各種工業 

   都道府県別データ一覧にある各種の二次産業・工業に係わるすべての遺産

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 女那川煉瓦製造所・跡 めながわ・れんが 北海道/函館市   煉瓦製造所   安政3(1856) 道史跡 WEB 凹地がわずかに残るだけ 煉瓦製造所跡/古武井溶鉱炉の建設のための耐火煉瓦を作るための施設 4
写真 山菅の石灰谷焼釜・跡 やますげ 栃木/佐野市   石灰窯 長32m,幅4m,深1.9m 天保10(1839)以降
~幕末の間
  市教委 最盛期の谷竈としての形態をよく残す 江戸初頭から「白土」という呼称で幕府への石灰上納運上がなされていた(小規模な「つぼ竈」「立窯」を使用)→天保の大飢饉時に野州石灰の肥料としての効能が認められ、大量生産を行う手段として陶磁器の登り窯のような「谷竈」が考案された 2 写真
写真 上直竹下分の石灰焼場・跡 かみなおたけしもぶん 埼玉/飯能市   石灰焼場 石垣:長16m,高3.5m 慶長年間(1596-1615) 県史跡 市教委
(飯能市史p156-159)
明治期に一部改修→大規模な修復 師岡・木崎の両家により事業開始/江戸城の修築をはじめとする幕府による主な工事に使用された(江戸前期には、江戸表の石灰を一手に引き受けるという特権的保護を受けた)/山の北斜面を利用して石垣を組み、中に燃料となる柴を入れ、上に石灰岩を割ったものを載せて焼いた 3
写真 大谷瓦窯・跡 おおや 埼玉/東松山市   瓦窯(地下登り窯) 長7.6m,
傾斜角約30度
7世紀後半~8世紀初頭 or 8世紀後半 国史跡 WEB 覆屋内に保存展示(埋め戻した状態)/昭和30に2基の窯跡の発掘調査が行われ、完全な形で掘り出された1基 東松山市では、飛鳥寺系統の軒丸瓦が1点出土していることから7世紀後半としているが、文化庁の「文化遺産オンライン」では奈良時代後期の頃の瓦窯跡と書かれている/登り窯は、瓦を利用して13の段が形成(補強のため)/幅60㎝の焚口は瓦を立てて補強/燃焼部は一段深く掘り込まれ一つの部屋を形成/軒丸瓦、平瓦、丸瓦、文字瓦が出土しているものの、大谷瓦窯跡で生産された瓦が出土する遺跡はまだ未発見(平成27)/大谷瓦窯が国史跡で赤沼古代瓦窯(鳩山町)が県史跡となっているが、実際の価値は逆転している→赤沼古代瓦窯は、「武蔵国分寺瓦窯跡」という誤った推定により昭和25に県史跡となり、その5年後に「飛鳥寺系統の軒丸瓦が1点出土」ため、生産された瓦がどこで使われたかも判明しないまま国史跡となった。しかし、平成5の確認調査で赤沼古代瓦窯が勝呂廃寺創建期の窯跡と分かり価値は逆転した 3
写真 下里・青山板碑製作遺跡 しもざと、
あおやま
埼玉/(比企)小川町

割谷地区、西坂下前A地区、内寒沢地区など19ヶ所

緑泥片岩(青石)の採石場 兼 加工場   鎌倉~戦国 国史跡 町教委/WEB/小川町埋蔵文化財調査報告書33 現地に残っているものは、ほとんどがズリ平場/トレンチ跡が展示用に保存 中世関東の板碑文化を支えた青石(緑泥石片岩)の代表的な産出地/緑泥石片岩の露頭、矢穴痕が残る岩塊、板碑形のケガキ線が確認→採掘から板碑形へ加工するまでの工程が残る→単なる採掘場ではなく板碑製作遺跡として平成26に国史跡に指定 3
写真 赤沼古代瓦窯・跡 あかぬま 埼玉/(比企)鳩山町 鳩山窯跡群 瓦窯(地下登り窯) 1基 7世紀後半~8世紀初頭 県史跡 WEB 覆屋内に保存展示(煙出し口とタキ口が残存)/昭和25に発掘調査され、同3月には県史跡となった。当時は武蔵国分寺瓦窯跡と考えられていたが、平成5の確認調査により、勝呂廃寺創建期の窯跡であることが判明 鳩山窯跡群の中には、全国最大規模の新沼窯跡(8世紀中頃~後半、26基の窯跡〔瓦窯以外の窯を含む〕)、山下窯跡(8世紀初頭~9世紀後半、6基の窯跡〔同前〕)、下記の石田国分寺瓦窯跡などが含まれるが、その中で、瓦窯の発掘時の様子を観察できるのはここだけ/勝呂廃寺創建期の窯跡(7世紀後半~8世紀初頭の白鳳期)と関東地方で最古級であるだけでなく、生産された瓦は小用廃寺(鳩山町)や山王裏廃寺・大西廃寺(東松山市)などの周辺寺院にも供給された 2 写真
写真 石田国分寺瓦窯・跡 いしだ、
こくぶんじ
埼玉/(比企)鳩山町 鳩山窯跡群 瓦窯(地下登り窯) 1基 8世紀中頃 県史跡 WEB 埋め戻され、一定勾配の斜面跡が、かつての登り窯の様子を伝えるのみ/解説板が設置 武蔵国分寺創建時の瓦を大量に生産し生産した鳩山窯跡群の1つ 4
  所久保の石灰焼関連遺跡 ところくぼ 東京/青梅市 成木石灰 窯跡、石垣 石垣:長15.7m,高3.5m 天正~慶長年間
(1573-1614)
市史跡 市教委/WEB 成木地区の中で最も良く保存 事業者: 木崎平次郎/北条氏照による八王子城築城等の資材として、天正年間から石灰の生産が開始(通説)/慶長11(1606)、家康が江戸城改修(白壁用材)のため、八王子代官・大久保長安に供出を命じたことにより本格化→御用石灰を江戸に運ぶ成木街道の成立 3
写真 三神谷口の焼釜・跡   三重/いなべ市 <治田鉱山> 焼釜(精錬用)   慶長以前~江戸期   市教委
/WEB(やぶこぎネット)
平成19の集中豪雨で大きな被害を受け、4基中2基が流失 元禄・寛保年間に、全国でも有数の産出量を誇った/仙右衛門鋪(長256mの主坑道)、大通洞坑、三神谷口の焼釜などがあった/喜左衛門鋪は唯一残った坑口 2
写真 荒坂窯・跡 あらさか 奈良/五條市 荒坂峠北方の荒坂瓦窯群(14基)の1号窯 登窯 全長9.1m,燃焼室長1.3m 7世紀中頃 県史跡 WEB(宮様の石橋)/現地解説板 簡易覆屋内に発掘された窯を保存・展示 窯内部と周辺から蓮華文軒丸瓦、重弧文軒丸瓦などの瓦(川原寺跡出土のものと共通する)が発見された→川原寺創建時に瓦を焼くために造られた半地下式の登窯→時代を特定 2
写真 安倍寺瓦窯・跡 あべ 奈良/桜井市 安倍史跡公園 瓦窯(平窯) 5基 文治元(1185)
~文暦元(1234)
国史跡 WEB 遺構全体をアクリル板のモダンな屋根で覆う 鎌倉時代の典型的な平窯式の瓦窯が5基並んで残る/文治元(1185)に安倍寺崇敬寺が全山焼失し、文暦元(1234)に安倍別所(現在の安倍文殊院)に移転する際に建立された寺の瓦を焼いたとされる 1
写真 栗栖野瓦窯・跡 くるすの 京都/京都市(左京区) 岩倉幡枝町 瓦窯 24基 奈良~平安時代 国史跡 WEB(好奇心京都)/WEB 埋め戻されているが、痕跡を見ることができる 発掘などにより16ヶ所確認されている京都市内の古代瓦窯中、飛び抜けて規模が大きい/平安京の宮殿や東寺・西寺などの寺院の瓦を製造した官営の瓦窯/栗栖野には瓦製造に適した良質の粘土と燃料の薪があった 3 写真
写真 尻剣谷の精錬窯・跡 しりけんたに 和歌山/
(東牟婁)那智勝浦町
那智川右岸支流尻剣谷の右岸 焼窯(9基×2列)   江戸中期頃?   阪口圭一 ほぼ原形を留める 黄銅鉱を精錬し純度の高い銅を取り出すため硫黄分を焙焼して取り除く焼窯/全国最大級 1 写真
  御用水車の用水路 ごよう 兵庫/姫路市 (八代本町1丁目) 用水路(産業用)   宝暦12(1762)   市教委(文化財見学シリーズ19) 整形された矩形石が一列に並ぶ護岸 米粉・菜種油・綿実油を絞るのに用いられた水車のための水路 2
写真 金田瓦窯・跡 かねだ、
がよう
鳥取/(西伯)南部町   瓦窯 長5.5m,高5.6,煙出し穴の高1.7m 鳳時代(7世紀後半) 県史跡 WEB 保存状態良好 花崗岩の斜面をくりぬいて造られた瓦窯/内部は、焚口、燃焼室、焼成室、煙道からなる/古代の瓦窯が残る稀少な事例 1
写真 新興寺の石灰窯・跡 しんこうじ 鳥取/(八頭)八頭町   石積窯 7-8ヶ所(うち半数ほどが近世由来) 江戸末期~昭和初期   町教委 崩れて埋没/江戸期のものは改修されずに残る 田畑の肥料(中和剤)として焼石灰を生産 2
写真 広島藩油御用所の水路石垣・跡 ひろしま 広島広島市(安芸区)   石導水路   宝永6(1709)   吉岡速人 油搾場は民家となってしまったが、石積みの水路はかなり残る 上瀬野村庄屋・野村孫兵衛正房が、瀬野川から引いた水で直径6.4mの水車を回し、44基の石臼で菜種や綿の実を砕いて灯油を製造→寛政10(1798)に藩営/大形の水車用の水路なので、水車の近くは石積みでかなり高い 2
写真 広島藩油御用所の石臼・跡 ひろしま 広島広島市(安芸区) 龍善寺 石臼   宝永6(1709)   吉岡速人 龍善寺の礎石として転用 同上 4
写真 亀池 かめ 愛媛/新居浜市   <溜池>   嘉永3(1850) 県名勝 市教委(旧広瀬邸建造物調査報告書p9-10)/WEB 明治24以降庭園化 住友が経営する別子銅山の支配人・今沢卯兵衛が、稼人の飯米を確保するため、中之町池(通称:亀池)、高尾池(鶴池)を築造して新田開発を試みる→溜池の水不足により稲作失敗→桑茶栽培→広瀬邸の「後園」として整備→公園化/農業遺産というよりは、広い意味での住友関連の産業遺産 2
写真 朝倉揚水車
(菱野三連水車、三島二連水車、久重二連水車)
あさくら 福岡/朝倉市 堀川用水 木水車(3基) 径7.76m+4.30m+
3.98m,幅1.50m
(3連)
天明8(1788)以前 国史跡 文化財指定書 復元/観光地化(6月中旬~10月中旬まで稼働) 堀川用水は流速も早く水量も豊富な用水であったため、上流部には揚水車が設置された
2
写真 柳坂曽根の櫨並木 やなぎなかそね 福岡/久留米市   櫨並木
(産業遺産)
長約1㎞,約200本 享保15(1730)以降 県天然 WEB 保存状態良好
/新・日本街路樹100景に選定
久留米藩が木蝋作りのため植樹/全国最大級の櫨(ハゼ)並木/本数では、熊本県の菊池川堤防櫨並木の237本に次ぐが、植樹間隔が短く見栄えがする 1 写真
写真 鷹ノ巣石鍋製作所・跡 たかのす 長崎/長崎市 神浦下大中尾町タカノス 石鍋製作場   平安末期~鎌倉初期 市史跡 WEB(みさき道人)/現地解説板 露頭する岩壁面に、方眼状に割り付け粗型を剥ぎ取った痕跡や、ソロバン玉状に整形され取り残された粗型などが認められる 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/外海地方の石鍋製作所跡の中でも規模が大きく、保存状態も良好/鷹ノ巣岩周辺に6ヶ所確認されている 2
写真 鍋岩石鍋製作所・跡 なべいわ 長崎/長崎市 三和町大字為石字鍋岩 石鍋製作場   平安末期~鎌倉初期   WEB(みさき道人) 同上 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/中規模(高15m、長30m) 2
写真 ホゲットウ石鍋製作所・跡   長崎/西海市 瀬戸羽出川郷 石鍋製作場   平安末期~鎌倉初期 国史跡 WEB(みさき道人)/現地解説板 第6製作所では、高5m、幅2mの岩壁に取り残した石鍋粗型まそのまま付いている 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→最も規模が大きいされるのがホゲット石鍋製作遺跡→11を数える製作所が集中 2
写真 ツル掛石鍋製作所・跡 つるかけ 長崎/西海市 平山郷ツル掛 石鍋製作場   平安末期~鎌倉初期   WEB(みさき道人) 奥行数10mのクレバス状の遺跡 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→本遺構は中規模/第一・第二の2ヶ所があるとの報告もあるが、現在確認できるのは1ヶ所 2
写真 下茅場の石鍋製作所・跡 しもかやば 長崎/西海市 平山郷茅場
/石鍋橋の南側橋脚一帯
石鍋製作場   平安末期~鎌倉初期   WEB(みさき道人)/東 貴之 広域農道建設時に発掘調査(平成8)/ゴミが散乱して荒れている 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→本遺構は小規模 3
写真 菊池川堤防櫨並木 きくち 熊本/玉名市 菊池川(右岸) 櫨並木
(産業遺産)
長3.7km,237本 享保9(1724)頃以降 国登録記念物 WEB 河道整備に際しても、よく保存されている 熊本藩により、寛文4(1664)に櫨(ハゼ)が特産品奨励として植栽されるようになったが、木蝋生産の衰退とともに植栽地は減少し、多くの櫨が失われた。菊池川堤防沿いに残された櫨並木はかつての木蝋生産の名残り(福岡県の柳坂曽根の櫨並木の200本を超える) 2
写真 豊後街道櫨並木 ぶんご 熊本/(菊池)菊陽町 <豊後街道> 櫨並木
(産業遺産)
約300m,約15本 元禄15(1702)以降   WEB(みさき道人)/WEB 一見並木に見えるが他の木も混植 江戸細川邸に預けられた大石内蔵助が、厚遇に感謝して、ロウソクの原料となる櫨(ハゼ)の栽培を勧めたことに由来する 2
写真 永ノ原の櫨並木 ながのはら 熊本/(玉名)和水町 <豊前街道> 櫨並木
(産業遺産)
長約1.5㎞,
17-18本
江戸期   町教委 残存状態悪い 細川藩らしい櫨(ハゼ)並木/安政5(1858) に設置された藩営製蝋所で加工された/多くが薪炭にされ、残存数は少ない 3
写真 はぜ馬場の櫨並木   宮崎/宮崎市 佐土原町下田島 櫨並木
(産業遺産)
長約500m 安政4(1857) 市史跡 WEB 南側のみ残る/まばら 安政の改革の際、第11代佐土原藩主・島津忠寛が財政建て直しのため、藩内各地の道路脇や空き地に櫨(ハゼ)の木を植えさせた→櫨の実からロウソクを製造し、藩の専売品として大坂に送ったとされる/現在は旧藩内で残るのはここだけ→馬を走らせる馬場でもあったので「はぜ馬場」と呼ばれる 2
写真 山之口の島津寒天工場・跡 やまのくち 宮崎/都城市 山之口町山之口(永野) 寒天製造所   天保9~嘉永元(1838-49)の間? 〔調所笑左衛門が家老になってから死去するまでの間に操業開始〕   市教委/WEB 9基の窯跡が残る/屋根を架けて保存 全国的に見ても珍しい産業遺産/薩摩藩家老・調所笑左衛門が行った藩の抜本的な財政改革の際、将来藩の筆頭御用商人となる八代目・浜崎太平次に命じて始めた事業(八代目・浜崎太平次は、家運衰退により、飢えをしのぐため唐芋を拾うような少年期を過したとされる)。原料のテングサを薩摩西海岸から運び、寒天は薩摩の福山港に運び、大坂・長崎そして清やロシア等にも密輸されたと言われる/監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者約80名、地元採用者約50名を合わせた従業員数は120-130名ほどであった 2
写真 松ヶ浦のヘヤッガマ・跡 まつがうら 鹿児島/南九州市   石灰焼窯   天保14(1843)以前 市史跡 市教委(文化財ガイド・知覧p166)/WEB 地面に掘られた焼窯が砂で埋没/写真は「見えていた」時のもの 知覧の海岸で採取される菊面石(サンゴ石)を原料にして石灰を焼いた釜/水・海草・鮫油等の繊維を加え、土蔵・土塀等に使用された/天保14に編纂された『三國名勝圖會』に産物の筆頭として記載 3