湖沼や河川の排水路

   都道府県別データ一覧にある湖沼や河川の排水路(トンネルを含む)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 品井沼(元禄)潜穴 しないぬませんけつ・げんろくあなじり 宮城/(宮城)松島町   排水(トンネル)
(素掘)
長2578m,幅3.6m
,高2.4m,2本
元禄11(1698)   町教委/WEB/岩屋隆夫 隧道終点/建設当初のまま 総指揮者:仙台藩士・大越喜右衛門/面積1800haもあった広大な品井沼の水を松島湾に排出し、かつ、鳴瀬川の逆流を防いで水害をなくし、品井沼に新しく「水田」を開くことを目的に造られた排水路/江戸期を代表する農業排水用の長大トンネル/平地部の長大トンネルだったため、途中に10ヶ所の竪穴を掘り、竪穴と竪穴の間に横穴(潜穴)を掘るという手法が用いられたが、高低差がわずか1.6mしかないため難工事となった 2 写真
写真 堀割川 ほりわり 茨城/神栖市 利根川 排水(放水路) 延長約2㎞,最大幅20m 江戸末期   市教委 一部残存 利根川の増水対策の排水路として造られたが、機能せず放置された 4
写真 関宿落 せきやど、おとし 千葉/野田市 (関宿江戸町~船形地区) 排水、用水路 長約20㎞ 嘉永3(1850)   市教委/WEB 大規模な改修 関宿の利根川による洪水被害と、農地の排水問題を解決するため関宿藩士・船橋随庵が企画・施工した用排水路 3
  嵯峨隧道 さが 福井/(三方)美浜町・
(三方上中)若狭町
水月湖→日向湖 排水(トンネル)
(素掘)
長145m 宝暦13(1763)   町教委/若狭町教育委員会 明治27・昭和7・昭和54に大改修→C巻立て、坑口近代化、水門構築/日向湖の養殖による汚水流入を防ぐため通常は締切 もともと宝永6(1709)に完成した大津の笹井豪商による町人請負型の新田開発のための隧道が発端(干上がり新田が少なく失敗→享保20(1735
)の大洪水で崩壊)/浦見川の開通により三方湖畔に生まれた新田村が、大雨による三方湖の氾濫で大きな被害を受けたのを受け、宝暦7(1757 )に田井村の赤尾善次ら7人が小浜藩に願い出て着工(藩は財政難)→ 工費がかさみ赤尾善次以外は脱落→赤尾本次郎の協力を得て宝暦13 に完成/その後も、寛政・天保年間に崩落・開削した
4
写真 長尾の堀切 ながお、
ほりきり
福井/
(三方上中)若狭町
三方湖→菅湖 排水(切通し) 長約120m 寛永19(1642)※   町教委(三方集落の歴史展p17、三方五湖の漁業・下p56) 護岸C改修 三方湖の水を菅湖に早く排出するために開削/寛永の飢饉に苦しむ小農の救済策(仕事をさせて飯米を配給)としての側面もあった/気山区有文書の検地帳から明暦3(1657)以前に開削された(※は、「1662 寛文近江・若狭地震報告書」「三方五湖の漁業・下」による) 3
写真 浦見川(浦見運河) うらみ 福井/
(三方上中)若狭町
水月湖→久々子湖 排水(切通し) 長236m,幅6m,最大堀切高36m 寛文4(1664)   町教委(1662 寛文近江・若狭地震報告書) 保存状態良好 もともと寛文元(1661)に着手した京都の後藤・角倉両豪商による町人請負型の新田開発のための隧道が発端(完成前に大地震)/寛文2(1662
)5月1日の近江・若狭地震で、三方・水月・菅湖の唯一の排水河川であった上瀬川の河口が3.6m隆起し湖面上昇で多くの村が浸水したため、藩営事業として小浜藩三方郡奉行・行方(なめかた)久兵衛の総指揮で開削された排水路/緊急性があったため臨時通水、排水、再開削をくり返した/延べ22万5490人、1659両の大工事/345石の干上がり新田が誕生した/水月湖と菅湖が汽水化
1 写真
写真 西野水道 にしの 滋賀/長浜市 <余呉川> 排水(トンネル)
(素掘)
長249m,幅1.5m,高1.6-3m 弘化2(1845) 県史跡 高月町教育委員会/岩屋隆夫
/郷土に歴史的土木事業を訪ねるp111-114
排水機能を上げるため、昭和25と昭和55に新トンネルが掘られ、現在は後者が現役、前者が遊歩道となり、江戸期のトンネルは閉鎖 緩勾配で氾濫しやすい余呉川に苦しめられていた西野地区を救うため、西野充満寺の住職・恵荘師が発起し、姻戚の青木津右ェ門が彦根藩との折衝役を務め、西野の農民が石工の賃金等のほとんどを負担する形で6年がかりの難工事を完成させたもの 3
  樋越川(マブ) ひこし 京都/京丹後市 離湖→日本海 排水(トンネル)
(素掘)
長約500m,
幅・高約1m
延宝5(1677)   市教委 坑口C改修 離湖の洪水防止と新田開発を目的に掘られた排水用トンネル/両側から掘り進んだため中央で若干のくい違いがある 4
写真 番田井路 ばんだ 大阪/高槻市   排水(放水路)   慶安4(1651)   木谷幹一/WEB   高槻城主・永井直清が、慶安3(1650)の大洪水を受けて、芥川左岸に広がる低湿地の水を排出するための開削した排水路(一種の治水対策) 2
写真 差海川 さしみ 島根/出雲市 神西湖~日本海 排水(放水路) 長1.3㎞,幅約18m 貞享4(1687)   歴史の道2p33/WEB 護岸Cブロック改修 排水河川のない神西湖の湖害(長雨で溢水し農作物に被害)を防ぐため、松江藩の開発棟梁(古志町の豪農)初代・大梶七兵衛(朝泰)が藩の許可を受け私財を投じて放水路を開削(放水路案は、神西沖村の間島作庵と藤崎五右衛門によるもの) 2
写真 掛戸の切通し(掛戸松島) かけと 島根/大田市 旧・波根湖~日本海 排水(切通し) 幅25m 徳治元(1306) 市名勝 歴史の道2p41 切通しの出口にある「掛戸の松」で有名 波根湖の水を直接日本海へ排水させるため、丘陵地(凝灰岩と礫岩からなる標高50m前後)を掘削した切通し/有馬次郎左衛門一政と、二代目の次郎左衛門尉宗茂が千数百人の夫役を指揮して7年余の歳月を費やしたとされる(鎌倉時代とされているが、16世紀という説もある)/国内の水路の大規模な切通しとしては格段に古い/水深は10-20㎝と浅いが、幅3m,深20㎝の東溝と幅2m,深30㎝の西溝がある(海水の流入防止のためと考えられている)/約20mの塔状の岩「掛戸の松」が工事の記念碑的存在 1 写真