河川の付替え
都道府県別データ一覧にある河川の治水目的による付替え(トンネルを含む)
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
和淵の狭窄部
わぶち
宮城/石巻市
付替え(狭窄化)
長200m,幅100m
寛永3(1626)
洪水と治水の河川史p82
基本的に当時のまま(災害時の対応はあった可能性)
事業主:伊達政宗、普請奉行:川村孫兵衛重吉/政宗による北上川の2期目の改修工事の枢要=江合川の合流地点より上流を遊水地とするための工夫(下流側の洪水防御が目的)
2
米谷の蛇行部
まいや
宮城/登米市
北上川
付替え(蛇行化)
S字型に蛇行
元和2-9(1616-23)の間
洪水と治水の河川史p79/WEB
基本的に当時のまま(災害時の対応はあった可能性)
伊達正宗の命で、重臣であった登米伊達氏の初代当主・伊達相模宗直
(上記・白石相模宗直と同一人物)が施工/政宗による北上川の1期目の改修工事の枢要=北上川が仙北平野に出た直後にS字型の蛇行部を造り、流速を落とし水深を確保しようとしたと推測される(舟運路を開くことが目的)
1
A
日向川
にっこう
山形/酒田市
日向川
付替え(開削)
長2.5㎞, 幅200m
文久2(1862)
岩屋隆夫/WEB
河口部に往時の雰囲気が残る
天保14年の印旛沼新川のお手伝い普請に駆り出された庄内藩が、この工事の経験を踏まえ、翌年、日向川の水害防止を目的にして庄内砂丘(高30m)を掘り割る新川を開削
2
B
天野の瀬替え
あまの
新潟/新潟市(江南区)
信濃川右岸
付替え(瀬替え)
新川
:長約1100m,幅約150m),
締切堤防
:長455m,636m
延宝7(1679)頃、新川
万延元(1860)、旧河道締切
信濃川下流河川事務所
旧河道は、道路の線形と地名によって伺い知れるだけ
信濃川の蛇行部→氾濫→ショートカット(新川)による氾濫防止(延宝7頃)→新川の本流化→新川と旧河道に挟まれた中洲の新田化→旧河道の締切りによる新田の洪水防御
4
B
堀切堤
・跡
ほっきり
栃木/(下都賀)壬生町
黒川
付替え
江戸中期以前
町教委
堤防が一部残る
〔写真の堤防の向こうの一列の木の向こうが黒川〕
壬生城主が、新田開発のため、黒川の羽生田から先の台地を開削し流路を変更したとの伝承
3
B
荒川の川廻し(雨降滝)
あらかわ
(あめふり)
千葉/勝浦市
夷隅川
付替え(トンネル)
(素掘)
高低差5m
江戸中期
夷隅風土記p141
新田開発用ではなく、洪水対策としてのショートカット(瀬替え)→新旧の両川が残る
1
B
千曲川瀬直し
ちくま
長野/長野市
千曲川
付替え
約7㎞
江戸中期以降
千曲川河川工事事務所
平成11国土交通省が再度瀬直し/旧河道の痕跡ほとんどなし
城主の居館や松代城、城下町の水難を取り除くために造られた
千曲川の付替え流路
/城下町以外の村々は田圃の消失、洪水による耕地の流失に苦しんだ
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A
布気町の鈴鹿川瀬替え
ふけ
三重/亀山市
鈴鹿川(左岸)
付替え(瀬替え)
約1㎞
安永9(1780)以前
WEB/市教委
かつての河道の痕跡が、樹林帯となって残る
施工: 亀山藩士・生田理左衛門/安永年間に着工した鈴鹿川の直線化(水害防止)
4
C
宝達川
ほうだつ
石川/(羽咋)宝達志水町
<加賀藩>
付替え
宝暦3(1753)→土砂堆積のため天井川化
町教委
(押水のあゆみp6-7)
改修大一部/土砂堆積のため天井川化→堤防かさ上げ
加賀藩により山崎集落から海まで直線的に開削し流路変更
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B
大和川の付替え
やまと
大阪/柏原市
<大和川>
付替え
延長約14.3㎞,高約5m,幅約180m
元禄17(1704)
石田
堤防を嵩上げ/
写真
は、旧大和川の流路を北から西に直角に変える部分に構築された「築留」堤(
右
)と、西(
正面
)に向かって直線的に掘られた新河道
旧大和川流域は天井川地形のため洪水の常襲地帯となっていたため、新川開削による付替えの嘆願書が何度も町奉行所に提出された→しかし、新川が開削される地域では多大な不利益をこうむるため、反対の嘆願書が提出され膠着状態に陥ってしまう→最終的に、元禄15(1702)に出された42ヶ村による付替え嘆願書を受け、翌16年4月に大坂東町奉行所代官・萬年長十郎が検分を実施、翌5月には幕府の若年寄・大目付・勘定奉行が検分、10月には付替えを決定、翌17年2月着工、14.3㎞、幅180mの開削という大工事にもかかわらず同年10月には完成/旧河道は砂地のため綿花が栽培され、幕府に安定した収入をもたらした→この経済的効果が、付替えを決断した最大の理由とされる
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日吉の切通し
ひよし
島根/松江市
意宇川
付替え(切通し)
幅12.7m→約30m
長29m,開削高約20m(最終的な掘削土量23000t)
承応元(1652)
→延享4(1747)拡幅
市教委/WEB
一部当時のまま
大百姓・周藤弥兵衛家正が、意宇川の水害を減らすため直線化を陳情→松江藩初代藩主・松平直正が3年がかりで剣山を切り開いて意宇川を直線化→切通し部が狭かったため氾濫の防止に役立たず→家正の孫の弥兵衛良刹が私財を投じて切通し部を42年かけて拡幅(私財が底をついて人を雇う事ができなくなると一人で鑿を持って岩を削ったと言われる)
2
A
若狭土手
わかさ
島根/出雲市
斐伊川
付替え
寛永16(1639)頃
市教委/現地解説板
嵩上げ・改修/太平洋戦争時、軍用材としてほとんどが伐採
施主:出雲松江藩主・京極若狭守忠高、技術者・川口昌賢(忠高は寛永14に死去→信濃から転封した松平直政が引き継ぐ)/斐伊川の本流を武志で東に向け穴道湖に注ぐ大工事の要⇒武志の土手⇒若狭守に因んで若狭土手と呼称/その後も、松山藩は斐伊川の付替え工事を5回も行った
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A
真締川の付替え
まじめ
山口/宇部市
真締川
付替え
長約1㎞
寛政10(1798)
WEB
護岸改修、嵩上げ
施主:領主・福原房純/砂州を掘り割って直線的に海に川水を流す工事を行い、現在の川筋とした
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B
香東川の付替え
こうとう
香川/高松市
(栗林公園)
<付替え>
寛永年間(1630頃)
WEB
庭園化され、川だったイメージはない
現在の高松市中心部を流れていた香東川の洪水防御のため、高松藩奉行・西嶋八兵衛が行った付け替え工事→流れの跡地に栗林荘(栗林公園の前身)を築庭
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A
大禹謨の碑
だいうぼ
香川/高松市
栗林公園
<大野・中津の堤防>
石碑(自然石)
高50㎝,幅27㎝,厚17㎝
寛永8-9(1631-2)頃
現地解説板/WEB
昭和37移設
香東川の付け替えを計画・実施した土木巧者である高松藩奉行・西嶋八兵衛が、古代中国の伝説の治水の名君・禹王にあやかって建立したもの/平成24が、碑が発見されてから百年にあたる
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B
辰の口堀切
たつのくち、ほりきり
長崎/対馬市
佐護川
付替え(切通し)
享保8(1723)
市史跡
市教委(上県町の文化財)/WEB
保存状態良好
対馬最大の佐護川は、しばしば洪水氾濫を起こしていた→儒者・陶山訥庵は、川筋を変え水利を計り農作物の自給を高めようと考え、齋藤四郎治を八郷普請奉行に推薦→岩盤を切り通して佐護川の流れを変えた
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B
阿須川の開削
あずがわ
長崎/対馬市
阿須川
付替え(切通し)
万治2(1659)
WEB(みさき道人)
/市教委
一部C護岸
対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/府中(現厳原)を水害から防ぐ目的で、府中の北にある振袖山から東の後山に連なる丘陵の鞍部を開削し、阿須川を新たに開削した
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B
大浦川川直し
おおうら
鹿児島/
(熊毛)南種子町
(種子島)
大浦川
付替え
長200m,幅10m
万延2(1861)
現地解説板
/WEB(みさき道人)
保存状態良好
安政4(1857)に竣工した松寿院の代表的な事業/平山から熊野へ行く道は大浦川の潮が満ちると人馬の通行が困難で、満潮時には海から入った潮で農作物は塩害を受けていた→松寿院は、大浦川を拡幅・直線化することで解決
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B