舟通し 

   都道府県別データ一覧にある河川開削による舟通し (いわゆる運河は、「運河・閘門」 としてリスト化)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 簗瀬橋下の綱手道
(船頭道)
やなせ 山形/寒河江市 最上川 船頭道 長約500m→10m
程度,幅約1m
江戸期   市教委 放置(雑草に埋もれ、到達困難) 全国的にも、数少ない現存する船頭道/船を引くため、両岸の岸壁を削って造られた小道/領主からの手当で大正期まで毎年崩落場所を修復 4
写真 佐野原の舟通し さのはら 山形/(西置賜)白鷹町 最上川(五百川峡谷) 舟通し 長約500m,幅10-11m,深1.5m 元禄7(1694)   佐藤五郎 保存状態良好(全貌が見える季節が短い) 施主:米沢藩御用商人(京都の豪商)・西村久左衛門(私財17000両)/施工:保津川開削の技術者集団(元禄元に呼び寄せて現場準見と測量を開始)/開削には鉄槌(重約340㎏、楔形、鋳物製)を約6mの高さから落下させて岩を砕いた(鉄槌を吊り下げるロープには「青苧(あおそ)」を利用)/近世における河川の開削区間としては国内最長級 1 写真
  黒滝の開削・跡 くろたき 山形/(西置賜)白鷹町 最上川 舟通し 数10m 江戸初期   佐藤五郎 江戸期に川の流れが変わり痕跡程度 最上川最大の難所だった黒滝を、崩す形で舟通しとした 3
写真 烏帽子岩 えぼし 山形/(西置賜)白鷹町 最上川 標識(舟通し)   江戸初期   佐藤五郎 保存状態良好 川の中央に自然にある岩=これより下流の舟通しが航行可能かどうかを判断する目安として使われた 1
写真 明鏡橋下の舟通し めいきょうばし 山形/(西村山)朝日町 最上川(五百川峡谷) 舟通し 約20m 江戸期   WEB 近代に入り、岩盤の石材が切り出され、あちこち穴が開いている 旧明鏡橋の右岸側に直線状に残る(人為的であることは確か)/舟通しの跡かどうかについて、史料上の証拠はない 2
写真 石河の滝(乙字ヶ滝)の舟通し いしかわ
(おつじ)
福島/須賀川市 阿武隈川 舟通し 長92m,幅4.8m 着工:安政5(1858)頃   知野泰明/市教委/WEB 乙字ヶ滝横に良好に残る 施主:円谷儀助他、開削:村越信蔵・吉田松国/阿武隈川の水運は舟問屋が私財を投じて河床改修を行い同時に特権を得る形で行われた/非常に難工事であったため、現在の形になるまで24年かかったとも言われている 1
写真 堀切堤・跡 ほっきり 栃木/(下都賀)壬生町 黒川 河川開削   江戸中期以前   町教委 堤防が一部残る〔写真の堤防の向こうの一列の木の向こうが黒川〕 壬生城主が、新田開発のため、黒川の羽生田から先の台地を開削し流路を変更したとの伝承 3
  境川 さかい 千葉/浦安市   河川開削 長1.5㎞→4.8㎞
(戦後の海面埋立により伸延)
江戸期   WEB 都心の水辺空間として整備 生活水や舟の行き来のため浦安中心部の要として利用されてきた(江戸川の真水が流入するため、井戸水にも塩分が含まれる浦安では唯一の飲水源)→漁港として発達 2
写真 堀川 ほり 愛知/名古屋市(西区) 名古屋城近く~熱田湊 運河 長約6㎞→16.2㎞,幅約22m, 慶長15(1610)→寛文3(1663)、天明4(1784)、明治10(1877)を経て現状   市教委/WEB 大規模な改修 施工:広島藩主・福島正則/当初の開削の目的は、軍事上の防備線や名古屋城の築城資材の運搬水路であったとされるが、江戸期を通じて名古屋城下への生活資材の運搬水路として重要な役割を果たした 3 写真
写真 日向川(日向運河) ひるが 福井/(三方)美浜町 日向湖~若狭湾 運河   寛永12(1635)
→元禄13(1703)復旧
  町教委(三方五湖の漁業・下p44-45) 護岸C改修 若狭湾に面した外浜が波浪による浸食で海浜が狭くなったため、日向湖を舟溜りとして利用するために企画された運河→開削により日向湖に海水が流入するようになった/津波で埋没し元禄13に復旧 3
写真 早瀬川 はやせ 福井/(三方)美浜町 久々子湖~若狭湾 運河   寛文4(1664)拡幅   町教委(わかさ美浜町誌1p15) 護岸C改修 寛文近江・若狭地震(1662)で久々子湖東部が隆起したのを受け、排水能力を高めるため幅を2間(3.6m)から9間(16m)に拡幅した 3
写真 高瀬川 たかせ 京都/京都市
(中京区・下京区)
鴨川→伏見 運河 長約10㎞
(建造時)
慶長19(1614)   WEB/岡山県史7p643 大正9に舟運廃止/昭和7の改修で鴨川からの取入口を暗渠化 幕府が成立した慶長8(1603)頃から安南国東京との朱印船貿易で財をなした角倉了以が、保津川開削(1606)、富士川開削(1607)、鴨川改修(1609)の後、長男・素庵と協力して全額私費(7万5千両)で開削した運河/通行料の40%を幕府に提供、10%は維持費で、50%が角倉の収入となった→京都への物資搬入のほとんどを高瀬川が担ったため年1万両以上の収入をもたらした/保津川通運で使われた高瀬舟がここでも活躍した 2 写真
写真 了以翁碑銘 りょうい 京都/京都市(西京区) (嵐山中尾下町)
大悲閣千光寺
石碑(河川開削) 高約2m,幅90㎝ 寛永7(1630)   伊東宗裕/林羅山文集p509-512 平成14修復・近接移設(5m)/覆屋内/左上部が破損→修復/刻字が浅く判読が若干困難 (正面)「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘」/2000字を超える刻字文なので、右のpdfファイル内で全文を示す→ 写真/“吉田”は本姓、“角倉”は屋号/建立は了以の長男・素庵/「角倉了以水利紀功碑」(明治32)とは別物 2
写真 保津川の開削 ほづ 京都/亀岡市 桂川 河川開削 長約12㎞ 慶長11(1606)   市教委 現在も、保津川下りは伝統的技能を保持した観光産業として存続している
〔写真は、瑞泉寺縁起絵巻四〕
幕府が成立した慶長8(1603)頃から安南国東京との朱印船貿易で財をなした角倉了以が、幕府に願い出て保津川の渓流区間を全額私費で通舟可能なまでに開削・整備(わずか5ヶ月で完成)/京都市西京区の「了以翁碑銘」には「…慶長九年甲辰 了以往作州和計河 見船 以為凡百川皆可以通舟 乃帰嵯峨 泝大井川 至丹波保津 見其路 自謂雖多湍石 而可行舟…」(舟偏に“共”の字→読みは「たかせ」、意味は「喫水の高い舟」)と刻字されている→慶長9に岡山の吉井川で見た急流を遡上する舟が、急流河川・保津川で舟運を起こそうという発想の原点となった/碑文には書かれていないが、直前に完成した加古川開削(1594)の影響を指摘する説もある/開削には、水上にある石は火で焼き砕き、水面下の巨岩は浮楼を組んで引き上げ、落下させて割る等の土木技術が考案・採用された/屈曲する渓流に船を通すため、「水寄せ」と呼ばれる導流堤が要所要所に構築された他、末端まで下った船を引き上げるための綱道も整備された/舟運の実施にあたっては、了以が隠栖の場所を提供した日蓮宗の高僧・日禛の紹介で、牛窓(岡山県)から約20名の船大工・船頭衆が呼び寄せられ、平底舟を造り、行船術を地元に教えただけでなく、移住して通運に参加した 2 写真
写真 朝日ケ瀬の水寄せ あさひがせ 京都/亀岡市 桂川(保津川渓谷中間部にある鋭角の屈曲部) 導流堤(4ヶ所) 各長30-50m 慶長11(1606)   市教委(曳船・川作p30-31) 開削当時の野面積みをよく残す/他の水寄せはC化 川の湾曲部で一定の水深を保ちつつ船をスムースに流すよう連続して築かれた導水堤(湾曲し始める上流部、中間2ヶ所、湾曲部の出口付近) 1
写真 保津川の綱道 ほづ 京都/亀岡市 桂川 舟曳道 長11.8㎞ 慶長11(1606)   市教委(曳船・川作p53-63) 何度も修復をくり返してきた/部分的に残る 嵐山で荷を降ろした船を亀山盆地末端にある保津川渓谷入口まで引き上げるため、船の先端に付けた複数の綱を持った曳き手が通るための道 2
写真 市場の加古川開削路 いちば 兵庫/小野市 (黍田町)加古川 舟通し   文禄3(1594)   市教委(小野市史p508-514)/WEB 流紋岩を破砕した遺構がはっきりと残る 企画:秀吉の一族の木下家定の奉行・生駒玄藩、施工:滝野村の大庄屋阿江家の養子・与助(阿江家の財力)→代わりに加古川舟運の独占権を得た/滝野~高砂の区間を通航可能にした戦国末期の加古川開削の代表的遺構(加古川最大の難所・闘竜灘の開削は明治6になるまで不可能だった) 2 写真
写真 笠神の文字岩 かさがみ 岡山/高梁市 成羽川
(ダム湖底、
ダム湖畔の公園)

石碑(河川開削)
(自然岩、レプリカ)

高最大6m,
周囲19m
(レプリカは余分な部分を削り取って小型化)
徳治2(1307) 国史跡 市教委/県教委/図説岡山県の歴史p107 昭和43、田原ダム完成により水没→渇水期には見ることが可能/平成3にダム湖畔の公園にレプリカ(刻字の配置は正しいが、岩の形は湖底のオリジナルとは相当異なる)を設置
写真(上)がオリジナル(赤枠がレプリカの範囲)、写真(下)がレプリカ
(正面右側)「笠神船路造通事/徳治二年、丁・未、七月廿日始之八月一日平之其時□□/右笠神龍頭上下瀬十余ケ所者為日川無雙難所之間/薩埵慈悲大士懐不可奉不可不依之/相勧諸方十余ケ日月平之功己/當圀成羽善養寺/大勧進沙門尊海/南都西大寺實行/奉行代沙門實専/根本発起四郎兵衛/石切大工伊行経/主藤原」(緑字は異体字)/碑の建立年不明(上記「石切大工伊行経」が刻んだとされている)/わが国最古の河川開削記念碑/鎌倉時代には備中北部の砂鉄は山道を2日がかりで成羽まで運ばれていた→笠神の瀬を船が通れるようにすれば半日に短縮/工事の中心となったのは、成羽善養寺の僧・尊海、工事奉行は奈良西大寺の実専、石切大工の伊行経は奈良の東大寺の再建にあたった宋の伊一族の石工と言われる/正面中央に寛政9(1797)に作州久世天領代官・早川八郎左衛門政紀が巡察の途中に訪れた際、銘文を読み所感を歌に託した歌 3
写真 観音瀬水路 かんのんぜ 宮崎/都城市 大淀川 舟通し 長90m,幅1.8m 寛政6(1794) 県史跡 市教委/WEB 明治23に左岸寄りに平行して水路が開削されたため、現在では平行した2本の水路が見られる 大淀川の凝灰岩の河床を開削した長さ約90m、幅約1.8mの水路で、これにより都城竹之下から赤江港までの72㎞の河川が航行可能となった/薩摩藩の直轄工事で、工事責任者は藤崎五百治、施工には肥後の石工が携わった 1 写真
写真 轟の瀬 とどろのせ 鹿児島/
(薩摩)さつま町
川内川 河川開削   天保年間
(1830-44)
  WEB 往時のまま 陸路を使って宮之城の藩倉に送っていた上納米を川内川の水路を使って運搬するため、宮之城~鶴田間で行われた航路開削 1
写真 権太郎石 ごんたろう 鹿児島/
(薩摩)さつま町
川内川流域県立自然公園/鶴田ダム左岸県道沿い 石碑   天保13(1842) 町史跡 WEB ダム建設のため水没するので、昭和39に割りとって、130m上部に引き揚げて保存した (正面)「山本とりを浪の徒といて/沖せ急流尓して大石/阿末多阿りしを小野村能/権太郎よく水を/せきて/其石/王り能楚き阿類いハ/末きとりて/通船するよう奈し/た里ける尓て其/よし志類しお久/奈り」/川内川の川浚え工事(藩施工: 上流の菱刈・大口地方の年貢米を舟で運べるようにしたもの)の際、現地の岩に刻んだもの/川浚え工事を指揮した石工・福山権太郎が、焼石工法により川底を逐次掘り下げていったとされる→「権太郎石」の名前の由来 2