下水
都道府県別データ一覧にあるすべての下水遺構
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
元・
追分の下水石樋
おいわけ
東京/新宿区
都立新宿高校
下水路
長約3.6m,幅約1m
木樋→
寛政7(1795)石樋に変更
現地解説板/WEB
上水の暗渠化に伴い昭和初年頃に撤去され、後に新宿高校に移設
甲州街道と青梅街道の追分一帯の雨水などの下水を新宿御苑内の池へ落とすために上水の上に架設された石樋
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B
松平摂津守屋敷の
排水暗渠遺構
まつだいらせっつのかみ
東京/新宿区
落合水再生センター
下水路(石組暗渠)
長50.4m→約2.5m
江戸期
区埋蔵
現地解説板/区教委/WEB
発掘後、一部を移設復元
池の排水用の水路として造られたとされており、明治半ばにはその土地の排水路に、また大正期には下水道施設に役割を変え、現在もその役割を果たす
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A
北町奉行所の下水溝遺構
きたまち
東京/千代田区
北町奉行所跡
下水路
文化3(1806)以降
現地解説板/江戸切絵図今昔散歩p12
発掘後、移設・復元/本来3~4段の石積みであったと思われるが、最下段のみ現存
北町奉行所跡から発掘された下水溝遺構/溝の角石が切り取ってあるのは邪鬼が進入する鬼門である艮の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされる
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C
大野城下の背割排水
おおの
福井/大野市
<大野城下町>
排水路
天正3(1575)以降
市教委/WEB
C水路化/現在も生活用水の排水路として現役で使われているため、5本ともすべて残っている
織田信長により大野の領主に抜擢された金森長近が、城を取り囲むように配置した城下町の屋敷裏境界に設けた直線状の排水路/かつては、上記「本願清水」から引水した上水が道の中央を流れて上水路+排水路でワンセットになっていたが、上水路は埋め立てられたため、排水路だけが残っている
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A
太閤(背割)下水
たいこう(せわり)
大阪/大阪市(中央区)
石積下水渠
幅0.3-3.6m
江戸初期
市史跡
(約7㎞)
有井/WEB
明治27に暗渠化/約20㎞をC巻立し、現役で使用中/一部見学区間のみ石積が露出
太閤下水は、あくまで通称で、文化財の指定名称は「中央部下水道改良事業の下水道敷」→現存する石組下水道が豊臣時代に遡るかどうか、現時点の発掘調査では確認されていない/慶安元~万治元(1648-58)の「三郷町絵図」には、現在の南大江小学校付近に水色に彩色された水路が描かれていることから、江戸初期は水路が存在していたことは確かである。大坂が淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地であったため、町屋から出る下水を排水する目的で造られたと思われる/大坂城に向かう東西の道路に向かって町屋が建っており、その町屋の背面を割るよう規則正しく計画されている→水路と道路に挟まれた約72m四方の区画が町割りの基本となっている/この排水路は、当初恐らくは素掘りの開渠で、それがいつの段階かで石組に変更され、明治27に暗渠化され、現在は現役の下水道として使われている/残念ながら、この流れのどこにも秀吉の名は出てこない
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鳥取城下町の排水溝
・跡
とっとり
鳥取/鳥取市
<鳥取城下町>
碁盤目状街区(排水溝)
光政領地期(1617-32)に計画・開始→光政との国替えで入封した池田光仲時代以降
WEB
多くが、舗装されて路地化
/場所により数m単位で断片的に表面観察できる
碁盤目状街区の中に道路と交互に設けられた生活排水溝群/悪水抜・大溝とも呼ばれた
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B