小規模/安波茶橋の下流
1
-
安波茶樋川
あはちゃ・ヒージャー
浦添市
石樋井(流下式水源)
不明
市史跡
WEB
荒れた感じ→
写真
は復元工事中
石の樋(溝)で引水/両側に小石垣/小規模
2
C
大田坂の石畳
ウフタ・ビラ
うるま市
石畳道(石灰岩)
長約300m,
幅2-3m
1800年頃
市史跡
WEB
オリジナル分(摩耗した石)は100m/後は戦後の復旧
あかばんた掟、玉城親雲上、上門小ビニーの3人の企画と設計で施工/石が密集して置かれ、平坦に敷き詰められているわけではない
2
B
赤道原の印部石「ノ」
あかみちばる
うるま市
赤道
印部石(細粒砂岩)
高34㎝,
幅24.5㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.97
完形
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ノ、赤道原」と刻まれている/「ノ」はいろは順
2
C
□
原の印部石「タ」
(
□
は欠字の意味)
うるま市
伊礼原
印部石(石灰岩)
高20㎝,幅27㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.95
完形(上部欠損)
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「タ、□原」と刻まれている/「タ」はいろは順
3
C
印部石「タ」
うるま市
具志川環状線トンネル上
印部石(細粒砂岩)
高38㎝,幅30㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.101
道路新設の際、下部にトンネルを造って復元保存/荒れた感じ
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「タ」と刻まれている/「タ」はいろは順
4
C
与佐次河
ユサチ・ガー
うるま市
(平安座島)
石積井(湧水)
1736年、あるいは、1799年
市有形民俗
WEB
RC屋根が雰囲気を壊す
3面を石積壁で囲んだ立派な井戸
3
B
東恩納古河
ひがしおんな・クガー
うるま市
掘抜井(石積)
18世紀?
WEB
4段の円形の掘り抜き井戸の周囲を、さらに円形の石垣で囲った、沖縄でも珍しい形態
2
A
上原の万川
うえはら・ヤンガー
うるま市
(宮城島)
石積井(湧水)
1849年頃→大正4年改修(屋根を付けた)
市建造物
WEB
RC屋根が雰囲気を壊す
現役泉からの導水部は、トンネル状に石が組まれている背面の石組も見事/信仰の対象/水源と洗い場に分かれている
3
B
田場ガー
たば・ガー
うるま市
石積井(湧水)
不明
市史跡
WEB
1999年上部崩壊→2004年復元直上に道路のガードレール
湧きロを囲んだ二つの池と水神を祭った祠、池の水貯めをするマグサ、歩き道の石敷、二箇所の降り口、洗濯場、シッティからなる
2
A
犬名河
インナーガー
うるま市
(伊計島)
<石積井>(湧水)
不明
市史跡
WEB
外観は完全にRC建造物(破損)/清冷な水
伊計島唯一の水源/崖下の海岸にある
3
B
比屋根の魚垣
ひやごん・ながき
沖縄市
魚垣(石垣)
不明
市教委
岬の先端に点々と残る
沖縄本島では珍しい
2
B
さく原の印部石「さ」
さくばる
沖縄市
美里
印部石(細粒砂岩)
高56.5㎝,幅29㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.106
移設(2面をブロック塀で囲まれ、台座はコンクリート)
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「さ、さく原」と刻まれている/「さ」はいろは順
4
C
室川井
むろかわ(ムルカー)・ガー
沖縄市
沖縄市役所・北西
石積井(湧水)
不明
市史跡
市教委/WEB
昭和3年改修(上段がコンクリート化)
全体を掘り込んだ大型湧水泉
2
B
セークガー
沖縄市
美里公民館・南
石積井(流下式水源)
不明
市史跡
WEB
直上に駐車場
引水してきた水を、石積井戸から流下させる2つの取水溝と四角の「のぞき穴」がある
2
C
美里ヒージャーガー
みさと
沖縄市
石積井(湧水)
不明
市史跡
WEB
昭和初期まで飲料水として使われた
ヒージャームンチュウが使用した井戸との伝承がある
2
C
野嵩の石畳道
のだけ
宜野湾市
<中頭郡東海道の支道>
石畳道(石灰岩)
長さ約120m→
60m,幅2.5m
1458年以前(伝説)→
18世紀後半に宿道化
市史跡
市教委/WEB
県道29号線の完成により下半分のみ残る
琉球王府時代に整備された首里と各間切(まぎり)の番所(ばんじょ)を結ぶ公道/30㎝内外の丸味を帯びた石を敷き詰める(かなり凸凹)
3
C
たけたう原の印部石「ワ」
はけたうばる
宜野湾市
伊佐
印部石(細粒砂岩)、印部土手
高42.5㎝,幅30㎝
1737-50年
市史跡
沖縄の印部石p.127
完形/円形の印部土手(径約186㎝)も残る
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ワ、たけたう原」と刻まれている/「ワ」はいろは順
1
B
いしみ祢原の印部石「井」
いしみねばる
宜野湾市
佐喜真美術館入口の亀甲墓・裏
印部石(細粒砂岩)
高27.5㎝,幅28㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.135
完形/移設?
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「井、いし/み祢/原」と刻まれている/「井」はいろは順
2
C
森の川
(ムイヌカー)
もりのかわ
宜野湾市
森の川公園
石積井(湧水)
1372年(伝説)→1725年
県名勝
市教委/WEB
大規模な修復
王族伊江家によって建造伊江家の中山王の功績を讃えるため建造した複雑な構造の大型井戸/昭和20年の大戦で破壊したが住民によって修復
2
A
真玉橋遺構
マダン
豊見城市
<真珠道/国場川>
石アーチ橋
(石灰岩)
長約38m(5A)→
(A+A)
1708年→1837年大改修→沖縄戦で崩壊→
2002年旧橋の遺構が発見・2基分が部分保存
市建造物
市教委/WEB
2ヶ所に分けて移設・保存オリジナルの石材が残るのは一方のみ/修景+大きな解説板
首里城と那覇港を防御する目的で、尚真王によって架けられた橋/古い迫石が残っている方のアーチ部は、5枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積
2
A
辺野古一里塚
へのこ
名護市
一里塚(2基)
(石積+土盛)
1610-46年
市史跡
WEB
2基のうち1基は道路工事のため移設・復元/塚木はない
慶長15(1610)に家康から琉球の支配権を承認されたのを受けて、薩摩藩が設置を命じたと思われるが詳細は不明/「正保国絵図」(1646)に記載されている/円筒状の石積みの上に土盛り(石積が恐らく当初からのもの?)/近接して2基残っている
2
B
三府龍脉碑記
さんぷりゅうみゃく
名護市
名護博物館
石碑(隅丸型)
1750年
県有形
(歴史資料)
名護博物館/WEB(みさき道人)
沖縄戦で所在不明→幸地川の河床から破片の一部が発見
(正面)「三府龍脉碑記/竊惟天分星宿地列山川而天地列相孚之美誠莫切焉故在地成形者峙而為山岡瓏阜散而為/平原郊濕皆莫非二氣之凝布矣是以察岡瓏之所来則知平原之發跡所謂萬山一貫是也吾/國三府四十一縣岡瓏平原分合向背成乎虎伏龍蟠之勢得乎同幹異枝之宜而龍脉綿綿大/顯天然之姿是誠萬世洪福之國也前古/天孫氏首出闢國始建/王城於首里府是由神眼之所相豈係常人之臆度奈至後世妄懐愚見或有言曰首里嶇岨不若/名護平担之為愈或有言曰屋部港自西横東古我地港自東横西而其間唯有一丘爲隔矣國/頭羽地及大宜味三縣船隻遠經郡伊二嶋屢爲海風所阻何不劈開是丘而與船隻往還之便/也云爾鳴呼/王城及是丘悉皆微茫龍脉之所累豈可妄移/王城於他方乎豈可妄劈是丘而作水路乎今帰仁本部二縣唯頼是丘一脉而爲三府一體三府/亦頼是丘一脉而保球陽雄勢若劈是丘而作水路則二縣龍脉不唯不相属球陽却失大體雄/勢也必矣方今/君主生質天縦徳學日新思之深慮之切特命臣温以鐫斯文於碑石永俾後人知龍脉之係乎邦家/景運而有萬山一貫之理矣 旹」/18世紀中頃に名護湾~羽地内海を結ぶ運河開削を望む声が上がったのを制止するため蔡温が建てた碑文
3
B
改決羽地川碑記
かいけつ、
はねじ
名護市
名護博物館
石碑
(蒲鉾型、砂岩)
高134㎝,幅57㎝
1745年→1830年再建
県史跡
WEB(みさき道人)
移設/記念碑が残っているだけで、事業そのものは、視認不可
(正面)「改決羽地川碑記/蓋以國家之事千態萬般其端無窮而其大要唯在於務本而己故曰凡事皆湏務本夫民者國家之本/而安其心者即政法之本也然則為民防患興利者乃君相本分之要務也窃惟山北羽地郡田畝最廣/内有大川源出于東南萬山之間流達西北轉抵運天以通乎海而其曲直殆與水性相逆毎値大雨横/流汎溢屢壊田畝而庶民不堪修葺之役然而往往國人任意決川嘗無以知水性順逆之法者但毎年/川澮値雨即敗値敗即修而人民不堪其憂也非一日矣雍正乙卯秋七月間暴雨大降川水奔騰民田/盡敗無力可施不啻庶民憂之/君相亦深憂之於是/特命法司官蔡温改決其川以防庶民之憂爰蔡法司即率官僚至于羽地度其地勢審其順逆朝出夕歸悉/従治水之法改決其川以致順流重修田畝而正經界且構橋四座使民得往来之便所謂双亀橋者是/也鳴呼偉矣非特一時之功實萬世之利也自本年八月念三日經之營之至十一月十七日既告其成/焉自今以往居者無泛濫之憂行者鮮褰裳之苦春耕夏耨隨時務業而萬姓咸忻百官具慶僉曰/明君錦福履于億萬斯年遍歡呼于三十三嶋風調雨順物阜民安未有如今日之盛者也茲文龍奉/憲令記之不敢以固陋辭因述決川之顛末使知/君相務本之治人民永安之盛矣爰勒諸石以埀不朽云」/1735年の大水害に対し、蔡温(三司官=宰相、風水思想)が10万人を動員して3ヶ月で行った河道変更事業の記念碑
2
B
うちはら原の印部石「や」
うちはらばる
名護市
古我知
印部石(緑色片岩)、印部土手
高48㎝,幅28㎝
1737-50年
市史跡
沖縄の印部石p.45
完形/径1.2mの印部土手が良好に残る
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「や、うちはら原」と刻まれている/「や」はいろは順
1
A
さんたち原の印部石「ね」
さんたちばる
名護市
瀬嵩
印部石(砂岩)、
印部土手
高26㎝,幅28.5㎝
1737-50年
市史跡
沖縄の印部石p.60
完形/印部土手が斜面に残る
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ね、さんたち原」と刻まれている/「ね」はいろは順
1
B
かうち原の印部石「ウ」
かうちばる
名護市
東江区幸地
印部石(砂岩)
高37㎝,幅23.5㎝
1737-50年
市史跡
沖縄の印部石p.67
ほぼ完形
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ウ、かうち原」と刻まれている/「ウ」はいろは順
2
C
印部石「ホ」
名護市
我部祖河
印部石
高20㎝,幅20㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.56
/市教委
原位置/木の根に「ホ」しか読めない
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ホ」と刻まれている/「ホ」はいろは順
2
C
しれ原の印部石「と」
しればる
名護市
源原
印部石(石英斑岩)
1737-50年
沖縄の印部石p.52
/市教委
原位置/パイン畑内/雑草が繁茂し、2005年の現地調査で未確認
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「と、しれ原」と刻まれている/「と」はいろは順
3
C
てま原の印部石「チ」
てまばる
名護市
後原の墓地
印部石(砂岩)
高29㎝,幅23.5㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.61
/市教委
移設/Cに埋め込み
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「チ、てま原」と刻まれている/「チ」はいろは順
3
C
印部石「ム」
名護市
後原の墓地
印部石(砂岩)
高48㎝,幅19㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.66
/市教委
移設/Cに埋め込み
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ム」と刻まれている/「ム」はいろは順
3
C
垣花の石畳
かきのはな
南城市
石畳道(切通し部を含む)
長約250m,
幅約1m
14世紀前半?
WEB
保存状態良好
垣花城~垣花樋川を結ぶ石畳/急勾配
1
B
垣花の石畳のナカユクイ
(中休み)石
かきのはな
南城市
中休み石(2ヶ所)
14世紀前半?
WEB
保存状態良好
樋川から垣花の集落に水を運ぶ女達が一息入れるために腰掛けた石
1
C
垣花樋川
かきのはな・ヒージャー
南城市
石積井(湧水)
先史時代→
その後の改修(時期不詳)
WEB
何度も改変を経て、旧状は不明
沖縄で、最も古い歴史をもつ湧水
3
A
ウマアミシー(馬浴)川
かきのはな
南城市
水浴場
時期不詳
WEB
保存状態は良好
垣花樋川の下流にある水たまり/馬に水を飲ませたり、馬の体を洗った場所
2
C
漲水石畳道
はりみず
宮古島市
(宮古島)
石畳道(石灰岩)
長約25m,
幅約4.5m
1696年の大地震後
市史跡
現地解説板/WEB
度重なる改修で、長さは当初の3分の1に
1696年の大地震後、全島的に道路幅を2間半に拡幅
2
-
池田矼
いけだ・はし
宮古島市
(宮古島)
<下地矼道/崎田川>
石アーチ橋
(石灰岩)
長36→約10m,S2.5m(A)
1727年以前→1817年修築
県有形
現地解説板/WEB
アクセス路の石垣の大半が喪失/対岸が製糖工場で遮断/コンクリート製の低い高欄
アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は布積の変形
3
B
佐和田浜の魚垣
さわだ・かつ
宮古島市
(下地島)
魚垣
(放射状、石垣)
長300m+60m,
高1-0.5m
1850年頃
市有形民俗
現地解説板/WEB
右側の石塁が200m以上欠損/石塁が低いため小干潮程度では水没して見えない
築造者:善平マツ/周囲を石で囲み、満潮時に魚が垣内に入り、干潮時に1ヶ所しかない出口に網を張り、魚を採るための施設/「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定
2
B
下地島巨岩
(帯岩、オコスクビジー)
しもじ
宮古島市
(下地島)
津波石
約20000t/径59.9m,高12.5m
1771年
市史跡
WEB
保存状態良好
日本最大の津波石/シャコ貝の化石の炭素14等による年代測定はAD1200-1300年→明和の大津波と推定
1
ヌグスクガー(野城泉)
宮古島市
(宮古島)
福富集落の北東の丘陵
石積井(湧水)
13-14世紀頃?
市史跡
現地解説板/WEB
石積みの年代は不明/泉池全体を大木が覆う/水量多い
野城(グスク)の按司集団が利用?/2つに仕切られている(使用目的の違い?)
1
B
白明ガ
ー
スサカ
宮古島市
(宮古島)
平良市街地
洞井(湧水)
13-15世紀
WEB
昭和18に海軍が上水道の水源として利用/パイプが林立
自然洞窟
1
C
クスヌカー(後の井)
宮古島市
(宮古島)
石積井(海岸崖下の湧水)
14世紀頃
市有形民俗
現地解説板/WEB
保存状態良好(崖下まで降りていくのが大変)
宮古島に多い海岸崖下タイプ/大嶽按司が開削したとの伝承(同時に掘られたマイヌカー〔前の井〕は自衛隊の基地内)/鉄器の伝来や集落の歴史(民俗行事シツ)と深く関わる/垂直に積み上げられた筒状の石壁が特徴
1
B
ミヌズマ遺跡の井戸
宮古島市
(宮古島)
<西美野集落、美野集落、美野我麻集落>
掘抜井(円形)
径1m,深8m
14世紀中頃以前
市史跡
現地解説板
井戸そのものより、周辺の石積の方がよく保存されている
14世紀中頃に戦乱で消滅した村の遺構
2
C
盛加ガー
ムイカ
宮古島市
(宮古島)
平良市街地
洞井(湧水)
深17.5m
14世紀後半との説も
市史跡
現地解説板/WEB
保存状態良好
大規模な自然洞窟/103段の石段
1
A
キャーザガー
宮古島市
(宮古島)
<新里元島集落>
洞井(湧水)
14-17世紀
市有形民俗
WEB
保存状態良好
自然洞窟/水源直上の天井にも穴が開いていて、内部が明るい
2
C
フ
ナハガー
宮古島市
(伊良部島)
洞井(湧水)
1430年頃
市史跡
現地解説板
昭和36頃から製糖工場の水源として利用→パイプが林立
湧水発見当時のフナパ村に由来した名前/小規模
3
C
神里ガー
かんざと
宮古島市
(伊良部島)
石積井(不定形)
1430年頃以降(発祥の起源)
市史跡
現地解説板
整備されているが、周囲の柵が邪魔
神里=「神様の集まる処」の意味/集落の唯一の井泉として村の形成に大きな影響/今でも「生まれ元島の水」として神事に使われている/平地の開放的な井戸としては大規模
2
B
ダキフガー
宮古島市
(伊良部島)
掘抜井(円形)
径2.3m,深3.5m
1500-1700年頃
市史跡
現地解説板
C製の蓋が被せられ、石がわずかに見えるのみ
周辺に竹のようなダキフが生えていたことに由来した名前
4
C
ンナカガー
宮古島市
(宮古島)
石積井(円形)
不明(かなり古い)
市史跡
WEB
井戸近傍に新道の石擁壁
沖縄に4つある古い井戸の区分の3番目の「元島井戸」の代表的残存例/普通に使われている「村井戸」よりは古い存在/ほぼ円形に粗っぽく石積みされた平地の開放的な井戸
2
C
イスゥガー(磯井)
宮古島市
(宮古島)
洞井(海岸崖下の湧水)
不明(かなり古い)
市有形民俗
WEB
保存状態良好(崖下まで降りた後に、海岸沿いに歩く必要があり、干潮時しか接近不能)
宮古島に多い海岸崖下タイプ/狩俣集落の発祥にかかる井泉/ムラの祭祀と深くかかわっている/自然洞窟
2
C
ウプカー(大川)
宮古島市
(宮古島)
平良市街地
石積井(不定形)
1717年以前
市史跡
現地解説板
平成16に発掘→その割に、石垣・水面とも草で覆われ荒れた感じ
牛馬専用の井戸=きわめて珍しい
2
B
サバウツガー
(鯖沖井)
宮古島市
(伊良部島)
石積井(海岸崖下の湧水)
径1.5m,深4.5m
1720年
市史跡
現地解説板/WEB
昭和41まで生活用水として使用/新規に階段が整備されアクセスが容易
宮古島に多い海岸崖下タイプ/池間島からの強制移住させられた佐良浜の人々の生活用水として240年にわたり使われてきた井戸→丘陵上から崖下の海岸まで124段の簡易な石段で降りる大変な労働だった/円形に丁寧に積まれた石
2
B
大和ガー
やまと
宮古島市
(宮古島)
平良市街地
洞井(切石積、湧水)
周囲の地表面から10m以上低い
1720年頃
国史跡
現地解説板/WEB
保存状態良好
大規模な半地下式の洞井(自然岩盤を切石積で補強・整形→井戸の周りに相方積みの石垣)/通路には20段の階段を設置/首里王府派遣の一部役人だけが使用したとされる
1
友利のアマガー
ともり
宮古島市
(宮古島)
城辺町
洞井(湧水)
深20m
1727年以前
県有形民俗
現地解説板/WEB
保存状態良好/昭和40まで生活用水として使用
自然洞窟=自然洞窟内の湧水を階段で汲みに行く方式のガーとしては最大規模/日々の苦労が偲ばれる
1
金志川泉
キィキャー・ガー
宮古島市
(宮古島)
<きんす川村>
洞井(湧水)
1727年以前
市史跡
現地解説板
保存状態良好/潮の干満によって海水が入り込む
自然洞窟(人間の手は、簡易な通路だけ)
1
C
山川ウプカー
やまかわ
宮古島市
(宮古島)
湧水(海岸崖下)
1727年以前
市有形民俗
現地解説板
昭和40まで生活用水として使用/きれいな湧水が出ている/湧水を貯める部分の保存状態が悪い/崖下まで降りていくのが大変
宮古島に多い海岸崖下タイプ
2
C
来間川
くりま・ガー
宮古島市
(来間島)
来間集落東の崖下
石積井(海岸崖下の湧水)
不明
市史跡
現地解説板
1番(水汲み)の一部に修築(復元?)/昭和50まで生活用水として使用
宮古島に多い海岸崖下タイプ/1番(水汲み)、2番(水浴)、3番(洗濯)の3つの部分にはっきり分かれている=3つの部分に完全分離している例はきわめて稀/丘陵上から崖下まで約100段の簡易な石段で降りる大変な労働だった
2
B
ムイガー
宮古島市
(宮古島)
湧水(海岸崖下)
不明
現地調査
C堰堤で水を貯めている(近代の改修)
宮古島に多い海岸崖下タイプ/高さ60mの断崖の直下にある水量の多い湧水
2
B
七又ミーマガー
ななまた
宮古島市
(宮古島)
七又集落の東南600m
湧水(海岸崖下)
不明
市有形民俗
現地解説板
急勾配の断崖の危険なアクセス路
宮古島に多い海岸崖下タイプ/断崖を降りた海岸の岩場に貯まった水/七又集落にとって唯一の水源であり、毎日の水汲み作業は困難を極めた
1
C
アナガー
宮古島市
(宮古島)
宮国村
洞井(切石積、湧水)
不明
市史跡
現地解説板/WEB
水汲み場はC改修
自然洞窟/旧名称・東井
2
C
アマガー
宮古島市
(宮古島)
宮国村
洞井(湧水)
不明
市史跡
現地解説板/WEB
昭和37頃まで生活用水として使用
自然洞窟(小規模)
2
C
ヌガナガー(野加那泉)
宮古島市
(宮古島)
比嘉集落の西約500m
石積井(馬蹄形、2段式)
約5m×4m,
石垣高1.7m
不明
市有形民俗
現地解説板/WEB
昭和40まで生活用水として使用/石垣が草で覆われている
飲料水→牛馬洗い→水田用と分かれていたとされるが、現状からは想定しにくい
2
C
アラガー
宮古島市
(伊良部島)
石積井(円形)
径1.8m,
深4-4.5m
近世以前?
→近世(大親時代)の改修
市史跡
現地解説板/WEB
周囲が高い柵で覆われ、内部は放置状態
鳩が雑木林に出入りしていることから発見されたという伝承にちなんで、「鳩見付きカー」とも呼ばれる
3
C
池間遠見番所
いけま
宮古島市
(池間島)
池間島南端の小高い丘陵上
遠見台、火番盛
(円形)
1644年以降
国史跡
現地解説板/WEB
保存状態良好
先島諸島の火番盛群/岩盤を利用して、その上に円柱状に石を積み、登り降りするための石段が設けられている/海の見晴らしもいい大型の遠見台
2
A
来間遠見番所
くりま
宮古島市
(来間島)
来間集落東の崖上
遠見台、火番盛
(方形・切石積)
高約3m
1644年以降
国史跡
現地解説板/WEB
陸軍による補強で、上部の保存状態が悪い
先島諸島の火番盛群/岩盤を利用して、その上に円柱状に石を積み、登り降りするための石段が設けられている/大型
3
A
砂川遠見番所
(トゥンカイフツイス)
すながわ
宮古島市
(宮古島)
城辺町砂川の上比屋山の南端
遠見台、火番盛
(方形・切石積)
7m×4.5m,高1m
1644年以降
国史跡
現地解説板/WEB
石積みの残りが悪い
先島諸島の火番盛群/布積風の加工は珍しい/崖を削った階段
3
B
狩俣遠見番所
かりまた
宮古島市
(宮古島)
狩俣集落後方の海岸線に沿った丘陵上
遠見台、火番盛
(方形)
1644年以降
国史跡
現地解説板/WEB
明治末まで使われていたため保存状態が悪く、矩形の番所跡が、かろうじて推測できる程度
先島諸島の火番盛群/大神島がよく見える/残る石塁は不規則/方位石(別項目)が残る
4
B
島尻遠見番所
しまじり
宮古島市
(宮古島)
島尻集落北東部の丘陵上
遠見台、火番盛
(方形)
海側を石塁,陸側を石垣とした矩形の番所跡
1644年以降
国史跡
現地解説板/WEB
矩形の番所跡が、割と明確に推測できる状態
先島諸島の火番盛群/石積は小規模
3
B
狩俣遠見番所の方位石
(ピャイイス)
かりまた
宮古島市
(宮古島)
<狩俣遠見番所>
方角石(円形)
1644年以降
国史跡
現地解説板
石灰岩のため風化が目立つ
宮古島周辺の遠見番所には方位石が付随しているものが複数あるが、その中で最も明確な形で残る/日本最古の方角石の1つ(これまで国内最古と言われてきた「大的矢の初代方角石」もしくは「輪島の日和山方角石」より半世紀は古い)
2
A
島尻遠見番所の方位石
しまじり
宮古島市
(宮古島)
<島尻遠見番所>
方角石(円形)
1644年以降
国史跡
現地解説板
石灰岩のため風化が目立つ
同上/ただし、形態から方位石と推定できる程度
3
B
真井
マーガ
(国頭)伊江村
(伊江島)
<共同井戸>
石井戸
径5-6m
18世紀中頃
村有形民俗
WEB
井戸の開口部が、Cで覆われている
幼女のマリ遊びによって発見された泉/大型の共同井戸
3
C
大宜味村の猪垣
おおぎみ・いがき
(国頭)大宜味村
猪垣(石塁)
総延長約1.5㎞
(指定距離1.3㎞),高2.1m-1.2m
1782年改修
村史跡
WEB
樹林中に明瞭に残る
塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘の住民が1776-85年に大改修当時「万里の長城」にちなんで、「十里の長城」とうたわれた
2
B
こすく原の印部石「ゑ」
こすくばる
(国頭)大宜味村
城原
印部石
1737-50年
沖縄の印部石p.15
完形/保存状態は良くない
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ゑ、こすく原」と刻まれている/「ゑ」はいろは順
2
C
つは原の印部石「井」
つはばる
(国頭)大宜味村
津波
印部石
1737-50年
沖縄の印部石p.16
完形/保存状態は良くない
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「井、こすく原」と刻まれている/「井」はいろは順
2
C
あさか原の印部石「ユ」
あさかばる
(国頭)大宜味村
津波
印部石(粘板岩)
高52㎝,幅23㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.13
移設/台座上に記念碑のように設置
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ユ、あさか原」と刻まれている/「ユ」はいろは順
3
C
比屋根坂の石畳
ヒヤゴンビラ
(国頭)恩納村
<国頭方西海道>
石畳道(石灰岩)
長98m,長76.5m
琉球王国時代
国史跡
市教委/WEB
修復(石が摩耗している)/修景復元の多い沖縄で、古さを感じさせる石畳の一つ
史跡・国頭方西海道の一環/比屋根原の丘陵を越えるため、崖を削って造られた石畳道
2
B
山田谷川の石矼
やまださく・いしばし
(国頭)恩納村
<国頭方西海道>
石アーチ橋
(合掌式)(石灰岩)
(A)
琉球王国時代
国史跡
WEB
修復復元
合掌状の2枚板アーチ/史跡・国頭方西海道の一環/国頭方西海道の国指定化に合わせて修復(橋、街道の階段と石畳、橋下の石擁壁が一連で残る)
2
B
真栄田一里塚
まえだ
(国頭)恩納村
<国頭方西海道>
一里塚(2基)
琉球王国時代→復元
国史跡
WEB
一部残っていたものを、嵩上げして復元/現在、松はない
史跡・国頭方西海道の一環/炭と土を積み固め、その上に琉球松を植えていた/現存する、数少ない沖縄の一里塚の一つ
3
B
中泊一里塚
なかどまり
(国頭)恩納村
<国頭方西海道>
一里塚(2基)
琉球王国時代
国史跡
WEB
住宅地に呑みこまれている
史跡・国頭方西海道の一環/人家の中に埋没し、1基のみしか接近不可能
4
B
みやこた原の印部石「れ」
みやこたばる
(国頭)恩納村
都田原
印部石
高32㎝,幅24㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.86
完形
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「れ、みやこた原」と刻まれている/「れ」はいろは順
2
B
かうち原の印部石「う」
かうちばる
(国頭)恩納村
幸地原
印部石
1737-50年
沖縄の印部石p.80
完形(中央に亀裂)
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「う、かうち原」と刻まれている/「う」はいろは順
3
C
山田のメーガー
やまだ
(国頭)恩納村
石積井(湧水)
(通路を石垣が囲む)
15世紀起源?
WEB
ほぼ原形
歴史は古い/3面を石垣にした小規模な井戸
1
C
カンジャガー
(国頭)恩納村
石積井(流下式水源)
琉球王国時代
村有形民俗
WEB
コンクリートの覆いと鉄柵付き/清冷な水
石造の小型井戸(流し場を伴う)/住民の信仰の対象
3
C
高松のカチバ
たかまつ
(カイクン)
(国頭)宜野座村
松田地区
猪垣(土塁)
約2.3㎞→
1.2㎞,高約1m
琉球王国時代
市教委/
WEB(みさき道人)
猪垣→保安林
土塁の上にテーブルサンゴ石や竹槍を刺し、島竹を植え、猪が土塁を越えないよう工夫されていた
2
B
漢那のカチバ
かんな
(国頭)宜野座村
漢那地区
猪垣(土塁)
集落全体→
約350m,高約1m
琉球王国時代
市教委/
WEB(みさき道人)
東側に一部残るだけ
低い土塁と密生した木だけの簡単な構造
3
C
いたの印部石「と」
(国頭)金武町
伊芸平田原
印部石(緑色千枚岩?)、印部土手
高50.5㎝,幅35㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.79
転倒/径2.3m,高50㎝の印部土手が残る
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「と、いた」と刻まれている/「と」はいろは順
3
B
茶川
サーガ
(国頭)金武町
湧水
琉球王国時代?
町史跡
WEB
四角の囲いはコンクリート製
石灰岩基盤の多孔質より湧出る水を、囲いに引いた井戸
3
C
屋嘉の大井戸
やか・ウフカー
(国頭)金武町
石積井
琉球王国時代?
町有形民俗
WEB
屋根は後付け周囲の囲いもコンクリート製/ゴミが散乱→機能停止
屋嘉の村カーとして構築(石積みの掘り下げ井戸)
4
C
名古川の泉
ナコオガー
(国頭)金武町
井戸?
琉球王国時代?
町史跡
WEB(みさき道人)
S37に上水道が普及し使われなくなった/C枠/金網で覆う
琉球王国時代の国頭方西海道に隣接
4
-
蔡温松並木
さいおん
(国頭)国頭村
辺戸蔡温松並木保全公園
松並木
約30m
琉球王国時代
(1761年までの18世紀)
WEB
ほとんど枯死
蔡温(三司官=宰相、風水思想)が薩摩侵攻で疲弊した琉球経済の復興に尽力した頃に植えた松並木
4
B
ひやた原の印部石「シ」
ひたやばる
(国頭)国頭村
印部石(自然石)
1737-50年
沖縄の印部石p.11
完形
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「シ、ひやた原」と刻まれている/「シ」はいろは順
3
C
ひち原の印部石「ゐ」
ひちばる
(国頭)国頭村
比地
印部石(自然石)
高40㎝,幅26㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.10
上部欠損/石の周囲が人工的に囲われている
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ゐ、ひち原」と刻まれている/「ゐ」はいろは順
3
C
辺戸大川
ヘド・ウッカー
(国頭)国頭村
水汲み場
琉球王国時代
WEB
首里王府と関わる重要な祭祀場/5月と12月に御水取りが行われる
1
C
仲原馬場
なかはら・ばば
(国頭)今帰仁村
競馬場の松並木
長約250m×
幅約30m
18世紀初頭
県史跡
WEB
昭和初期頃までは競馬が行われていた/松の枯死が止まらない
蔡温によって植えられた、競馬場の周囲の松並木(農村における民俗行事や畜産奨励のための競馬)/本島内に現存する唯一の馬場
2
B
いれ原の印部石「ヲ」
いればる
(国頭)今帰仁村
(古宇利島)
古宇利
印部石、
印部土手の一部
高50㎝,幅30㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.22
完形/円形の印部土手(石積み)も残る
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ヲ、いれ原」と刻まれている/「ヲ」はいろは順
1
B
いれ原の印部石「オ」
いればる
(国頭)今帰仁村
(古宇利島)
古宇利
印部石
高57㎝,幅23㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.25
完形/印部土手は崩壊
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「オ、いれ原」と刻まれている/「オ」はいろは順
2
B
あらさき原の印部石「ほ」
あらさきばる
(国頭)今帰仁村
印部石
1737-50年
村教委
周辺にC塊/原位置かどうか不明
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ほ、あらさき原」と刻まれている/「ほ」はいろは順
3
C
いれ原の印部石「さ」
いればる
(国頭)今帰仁村
(古宇利島)
古宇利
印部石
1737-50年
村教委
剥き出しで転倒
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「さ、いれ原」と刻まれている/「さ」はいろは順
3
C
あかれ原の印部石「に」
あかればる
(国頭)今帰仁村
(古宇利島)
印部石
1737-50年
村教委
剥き出しで転倒
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「に、あかれ原」と刻まれている/「に」はいろは順
3
C
ふかさく原の印部石「ヰ」
ふかさくばる
(国頭)今帰仁村
平敷
印部石
1737-50年
沖縄の印部石p.37
下部欠損/原位置かどうか不明
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ヰ、ふかさく原」と刻まれている/「ヰ」はいろは順(「ゐ」のカタカナ)
4
C
古宇利火立所
こうり・トウミヤー
(国頭)今帰仁村
(古宇利島)
田園空間博物館
遠見台、火番盛
1644年以降
村有形
WEB
周辺を公園化
先島諸島の火番盛群とは別系列の逢火台/一枚岩を利用した琉球では珍しい形態
1
B
(国頭)東村
伊野波の石くびり
いのは(ヌファ・ヌ)
(国頭)本部町
道路
長120-130m
(石くびりはこの一部),幅約1m
琉球王国時代
町指定
WEB
公園化されているが、「石くびり」はほんの僅か/石ころ道の坂道
所々階段状に石が並べられた細い山道(ごく一部)/伊野波節(琉球舞踊の代表的な踊りの)の琉歌で知られる石坂道
3
B
備瀬のフクギ
びせ
(国頭)本部町
備瀬集落
並木、防風・防潮
・防火林
集落全体
琉球王国時代
町指定
WEB
観光地化/補植も多い
屋敷の防風林として整備されたのが起源/防風・防潮・ 防火林/集落の路地の両側にフクギが植えられた独特の景観が延々と続く/一部に土手も残る
1
A
番屋跡(遠見台)
(島尻)粟国村
(粟国島)
遠見台、火番盛
高さ1.5mほどの石垣上に低い盛土がのる構造
1644年以降
村史跡
WEB
/現地解説板
保存状態良好
先島諸島の火番盛群とは別系列の逢火台(異国船等を見た場合は、ヒータティヤーから松明で慶良間諸島に知らせた)/島で一番高い海抜96mの丘上
1
B
サムレー道
(侍道)
の石畳
(島尻)伊是名村
(伊是名島)
石畳道
長約2㎞
琉球王国時代
村史跡・
名勝
WEB/村教委
全長にわたって石畳がそのまま残る
伊是名集落にある銘苅家とグスク跡を結ぶ旧道
1
金丸の逆田
かなまる、
さかた
(島尻)伊是名村
(伊是名島)
棚田
面積946㎡
15世紀前半
村史跡
WEB/村教委
現役の水田
第二尚王統の開祖尚円王が、伊是名島で耕作していた水田/水飢饉の際にも枯れなかったと言われる(尚円王のために村の娘達が密かに下流から水をくみあげた、という言い伝えがある)
1
C
伊是名集落の石塀とフクギ並木
いぜな
(島尻)伊是名村
(伊是名島)
伊是名集落
石塀(珊瑚石)、
フクギ
集落全体
不明
WEB/村教委
島の原風景がよく保存されている
珊瑚石は沖縄の島嶼部の典型、フクギ
は防風林
1
A
潮平井
スンジャ・ガー
(島尻)伊是名村
(伊是名島)
尚円王御庭公園
石積井(湧水、半月型)
径約3m
1415年以前
村史跡
WEB/村教委
全体が金網で覆われている/内部は未調査で詳細不明
第二尚王統の開祖尚円王が生まれてすぐ浸かったとの伝承がある
3
C
アーガ山の逢火台
(火立所)
(島尻)伊是名村
(伊是名島)
遠見台、火番盛
1644年以降
村史跡
WEB/村教委
雑草に覆われ到達困難
先島諸島の火番盛群とは別系列の逢火台/小規模な土盛り
4
-
(島尻)伊平屋村
(伊平屋島)
(島尻)北大東村
(北大東島)
宇江城城跡の碇石
うえぐすく
(島尻)久米島町
(久米島)
久米島自然文化センター
碇石(花崗岩)
長213㎝
宗~元代(10-14世紀)
町考古資料
久米島博物館
平成4に宇江城城跡で発見/屋内展示
全長35m前後の外洋船用の碇/久米島周辺の交易の状況を知る上で貴重な手がかりとされる
2
C
仲里間切の蔵元跡・石牆
なかざとまぎり、くらもと、せきしょう
(島尻)久米島町
(久米島)
<琉球王朝時代の役所>
石塀
(方形、石灰岩)
長177.5m,高3m
前後,厚1.2(上)-1.8m(下)m
1763年頃
国重文
久米島博物館
非常に良好な保存状態
門の部分は石を四角に切った布積み、他の部分は自然の石の形を生かしたあいかた積み/アーチ型の通用門
1
B
西銘の泰山石敢當
にしめ、
たいざん
(島尻)久米島町
(久米島)
石敢當(安山岩、自然石)
高115㎝,幅28-41
㎝,奥行12㎝
1733年
町民俗
日本の石敢當/久米島博物館
保存状態良好
県内最古(沖縄は全国で石敢當の最も多い県だが、紀年銘のあるものは3基しかない)/日本で4番目に古い/前側の中央に「泰山石敢當」、右に「雍正十一癸丑」(1733)、左に「八月吉日」と刻まれている
1
A
具志川遠見番所の方位石
ぐしかわ
(島尻)久米島町
(久米島)
<具志川遠見番所>
方角石(自然石、輝石安山岩)
長90㎝,幅44㎝,高30㎝
1644年以降
久米島博物館
移設(北の向きが刻字方向と異なる)/磨耗して刻字が不鮮明
自然石の上部に十二支の方位が刻字/日本最古の方角石の1つ(これまで国内最古と言われてきた「大的矢の初代方角石」もしくは「輪島の日和山方角石」より半世紀は古い)
2
B
真謝のチュラ福木
まじゃ
(島尻)久米島町
(久米島)
真謝
フクギ並木
(防風林)
長40m,幅3m,
高6m
18世紀中頃
県天然
久米島博物館
県道の拡幅に伴い道路中央に分離帯のような形で保存/刈り込まれている
柴岡家の屋敷林だったもの/六世絜聡の時代に、福木を植えて囲いとしたとの記録がある
2
C
ソナミの逢火台
(島尻)久米島町
(久米島)
遠見台、火番盛
高2.5m,径7m
1644年以降
町史跡
久米島博物館
逢火台跡の大石のみ残る
中国への船の往来に備えたもの/船が見えると渡名喜島へ通報した
3
B
比屋定のウティダ石
(太陽石)
ひやじょう
(島尻)久米島町
(久米島)
太陽観測石
(輝石安山岩)
幅2.1m,高1.4m,
周囲長5.5m
16世紀初頭?
県史跡
久米島博物館
原位置
堂の比屋という人物が日の出を観測した石との伝承/石に寄りかかり島々の位置関係と日の出の位置から季節の推移を知り、播種・植付けの時期などを人々に教えたとされる
1
C
おんたち原の印部石「ひ」
おんたちばる
(島尻)座間味村
(阿嘉島)
真謝原
印部石(細粒砂岩)、印部土手
高57㎝,幅27㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.42
完形/外形1.5m、内径1mの二重の印部土手(高60㎝)が残る
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ひ、おんたち原」と刻まれている/「ひ」はいろは順
1
A
(島尻)渡嘉敷村
(渡嘉敷島)
渡名喜島集落の石塀、フクギ、掘り込み住宅敷地
となき
(島尻)渡名喜村
(渡名喜島)
石塀(珊瑚石)、フクギ、井戸
集落全体
時期不詳
国重伝建
WEB
保存状態やや良好→石塀の近代化が目立つ
細い道路に沿ってほぼ方形の敷地が並び、各敷地は道路面より1メートルほど低く掘り込まれている(防風対策)/敷地境界を石塀(見事な相方積み)で囲み、その内側にフクギを植栽し、防風・防火に備えている
2
すつた原の印部石「れ」
すつたばる
(島尻)渡名喜村
(渡名喜島)
村立歴史民俗資料館
印部石(自然石)
1737-50年
樋口輝久
移設→館内展示
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「れ、すつた原」と刻まれている/「れ」はいろは順
3
C
松川原の印部石「ゐ」
まつかわばる
(島尻)南風原町
南風原文化センターの駐車場
印部石(自然石)
高54㎝,幅28㎝,奥15㎝
1737-50年
WEB(日本の測量史)
C台石上に移設・展示
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ゐ、松川/原」と刻まれている
3
B
大名ヒージャーガー
おおな
(島尻)南風原町
石積井(円形)
径1m
1769年改修
町史跡
WEB
現在も水が湧き出ている
周辺環境を含めて、小規模だがまとまっている/右側の「あいかた積み」が見事
2
C
御宿井
ウスク・ガー
(島尻)南風原町
石積井(円形、洗い場を併設)
径1.2m
1713年以前
町史跡
WEB
井戸(現在は、拝所)コンクリートで補修/鉄網蓋でほとんど見えない
羽衣伝説が残る小型の井戸
4
C
(島尻)南大東村
(南大東島)
慶座井
ギーザ・ガー
(島尻)八重瀬町
石積井(湧水)
上部:15m×15m,深9.5m,下部径7.5m
1854-59年頃
町史跡
WEB
雑草が繁茂して、石垣が隠され、全体像がつかみにくい
3段の石積の上部を土塁で囲んだ大規模な井戸
3
B
前の井
メエヌ・カー
(島尻)与那原町
石積井(半月状)
19世紀初頭
村史跡
WEB
井戸本体が鉄パイプ傘と金網で覆われている
王府から上納成績優秀な村に送られた「御拝領井」
3
B
屋良ヒージャーガー
やら
(中頭)嘉手納町
屋良城跡公園
石積井(流下式水源)
不明
WEB
水源からの通水部はコンクリート
ごく小規模
3
-
水釜の下側井
みずがま・シチャヌカー
(中頭)嘉手納町
堀抜井(円形、石積)
径75㎝
1720年頃
町史跡
町教委/WEB
保存状態は良好/金網で覆う
普通の円形井戸の上部に、半円アーチ形の石積み/かつては、「奥間ヌ前ヌ井戸」と呼ばれ、近隣の飲用に広く使われていた
2
C
イチマシビラの石畳道
(中頭)北中城村
石畳道
長約70m
1851年以前
WEB
保存状態は良好
一部自然に戻っている/小規模
2
C
とくち原の印部石「ニ」
とくちばる
(中頭)北中城村
渡口
印部石(細粒砂岩)、印部土手
高39㎝,幅25㎝
1737-50年
村史跡
沖縄の印部石p.124
完形/サンゴ石灰岩で周囲を囲む(径125㎝)
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ニ、とくち原」と刻まれている/「ニ」はいろは順
1
B
きしやはこし原の印部石「ア」
きしやはこしばる
(中頭)北中城村
屋宜原公民館・前
印部石
高48㎝,幅25㎝,厚12㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.124
完形/移設/
写真
の右(左も印部石だが損壊大のためリスト外)
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ア、きしやはこし原」と刻まれている/「ア」はいろは順
2
B
□
山石敢當
(泰山石敢當)
たいざん
(
□
は欠字の意味)
(中頭)北中城村
石敢當
(砂岩、自然石)
高約102㎝,
幅約38-58㎝
1848年以前
日本の石敢当
日本一石敢当が多い沖縄でも、年代が近世以前と判明しているものは極めて稀/「山石敢當」の刻字が残る=初めは刻んであった「泰」の字を、尚泰王(在位1848-79年)の時代に削った(?)
2
B
チブガー
(チブ井)
(中頭)北中城村
大城集落
石積井(湧水)
(一部2段の矩形)
不明
WEB
保存状態良好
村内のこの周辺では最古の井戸/かつては、ウブガーとして使われた
1
C
イリヌカー
(西井泉)
(中頭)北中城村
大城集落
石積井(湧水)
(1段半円型)
不明
村史跡
WEB
大正11にRC屋根
大城集落の西側住民の飲料用
3
C
喜舎場ウフカー
きしゃば
(中頭)北中城村
喜舎場ウフカー公苑
石積井(湧水)
(3段の半円型)
不明
村史跡
WEB
保存状態は良好/周辺を公園化
集落の割に大規模
2
B
(中頭)北谷町
新垣の石畳道
(ハンタ道)
アラカチ(・ヌ)
(中頭)中城村
首里城と中城グスクをつなぐ道
石畳道(石灰岩)
中世→
1853年以前に石畳化
村教委/WEB
大規模な修景的復元(新規)/若南ビラ石畳は発掘調査部分は目視不可
日本の道百選にも選ばれた、琉球王朝時代を偲ばせる石畳道新垣集落を抜ける道で、若南ビラ石畳~ユームトゥビラ石畳へと続く
4
C
安里のムラガー
あさと
(中頭)中城村
石積井(湧水)
不明
村教委
現役/分かりにくい場所
半円アーチ型の開口部をもつ石組の共同井戸
2
C
中城城のウフガー
(大井戸)〔別名:
バンジュガー(番所井戸)〕
なかグスク
(中頭)中城村
<中城城>
石積井(湧水)
15世紀中起源、現存する石垣は16世紀以降
世界遺産
村教委
保存状態は完璧
開口部上部に巨大で見事な相方積みの石垣/番所井戸という別名から、一の郭に番所があった時代の井戸?
1
B
棚原の石畳道
たなばる
(中頭)西原町
石畳道(石灰岩)
長27m,幅1.8m
不明
町史跡
町教委/WEB
保存状態良好
両側に琉球石灰岩の石垣
1
C
こや原の印部石「ク」
こやばる
(中頭)西原町
呉屋
印部石(細粒砂岩)
高35㎝,幅27㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.165
完形/周囲に根張石も残る
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ク、こや原」と刻まれている/「ク」はいろは順
2
B
まへ原の印部石「ス」
まへばる
(中頭)読谷村
伊良皆東原
印部石(自然石)、印部土手
1737-50年
沖縄の印部石p.112
完形/印部土手も残る/軍用地内(黙認耕作地)
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ス、まへ原」と刻まれている/「ス」はいろは順
2
B
水のたう原の印部石「サ」
みずのたうばる
(中頭)読谷村
読谷村立歴史民俗資料館
印部石、印部土手
高29.5㎝,
幅28.5㎝
1737-50年
沖縄の印部石p.111
移設/
写真
は、喜名東原にあった当時のもの
乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「サ、水のたう原」と刻まれている/「サ」はいろは順
3
B
多良間の抱護林
たらま、
ほうご
(宮古)多良間村
(多良間島)
トゥカバナ山~白嶺山
抱護林
(主体はフクギ)
長約1.8㎞,幅10m
蔡温時代(1728-53)
県天然
現地解説板
保存・整備
蔡温(三司官=宰相、風水思想)が進めた風水思想を取り入れた林政の貴重な残存例/抱護林=「気」が散逸しないようにある村落を樹林で囲むもの/村落や畑の防風・防潮・防火・土砂の流失予防・適度の保温保湿など多くの役割を担っていた/他の島ではほとんど消滅→県下で唯一の遺産
1
シュガーガー
(宮古)多良間村
(多良間島)
洞井(湧水)
15-16世紀?
村史跡
現地解説板
一番奥の飲料用(塩分が混入)までは、入りにくい/
写真
は水浴用
自然洞窟/右側29mに水浴用の泉、その奥に飲料用の泉、左側に牛に水を飲ませえ泉
2
B
アマガー
(宮古)多良間村
(多良間島)
洞井(湧水)
15-16世紀?
村史跡
WEB
昭和の半ばまで暗い洞内を足で探って水を汲んでいた/放置
自然洞窟(入口→水源まで約30m)
3
C
ナガシガー
(宮古)多良間村
(多良間島)
洞井(切石積、湧水)
1600-1700年頃?
村史跡
WEB
金網で囲まれている→接近は可能/保存状態良好
周囲、階段回りに立派な切石積
2
C
フシャトゥガー
(宮古)多良間村
(多良間島)
洞井(切石積、湧水)
1727年と推測
村史跡
WEB
昭和40代まで使用/金網で囲まれている→覗くことは可能
周囲、階段回りに立派な切石積
2
B
八重山遠見台
やえやま
(宮古)多良間村
(多良間島)
八重山遠見公園
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、円盤状2層)
1644年以降
国史跡
WEB
保存・整備されている/すぐ脇にRC造の展望塔が建つ
先島諸島の火番盛群/代表的なものの一つ/きれいな2段円筒形の石積
1
B
宮古遠見台
みやこ
(宮古)多良間村
(多良間島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積)
1644年以降
国史跡
WEB
階段はあるものの、草が繁茂
先島諸島の火番盛群/階段の両側に隅石を持つ堅固な石積
3
C
水納遠見台
みんな
(宮古)多良間村
(水納島)
遠見台、火番盛
1644年以降
国史跡
WEB
放置/藪の中に岩が残るのみ/島へのアクセスが困難
先島諸島の火番盛群
4
C
ピサダ道
(八重山)竹富町
(西表島)
<慶来慶田城翁屋敷~大平井戸>
石段道
長約100m
16世紀初頭
町史跡
現地解説板
保存状態良好/日本軍による改変の可能性
「ピサダ」は大平井戸の周辺にあった水田の地名に由来/16世紀初頭の石畳
2
B
竹富島集落の石塀と
白砂敷き街路
たけとみ
(八重山)竹富町
(竹富島)
石塀(珊瑚石)、
街路(白砂敷き)
集落全体
19世紀以前?
国重伝建
WEB/町教委
非常に良好な保存状態
珊瑚の石塀や珊瑚砂を敷いた街路が、南国風の集落景観を形成している/石塀は防風と防火のため、白い砂は雨水の浸透性を高くし、夜行性のハブを発見しやすくするため/明治23の古地図には既に現在のような区画割の町が描かれている→集落がこのような形になった正確な年代は不明だが、明治改元以前であることは確実と考えられている
1
竹富島集落の
スンマシャー
たけとみ
(八重山)竹富町
(竹富島)
入口部の道路中央に設けられた石垣
19世紀以前?
恐らく修景再現
病魔や凶事が集落に侵入するのを遮るために設けられた
2
B
ニーラン石
(八重山)竹富町
(竹富島)
舟繋石
高約50㎝
19世紀以前?
町教委
東から海岸沿いに5分ほど歩く
儀式用(ニライカナイという楽園からやって来る神様の船を. 繋ぎ留める場所)
3
B
祖納岳の猪垣
そない、
シィー
(八重山)竹富町
(西表島)
猪垣(石塁)
延長約1㎞
1728年
WEB
2016年12月にシシ垣サミットが開催された
西表島の特徴
2
B
ヤッサ地区の猪垣
シィー
(八重山)竹富町
(西表島)
猪垣(石塁)
高約1.2m
1768年頃
WEB
2006年に初めて修復
西表島の特徴
2
B
小浜島の魚垣
(島本海垣)
こはま・ながき(しまんだがきぃ)
(八重山)竹富町
(小浜島)
魚垣(石垣)
長1200m,幅12m
琉球王国時代
町史跡
WEB/町教委
南端部から接近可能
周囲を石で囲み、満潮時に魚が垣内に入り、干潮時に1ヶ所しかない出口に網を張り、魚を採るための施設/島出身の琉球王国の女官のために築かれたと伝えられる国内に10ヶ所ほど残る魚垣中、単独では最大級
2
小浜島の魚垣
(アカヤ崎北方の海垣群)
こはま・ながき
(八重山)竹富町
(小浜島)
魚垣(石垣)
(複数)
琉球王国時代
WEB/町教委
接近がかなり困難(西端のみ,後は展望台から)
複数の魚垣が、うろこ状に連続して並んでいる/複数をまとめれれば、現存する最大規模
2
A
シムスケー
(古井戸)
(八重山)竹富町
(波照間島)
掘抜井(石灰岩、すり鉢状)
不明
町史跡
WEB/町教委
観光的整備
直線状に降りる(2方向)すり鉢型の井戸/表面は花崗岩の石積み/底に水が残る
2
B
大平井戸
ウヒラ・カー
(八重山)竹富町
(西表島)
祖納
石積井
15世紀?
町有形民俗
現地解説板
保存状態良好
「ピサダ」と呼ばれる水田地帯に所在
1
C
仲筋井戸
ナージ・カー
(八重山)竹富町
(竹富島)
石積井(石灰岩、すり鉢状)
長径5m,深7.5m
不明
町教委
観光的整備
ひしゃげた円形をした、急勾配の石積み井戸/竹富島で最大の井戸/底に水が残る
2
B
花城井戸
ハナックン・ガー
(八重山)竹富町
(竹富島)
洞井(湧水)
不明
町史跡
町教委
非現役(水なし)
自然洞穴の奥にある
2
C
幸本井戸
コントゥ・カー
(八重山)竹富町
(竹富島)
石積井(石灰岩、方形)
不明
町教委
非現役
階段部以外を石灰岩で覆った石積み井戸/上記の「仲筋井戸」に類似
2
B
ミーナ井戸
ミーナ・カー
(八重山)竹富町
(竹富島)
洞井(湧水)
不明
町史跡
WEB/町教委
非現役/未整備
自然洞窟/細い竪穴式の井戸階段が付いているが、暗くて滑りやすくハブが出るため危険
3
C
下り井戸
アンヌ・カー
(八重山)竹富町
(鳩間島)
洞井(湧水)
不明
町史跡
WEB
大きな自然洞穴の奥にある
2
C
コート盛
コート・ムイ
(八重山)竹富町
(波照間島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、円盤状2層、階段あり)
高3.9m,径9.9m
1644年以降
国史跡
WEB/町教委
保存・整備されている(階段が、整然としすぎ、頂部が平坦)
先島諸島の火番盛群/波照間島では最大/2層の渦巻き状
2
A
小城盛
クスク・ムイ
(八重山)竹富町
(竹富島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、円盤状2層)
1644年以降
国史跡
WEB/町教委
よく整備されている(階段が、整然としすぎ、頂部が平坦)
先島諸島の火番盛群/代表的なものの一つ/きれいな円筒形の石積
2
B
中森
なかもり
(八重山)竹富町
(鳩間島)
遠見台、火番盛
(方型)
1644年以降
国史跡
WEB
保存状態は良好
先島諸島の火番盛群/やや先細りの方型の石積台階段は、L字型についている
2
B
ブズマリ
(八重山)竹富町
(黒島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、お椀状)
高3-4m
1644年以降
国史跡
WEB
保存状態は良好
先島諸島の火番盛群(外国船や琉球から中国への進貢船、大和の船の通行を、烽火により、石垣島にある蔵元に知らせるためのもの)/代表的なものの一つ
1
A
タカニク
(八重山)竹富町
(上地島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、円盤状2層)
高約1.5m
1644年以降
国史跡
WEB
保存状態は良好
先島諸島の火番盛群(小規模)
1
B
カッチンヌブヤムリ
(八重山)竹富町
(波照間島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、渦巻き状)
高3.4m,径7.5m
1644年以降
WEB/町教委
雑木でかなり覆われている
先島諸島の火番盛群/波照間島では2番目に大きい(規模としては小規模)/渦巻き状がよく判る
3
C
ホタムリ
(八重山)竹富町
(波照間島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、円盤状2層)
高2.9m,径約5m
1644年以降
WEB/町教委
雑木でかなり覆われている
先島諸島の火番盛群(小規模)
3
-
ミザトゥムリ
(八重山)竹富町
(波照間島)
遠見台、火番盛
(珊瑚石積、円盤状2層)
高2.2m,径6.4m
1644年以降
WEB/町教委
片端に雑木がある以外は、保存は良好
先島諸島の火番盛群(小規模)
3
-
節さだめ石
シチさだめいし
(八重山)竹富町
(小浜島)
天体観測石
高約55㎝,
幅約130㎝
1670年代以降の琉球王国時代
町史跡
WEB
道路の角に展示
石に掘られた穴(子、丑、寅…と方位を示す12個の小さな穴)に竿を立て、星の動きから農作業の時期を決めていたと言われる
2
B
なごみの塔の星見石
ほしみ
(八重山)竹富町
(竹富島)
赤山公園
天体観測石
不明
WEB
竹富島北部の與那国家の畑
→昭和28移設
農作業の時期を知るための星の観測に用いられていた石
2
B
ダティグチディ
(八重山)与那国町
(与那国島)
遠見台、火番盛
(石積1層)
1644年以降
国史跡
WEB
保存状態は良好
先島諸島の火番盛群/日本最西端の遠見台/一層の小型遠見台だが、上部は広い
1
B