用水の分水 

   都道府県別データ一覧にある用水の分水施設(一部、上水も含む)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 玉川上水の石枡1 たまがわ 東京/千代田区 和田倉噴水公園
<玉川上水>
石枡 145×145㎝,高70㎝     東京都水道歴史館 公園に移設 数段重ねた石枡に木樋を繋げ、玉川上水の所々に分水、水質管理、揚水を目的に設置 2
写真 玉川上水の石枡2 たまがわ 東京/千代田区 清水谷公園
<玉川上水>
石枡 :高202㎝, 幅142㎝,:高163.6㎝,幅142㎝ 承応3(1654)   現地解説板/WEB 発掘され、公園に移設/木樋部分は区立四番街歴史民俗資料館に保存 数段重ねた石枡に木樋を繋げ、玉川上水の所々に分水、水質管理、揚水を目的に設置 2
写真 三分一湧水 さんぶいち 山梨/北杜市 三分一湧水館 石分水<木分水>
(3用水)
湧水量8500t/日 元禄期(17C末~18C初)
or 寛政12(1800)以降
(分水枡に三角木柱?)
  WEB 大正13に石造枡→昭和19再建(災害復旧)→昭和22に三角石柱(伝説を具現化) 用水自体の建設は享禄4(1531)で、武田信玄が施工した可能性がある
(分水とは無関係)/3つの村の間で続いた村争いを治めるため、3つの村に平等に水を分配するために江戸中期(元禄期?)に木製枠を設置して分水したとされる/現在のような形になったのは、土石流で湧水池が埋まった寛政12以降
3 写真
写真 刻限日影石 こくげん、
ひかげいし
三重/いなべ市 <大泉新田・笠田新田の分水点> 日時計、分水装置 石柱:高68㎝
(うち、台石8㎝),
幅38㎝,厚39㎝
請石:幅152㎝,
厚24.5㎝
弘化4(1847) 県有形民俗 伊藤通敏/WEB(ひどけい)/員弁町史 近接移設/塀で囲む 石柱:(正面)「刻限日影石」、(右面)「従日之出/七ツ半時迄/大泉新田」、(左面)「従七ツ半時/日之出迄/笠田新田」/請石:(正面)「七ツ半時/日影請石」/笠田大溜から引水する水田の増加により水争いが起こり、遂には死者が出る事態となったのを受け設置された/普通の分水が、取水量の直接的に管理(堰板や石を置いて分水量を固定)するのに対し、刻限日影石は間接的な管理(分水量を時間で制限制憲)を目指した特異な例大泉新田は日の出から7つ半時、笠田新田は7つ半時から日の出までの間取水できた/石柱請石がセットで機能する日時計式の分水装置/石柱の正面向かって右手前の隅角頂部を中心に半径187㎝の円弧が請石に刻まれている→隅角頂部が、円弧に達した時点を「七ツ半」とした(太田賢治説)/発案者は大泉新田庄屋・懸野松右衛門(発案に至る経緯不明) 2
  三津川 みつ 滋賀/守山市 東門院・西 用水路 長約400m 江戸期   WEB/市教委 3本の流れを復元して親水公園として整備 水田に引く水をめぐる村同士の争いを防ぐため、分水石を置いて川の流れを3つに分けた 2
写真 南今市の分水石 みなみいまいち 奈良/葛城市 岩谷川 分水石 175㎝×36㎝ 宝暦4(1754)   WEB(宮様の石橋)/歴史地理学49.4 現役/水路はC化 (石の天端)「分水、長尾/今市」/分水点の先端に置かれたもの/設置年が記されているのは稀/今市村では自村で管理し「豊田井堰」と呼び、長尾村では共同で管理し「分水かきわけ」と呼んでいた 1
写真 鎌取井堰の分水堰
(もど川の分水石)
かまどり 奈良/葛城市 (山口)もど川 分水石 開口部幅:①38+
20㎝,と②28㎝
江戸期   市教委
/WEB(宮様の石橋)
現役 川の流れをを2つに分け、水量を2:1に分割している/天正18(1590)に始まった番水制度を江戸期になって分水石で定常化したもの 1
写真 元・戸分ケの分水石 とわけ 奈良/葛城市 角刺神社 分水石 150㎝×45㎝ 江戸後-末期   WEB(宮様の石橋)/現地解説板 移設 分水量を溝幅で規定したもの/忍海と近隣の村で水争いが起きた際、「火柱を抱く者があれば村の主張を聞く」との話に、忍海の農民・九平が犠牲となって火柱を抱き、忍海に有利な割合で分水ができた 2
  一ノ井分水石 いちのい 奈良/天理市 布留川 分水石   天正12(1584)以前   市教委(天理市史p270-271)/永冨謙 分水石: 石→C製に改修 布留川の水を川の北側と南側に分けるための五角形の分水“石”/文書では天正12に三島庄と勾田庄・田村庄の間に分水について取り交わしたものが最古、絵図では寛文13(1673)の「布留川分流図」が最古 3
写真 地蔵谷川の分水樋 じぞうだにがわ 大阪/東大阪市   分水樋   江戸期?   市教委 当時のまま(放置) 江戸時代両村に等分に水を分けるため、分水樋を作り、分水樋が残っている 2
写真 中門の分量石 ちゅうもん 大阪/松原市 (上田1丁目) 石碑(水量調整の指針) 高151㎝,幅31㎝,厚29㎝ 享和元(1801)   WEB/岡田常雄 移設/ポケットパークとして整備 (正面)「字中門三宅村大海池/用水道堰竪樋上端/同戸堰板上端限伏方、分量石、上田/三宅/噯人、立會居之」(噯人=あつかいにん)、(裏面右)「此分石長覆石上端迠五尺也」/中門の堰樋(阿保村の海泉池から三宅村の大海池に至る用水の取水掛口)で東と西に分岐する水路の堰高を定めた石 2
写真 海泉池 満水石 かいずみ 大阪/松原市 (阿保4丁目)阿保公民館・東 石碑(水量調整の指針) 高144㎝,30㎝角 文化5(1808)   WEB/岡田常雄 移設/頂部と中央部で水平に折損→頂部の石材は更新、中央部は修復・C充填 (正面)「海泉池满水石、西阿保/三宅/取噯人、立會居之」(噯人=あつかいにん)、(右面)「满水ヨリ七寸五分下ヶ印」/西阿保・三宅への水量を定めた石 3
写真 南池分水 みなみ 兵庫/小野市   水量調整用の置き石 置き石間隔:
黒川22.0㎝,
浄谷南郷32.5㎝,
中島16.7㎝,
浄谷北郷33.2㎝
安政2(1855)以前   市教委(おのふるさとマップ4)/WEB(小野市HP) 置き石が残る(江戸期?)/水路はC改修 南池から流れる水を浄谷、黒川、中島町へ正確な水量比で分水するための施設/現在も安政2の古文書と同じ間隔で置き石が置かれており、この比は各地域のかつての水田面積比とほぼ一致するとされる/この比に従って各地域が池の維持管理費を負担/流速が速いと中央の水路の流量が多くなってしまうため、毎年田植えの前に3町の代表者が杭と竹の流速緩衝施設を更新し、流量が適正か確認する「ゴウ定め」が行われている 4
写真 中田の七ツ石   岡山/岡山市(中区) 古田樋尻川→中田川 水量調整用の置き石 (3個の石と、その上の4個の梁) 江戸期?   高島公民館 固定されている以外、昔のまま 石の配置で水量をコントロールしていた/石に「七」の字が刻まれている 2
写真 神崎分水樋門(仮称) かんざき 岡山/岡山市(東区) 千町派川(中洲) 石樋門(花崗岩) (2連) 貞享元(1684)     樋門そのものは、かなり改修されている 県下に残る建造当初の姿を残した最古の樋門(2連になった中央部が円形に突出している=絵に残る古い樋門の様子を唯一留めている)/見事な護岸石積み 3
写真 新山の分水石 にいやま 岡山/笠岡市 七鍬山→竜王山谷川 石樋門(花崗岩) 幅72㎝(新賀分), 幅34㎝(山口分) 嘉永5(1852)   市教委 水は流れていない 谷川の水を新賀村68%、山口村32%に分ける分水用の水門の跡/石をくり抜いてコの字形 3
写真 野市の三叉 のいち、みつまた 高知/香南市 上井川
→十善寺溝・町溝・東野溝
石分水(農業用)   正保元(1644) 市史跡   保存状態良好 野中兼山/物部川から引水した上井川の水を主要3支線に分水する施設/どこにでもありうそうだが、江戸期のまま現存する例はきわめて稀 1
写真 角間天秤 かくまてんびん 福岡/うきは市 筑後川・大石導水路 水量調整用の置き石 (3個の石) 寛文4(1664)以降
何度も手直し
  岩屋隆夫 試行錯誤で石の大きさ、位置を決めてきた/昭和28年の筑後川大水害後に復旧 大石導水路→北新川、桜馬場溝に分水する量を、北新川入口に置かれた3つの石だけで調節/留米・有田藩の普請奉行、丹羽頼母が設置したと言われる 2
写真 萩の尾堰の分水 はぎのお 佐賀/伊万里市 松浦川→
東分・上原・下分導水路
分水   慶長11(1611)   島谷幸宏 部分改修  大正5の碑に、「東分区 弐尺五分/上原区 壱尺九寸/下分区 四尺六寸五分」と刻字 2