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福島県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
李平の石畳
すももだいら
福島市
<米沢街道>
石畳道
江戸期以前
市教委/歴史の道・米沢街道1p58
現状は不明/江戸期に改修
石畳が最も良く残っていている地域に「旧米沢街道石畳保存箇所」の標柱
3
C
祓川橋
(めがね橋)
はらいがわ
福島市
駒山公園
<羽黒山参道/祓川>
石アーチ橋
長8.5m(A),幅5.5m,有効幅4.7m
安永年間(1772-81)
市有形
市教委/WEB
昭和45に公園内に移築/移築の際に破損部分を修復
古関三郎治が寄進/東北地方で唯一の江戸期の石アーチ/両側の楔石に鶴と亀の浮彫り
2
B
本山の庚申塔道標
もとやま
福島市
<米沢街道>
石道標
高160㎝,幅82㎝,厚18㎝
安永5(1776)
市教委/歴史の道・米沢街道1p23
移設の可能性あり
「右 ふく志ま道/左 大森・米沢道」
C
鮎滝渡船場
・跡
あゆたき
福島市
阿武隈川
渡船場
江戸期以前
国史跡
市教委/WEB
渡船場としては、よく保存されている部類に入る/河原に下る石畳も残る(下記)
古来より伊達郡と信夫郡を結ぶ交通の要衝とされる/船をつなぐための石穴が、水位に合わせて3ヶ所用意/明治8年、上流に逢隈橋ができたことにより廃止
2
B
鮎滝渡船場の石畳
あゆたき
福島市
阿武隈川
石畳道(渡船場)
長10m
江戸期
市教委/WEB
当時のまま
鮎滝渡船場(上記)の直前、河岸に降りるための石畳/渡船場に付随した石畳が残るのは珍しい
2
C
西根下堰の取水堰
にしねした
福島市
摺上川
取水堰(石護岸)
元和4(1618)
市教委/WEB
水路護岸の石積みが遺構として唯一現存
旧取入口/自然流化の方式で掘り下げて造られた
3
C
西根上堰の穴堰
にしねうわ
福島市
摺上川
取水堰
寛永年間(1624-44)
市教委/WEB
隧道は残されているが、コンクリート水路が通されている
旧取入口/自然取入れの穴堰/現在では上流に移設
4
C
西根上堰の隧道
(鼻毛の隧道)
にしねうわ
福島市
摺上川
素掘トンネル
(水路)
長約5.7m
寛永年間(1624-44)
市教委/WEB
僅かな部分の片岸に当時の開削さいれ遺構が残る
半田銀山の坑夫を動員/岩盤が固く1日1m弱しか進まなかったとされる
3
C
堅刈の難所の木樋用掘込み
かたがり
福島市
摺上川
用水路
長約32m,幅約2m,深約1.8m
寛永年間(1624-44)
市教委/WEB
左岸に木製樋を支えたとされる崖を掘削した跡が点在
岩盤の掘削が不可能なため、岩盤上部に木樋を掛けて通水
2
C
荒井堰
あらい
福島市
荒川
用水路
受益面積651ha
鎌倉期?
荒川づくり協議会
自然渓流風
1
A
佐原堰
さばら
福島市
荒川
用水路
受益面積347ha
江戸中期
荒川づくり協議会
「おいらせ」の愛称→流路沿いに遊歩道が整備
自然渓流風
1
A
上名倉堰
かみなぐら
福島市
荒川
用水路
受益面積620ha
江戸末期
荒川づくり協議会
自然渓流風
1
B
刀窪堰
かたなくぼ
福島市
荒川
用水路
受益面積25ha
江戸末期
荒川づくり協議会
ほぼU字溝で改修
4
這原堰
はいばら
福島市
荒川
用水路
受益面積15ha
江戸末期
荒川づくり協議会
U字溝で改修されるが、当時の部分も残る
3
荒川の旧霞堤群
(右岸)
あらかわ
福島市
荒川
石堤防(霞堤)
(37基)
〔写真〕
の石堤:
長103.6m,高2.6m
江戸前期?
知野泰明/市教委/WEB
水害防備林内
現存する日本最大級の近世霞堤群/万治2~宝暦10(1659-1760)にかけて植林や築堤が行われた記録はあるが、現存する霞堤がその時期の構造物かどうかは不明/明治3の絵図に石積みの霞堤が複数描かれていることから江戸期にある程度できていたことは確か/長100m級の霞堤が雁行型に残る/端部が隅櫓風になった石堤が1ヶ所あり、前面を背の低い(高1m弱)補助堤で補強している
〔写真〕
1
荒川の旧霞堤群
(左岸)
あらわか
福島市
荒川/
あづま総合運動公園、他
石堤防(霞堤)
(31基)
〔写真〕
の石堤:
長176.8m,高0.9m
江戸前期?
知野泰明/市教委/WEB
石堤防だが土で覆われている部分が多い
同上/隅櫓風の石堤はないが、規模の大きい(長い)ものが多い
2
A
荒川の水害防備林
あらかわ
福島市
荒川
水害防備林
左岸
:長約1.9㎞,約3.7㎞,
右岸
:約2.9㎞
万冶2(1659)以降
知野泰明/市教委/WEB
両岸/現在は赤松/平成20年に強風によって約1000本倒木
現存する水防林は広葉樹林/赤松は後世の補植の可能性が高い
3
A
滝沢峠の石畳
たきざわ
会津若松市
<白河街道>
石畳道
長約300m
寛永4-11(1627-34)
市教委
一部破壊されたが復元
天正19年に白河裏街道として開通/寛永11年に石畳道に改修し、それ後は滝沢道が表街道
3
C
穴切一里塚
あなぎり
会津若松市
<白河街道>
一里塚(2基)
9m四方
寛永11(1634)以前
市史跡
市教委/現地解説版
塚木は後世の補植/両塚現存
9m四方の塚を築き、榎を植えたことから「榎壇」と呼ばれた/旧街道の雰囲気が良く残る
3
B
八田野一里塚
はったの
会津若松市
<二本松街道(下街道)>
一里塚(2基)
北塚
:高2.4m,周囲38m,
南塚
:高3.6m,周囲35m
寛文10(1670)
市史跡
市教委/現地解説版
塚木は、桜・榎とも後世の補植/両塚現存
旧街道の雰囲気が良く残る
3
B
高瀬新田の金毘羅常夜灯
たかせしんでん
会津若松市
<越後街道>
石常夜灯
高3m
天保5(1834)
市教委/歴史の道・越後街道p27
移設
「金比羅大権現」「常夜灯」
2
B
冬木沢入口の道標
ふゆきざわ
会津若松市
<米沢街道>
石道標
高約120㎝
寛永2(1749)
市教委/歴史の道・米沢街道2p21
良好に現存
「(已侍供養塔)」
1
C
湯殿山道標
ゆどの
会津若松市
<越後街道>
石道標
高約120㎝
元治2(1865)
市教委/歴史の道・越後街道p38
良好に現存
「右 日光街道」「左 江戸街道」
1
C
弁天洞門
(戸ノ口堰洞門)
べんてん
会津若松市
戸の口堰
(猪苗代湖→会津)
素掘トンネル
(水路)
長約170m
天保8(1837)
市教委/WEB
内部はコンクリート補強されているが、その他は当時のまま
飯盛山を掘りぬいて作られた会津盆地の灌漑用水路/戊辰戦争の時に白虎隊が抜け穴としてこの水路を利用したとされる
2
B
日新館天文台
・跡
にっしんかん
会津若松市
石垣基壇
頂部9.95m四方,高6.36m
享和3(1803)
市史跡
WEB /WEB(日本測量史)
石垣しか残っていないが、石垣自体の保存状態は良好
会津藩では天文学が盛んで、藩校・日新館の授業の中に天文学があり、天文台が設けられていた(日新館の施設で唯一現存)/江戸時代の天文台は、貞享2(1685)に設置された江戸の司天台が嚆矢で、その後、浅草と九段の天文台に引き継がれる(浅草天文台は高9.3mの石垣上に設けられた)。都内のため、現在は解説板が1つ立っているだけである。
2
A
勿来切通し
なこそ
いわき市
<岩城相馬街道>
切通し
17世紀前半
市教委/WEB
一部が現存し、当時の姿を残す
庄屋酒井平左衛門が洞門を切り通しとしたもの/夏草の生い茂る古道/長さは未計測
3
C
平沼ノ内の如意輪観音像道標
たいらぬまのうち
いわき市
(浜街)
石道標
(舟型、砂岩)
高210㎝,幅65㎝,厚54㎝
安永2(1773)
浜通り地方の道標p49
移設
(最下段の台石正面左端)「是より左/がき穴江 二丁」/最下段の台石の上に、樽型、餅型、浮彫の見事な蓮台を載せ、最上部に光背付きの如意輪観音の半跏坐像の浮彫を置く
2
A
久之浜町田之網の道標
ひさのはま、たのあみ
いわき市
(横内)
石道標
(自然石、花崗岩)
高190㎝,幅80㎝,厚50㎝
寛政7(1795)
浜通り地方の道標p26
移設?
(正面)「波立薬師道」
2
B
常磐上湯長谷町の庚申塔道標
じょうばん、かみゆながや
いわき市
長谷寺
石道標(自然石)
高63㎝,幅40㎝,厚26㎝
寛政11(1799)
浜通り地方の道標p43
移設
(正面右端)「右ハ ゆなかや道」、(同左端)「左ハ ゆもと道」/正面中央に「庚申塔」と陰刻
2
-
永崎の題目塔
道標
ながさき
いわき市
(橋出)
石道標(自然石)
高275㎝,幅185㎝,厚40㎝
享和3(1803)
浜通り地方の道標p45
移設、集約/刻字が磨耗
(正面右)「右
□
名道」(=江名?)/正面を長方形に浅く削り込み中央に
「南無阿弥陀佛」と陰刻/海中から切り出された原石→正面に虫の掘った穴が多数残る
3
B
田人町貝泊の馬頭観音
道標
たびと、
かいどまり
いわき市
(下戸草)
石道標
(自然石、花崗岩)
高100㎝,幅77㎝,厚46㎝
享和3(1803)
浜通り地方の道標p61
移設
(正面右下)「右ハ 中沢」、(同左下)「左へ 竹貫」/正面中央に「馬頭觀世音」と陰刻
2
C
内郷高野町の
道標
うちごう、こうや
いわき市
(板橋)
石道標
(自然石、花崗岩)
高87㎝,幅63㎝,厚22㎝
文化13(1816)
浜通り地方の道標p62
転倒→復元
(正面)「右 こふや/左 加とうの、道」
1
C
小名浜の題目塔道標
おなはま
いわき市
(横町)
石道標(自然石)
高83㎝,幅38㎝
文政4(1821)
浜通り地方の道標p44
移設(←Cの一枚基礎上に集約)
(正面最下部右)「右 たいら道」、(同左)「左 ゆもと道」/正面中央に「廿三夜塔」と陰刻
2
C
三和町合戸の道標
みわ、ごうど
いわき市
(駅)
石道標
(自然石、花崗岩)
高120㎝,幅37㎝,厚22㎝
嘉永7(1854)
浜通り地方の道標p29
原位置?
(正面)「左 たけみち」/正面中央を駒型に浅く削り込んで道しるべ、建立年、建立者(地元の酒造業者)を陰刻
1
C
川部町の馬頭観音道標
かわべ
いわき市
四時ダム公園駐車場・向かい
石道標
(自然石、閃緑岩)
高51㎝,幅20㎝,厚23㎝
安政3(1856)
浜通り地方の道標p54
移設
(右面)「右ハ/浅川道」、(左面)「山道/左」/正面に「馬頭尊」と陰刻
2
-
勿来町酒井の題目塔道標
なこそ、
さかい
いわき市
(関表)
石道標
(自然石、閃緑岩)
高113㎝,幅44㎝,厚40㎝
安政5(1858)
浜通り地方の道標p17
移設、密集
(正面左)「右に 関根/左に 出倉」/正面に大きく「湯殿山」と陰刻
3
C
植田町の
道標
うえだ
いわき市
(本町)
石道標(変成岩)
高75㎝,幅40㎝,厚15㎝
慶応2(1866)
浜通り地方の道標p20
移設/頂部欠損
(正面)「右 春か川 松川/左 江戸 水戸、道」
3
C
内郷高野町の鳥獣供養塔
うちごう、
こうや
いわき市
石碑(自然石、道標兼)
高81㎝,幅37㎝,厚26㎝
享和2(1802)
WEB(動物のお墓)
移設(基部に大きなC塊)
(正面)「鳥類猪鹿千丸供養」、(右面)「右ハ あがいたけ道」/獲物を千頭捕ったことを供養した碑
2
C
中神谷の隧道
なかかべ
いわき市
磐城小川江筋/夏井川
素掘トンネル
(水路)
長約3m
寛永15(1638)頃
市教委/WEB
隧道を通る水路は昭和33にC化/隧道は当時の状態
磐城平藩の郡奉行の沢村勘兵衛勝為が藩主・内藤忠興の命令を受けて築造
4
C
中塩の隧道
なかしお
いわき市
磐城小川江筋/夏井川
素掘トンネル
(水路)
長約3m
寛永15(1638)頃
市教委/WEB
隧道を通る水路は昭和33にC化/隧道は当時の状態
磐城平藩の郡奉行の沢村勘兵衛勝為が藩主・内藤忠興の命令を受けて築造
4
C
馬目の隧道
まのめ
いわき市
磐城小川江筋/夏井川
素掘トンネル
(水路)
長約3m
寛永15(1638)頃
市教委/WEB
隧道を通る水路は昭和33にC化/隧道は当時の状態
磐城平藩の郡奉行の沢村勘兵衛勝為が藩主・内藤忠興の命令を受けて築造
4
C
別府一里塚
べっぷ
喜多方市
<米沢街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.75m,直径14.5m,
西塚
:高2.8m,直径12m
江戸初期
県史跡
市教委/歴史の道・米沢街道2p47
/WEB(がりつう)
ほぼ原形を留めているが、オリジナルの塚木は残っていない
若松城下から米沢に至る米沢街道沿いに設けられた3番目の一里塚
2
B
塩川町の道標1
しおかわ
喜多方市
竹屋観音寺
石道標
高73㎝
元禄6(1693)
市教委
移設
「右へ 山みち」「くわんおんみち」/17世紀の道標
2
C
塩川町の道標2
しおかわ
喜多方市
(別府)<米沢街道>
石道標
高128㎝,幅28㎝
文久3(1863)
市教委/歴史の道・米沢街道2p47
原位置?/風化は進むが、当時の姿を留めている
「米沢街道」「小田付 小荒井」
1
C
塩川町の道標3
しおかわ
喜多方市
駒形神社<米沢街道>
石道標
高226㎝,幅34㎝
江戸期
市教委/歴史の道・米沢街道2p47
神社東の街道沿いから井戸脇に移設
(正面)「西 飯豊山 柳津 越後道」、(右面)「南 若松 日光 江戸街道」、
(左面)「北 湯殿山 米澤街道」、(裏面)「東 猪苗代 二本松道」/会津地方で最も大きい代表的道標/「江戸」の標記は江戸期
2
B
日和田町の奥州街道松並木
ひわだ
郡山市
<奥州街道>
松並木
慶長9(1604)
市教委/WEB
断続的に現存はしているが、いつ頃に植えられたものが残るのかは不明
徳川家康の命により奥州街道が整備された時に植えられたもの
3
C
三代一里塚
みよ
郡山市
<白河街道>
一里塚(1基)
江戸期
市史跡
市教委/歴史の道・白河街道p71
片方の塚は道路整備により消失したが、1基が現存
3
C
大町の道標
おおまち
郡山市
<岩城街道>
石道標
高170㎝
文政8(1825)
歴史の道・岩城街道p2
赤木小学校に移設されるが、現在は元の場所(旧大町交番跡)に再移設
(正面)「從是 三春道」
2
C
大町の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆
(一町仏)
おおまち
郡山市
今泉女子専門学校
一町仏
(板碑、凝灰岩)
高70㎝,幅40㎝
長治2(1105)?
市史跡
今泉玲子(今泉女子専門学校校長)
原位置/祠内/保存状態良好
奥州平泉の藤原清衡が中尊寺を草創(長治2)した記事に「先自白河関至于外浜 廿余ケ日行程也 其路一町別立笠率都婆云々」とある一町ごとに建てた塔婆、との伝承/
国内最古の町石と言われるが、町数が示されていないため町石ではない(存在そのものを否定する説もある)
/全面を凸型に彫り込んで、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至音菩薩の三尊像(西を向いている)を陽刻/『相生集(1841)』に記載
1
A
石阿弥陀一里塚
いしあみだ
白河市
<奥州街道>
一里塚(2基)
北塚
:高3.2m,直径13×12m
南塚
:高2.5m,直径12×7m
慶長9(1604)?
市史跡
市教委/WEB
北塚はほぼ原形を留めているが、南塚は東部が一部欠損/道路が消
平成17・18の白河南中学校建設に伴う「芳野遺跡」の発掘調査で、一里塚の方向に東西に延びる17世紀前半の道路跡(幅約10m)の存在が確認→道幅から当時の主要道の可能性が高い→石阿弥陀一里塚は初期の奥州街道の一里塚と考えられている
3
B
旗宿の道標
(旗宿関の森の道標)
はたじゅく
白河市
石道標(自然石)
高51㎝,幅18㎝,厚17㎝
延享3(1769)
WEB(がりつう)
移設、集約
(正面)「左、日光/江戸、道」、(右面)「右、白坂/寄居、道」
2
-
旭町の道標
(宗祇戻し前の道標)
あさひ
白河市
(1丁目)
<関山街道・石川街道>
石道標
高153㎝(うち、台石7㎝),30㎝角
文政5(1822)
WEB(がりつう)
原位置
(正面)「(梵字)右 たなくら/左 いしかハ」
1
C
登町の題目塔道標
(北登町矢場八幡社の道標)
のぼり
白河市
歴史民俗資料館
<原街道・奥州街道>
石道標
高121㎝,幅30㎝,厚40㎝
天保9(1838)
WEB(がりつう)
移設
(正面最下部)「右/那須原」、(左面下部)「江戸海道」/正面頂部を五角形に削り込み、その下に大きく「髙湯山」と陰刻/高湯山信仰の石碑を兼ねた道標
2
C
関辺の馬頭観音道標
せきべ
白河市
(上ノ原)<関街道>
石道標(尖頭角柱)
高76㎝,幅30㎝,厚32㎝
文久元(1861)
市教委/WEB(がりつう)
移設/下部埋没
(左面)「関道往…」/正面に「馬頭觀…」と陰刻
3
-
旗宿の一町仏
(伝・一町仏供養塔)
はたじゅく
白河市
<奥州街道>
一町仏(自然石)
高81㎝,幅52㎝,厚22㎝
長治2(1105)?
市史跡
武部健一/WEB
保存状態良好
阿弥陀如来を表す梵字が陰刻/奥州平泉の藤原清衡が中尊寺を草創
(長治2)した記事に「先自白河関至于外浜 廿余ケ日行程也 其路一町別立笠率都婆云々」とある一町ごとに建てた碑、とされる/
国内最古の町石と言われるが、町数が示されていないため町石ではない(存在そのものを否定する説もある)
/傍らに、享和2(1802)建立の白河藩校立教館教授・広瀬典による解説碑
2
B
旗宿の黒羽・白河領境石
はたじゅく
白河市
県道76号、境の明神
<関街道>
境界石(尖頭角柱)
高184㎝,幅24㎝,厚24㎝
寛政期(1789-1800)頃
市教委/WEB(がりつう)
移設/中央で水平に折損→修復
(正面)「從是北 白川領」/国道294号<奥州街道>の境の明神にある同じ文面の境界石は明治初期のもの
2
B
須賀川一里塚
すががわ
須賀川市
<奥州街道(陸羽街道)>
一里塚(2基)
東塚
:直径15×12m
西塚
:直径15×10m
江戸期
国史跡
WEB/歴史の道・奥州街道p49
両塚現存/塚型が良く保存されている/塚木は植え替えられ、オリジナルはなし
塚のある旧国道の両側にはかつて松並木があった
3
B
勢至堂一里塚
せいしどう
須賀川市
<白河街道>
一里塚(2基)
江戸期
町史跡
歴史の道・白河街道p71/WEB
立入禁止の旧国道沿い(現在は私有地)に保存
4
B
石河の滝
(乙字ヶ滝)
の常夜灯
いしかわ
(おつじ)
須賀川市
石常夜灯
高2.48m
文久2(1862)
現地調査
2
C
勢至堂峠の会津藩境石
せいしどう、あいづ
須賀川市
<白河街道>
境界石
江戸期
市教委
「是より西北会津領」
1
C
池上町の白河藩境石
いけがみ、
しらかわ
須賀川市
<奥州街道>
境界石
江戸期
市教委
私有地内
「從是西白河領」
2
B
堤の白河藩境石
つつみ、
しらかわ
須賀川市
神明神社<岩城街道>
境界石
江戸期
市教委
移設
「是西白河領」/堤の札木沢にあった
2
C
袋田の長沼藩境石
ふくろだ、
ながぬま
須賀川市
<須賀川~会津へ抜ける道>
境界石
江戸期
市教委
私有地内
「從是西南長沼領」
2
C
舘ヶ岡の横田領境石
たてがおか、よこた
須賀川市
来迎寺<須賀川~会津へ抜ける道>
境界石(自然石)
江戸期
市教委
移設?
「横田領」
2
-
石河の滝
(乙字ヶ滝)
の舟通し
いしかわ
(おつじ)
須賀川市
阿武隈川
舟通し
長92m,幅4.8m
着工:安政5(1858)頃
知野泰明/市教委/WEB
乙字ヶ滝横に良好に残る
施主:円谷儀助他、開削:村越信蔵・吉田松国/阿武隈川の水運は舟問屋が私財を投じて河床改修を行い同時に特権を得る形で行われた/非常に難工事であったため、現在の形になるまで24年かかったとも言われている
1
A
日下石の浜街道松
並木
にっけし
相馬市
<浜街道>
松並木
長750m,約20本
寛永11(1634)
市天然
市教委/WEB
県道日下石新沼線沿いに松並木が残る/大きさ、太さから古木とは思われるが、当時のものかは不明
相馬領内の浜街道に植えられた
3
B
上薬師堂一里塚
かみやくしどう
相馬市
<浜街道>
一里塚(2基)
北塚
:直径約10m
慶長9(1604)
市教委/歴史の道・越後街道p140
南塚半壊/北塚は土盛の高さは低いものの現存
4
B
成田の供養塔
道標
なりた
相馬市
(岡本)
石道標
(自然石、花崗岩)
高68㎝,幅70㎝,厚30㎝
安永6(1777)
浜通り地方の道標p112
原位置?
(正面右下隅)「西 川また道」、(同左下隅)「南 かしま道」/正面中央に
「(梵字)念佛供養塔」と陰刻
1
-
伊達・相馬藩境土塁
はんきょう
相馬市
<伊達藩~相馬藩>
土塁
慶長8(1603)
市教委/WEB
土塁はほぼ残っていない/国道113号建設時に発掘調査
仙台の伊達藩と相馬藩の境/藩の境に作られた目印
5
-
両堰
もろぜき
相馬市
宇田川
用水路
嘉永4(1851)→
万延元(1860)崩壊・修復
市教委
C改修されるが、石垣や隧道は当時のまま/使用停止
修復時に堰の位置は現在の位置に移し、5ヶ所の隧道を掘削/川沿いの水路では石組みの水路がきれいに残っている箇所がある/隧道の長さ、幅は未調査のため不明
3
C
下大越の地蔵道標
しもおおごえ
田村市
<里道(生活道)>
石道標
高105㎝,幅42㎝,厚16㎝
享保15(1730)
市教委
移設/地蔵が風化している
「右 わせがわ道/左 ときわ道」/地蔵を陽刻
3
C
中山の題目塔道標
なかやま
田村市
<里道(生活道)>
石道標
高87㎝,幅29㎝
明和5(1769)
市教委
移設
「(南無阿弥陀仏) 右 ときは、中山/左 よこみち、いしざわ」
2
C
上移の庚申塔道標
かみうつし
田村市
<里道(生活道)>
石道標
高90㎝,幅32㎝
明和7(1771)
市教委
移設
「右 ときは、いわいさわ/左 そうま、かつらおつしま」
2
C
常葉の供養塔道標
ときわ
田村市
<里道(生活道)>
石道標
高50㎝,幅23㎝
天明3(1783)以降
市教委
移設
「右 すか川道/左 にい町道」
2
-
新舘の題目塔道標
にいたて
田村市
<川俣街道>
石道標
高90㎝,幅35㎝
天明8(1788)
市教委
移設
「(南無阿弥陀仏) 右 相馬、百目木/左二本松、川又」
2
C
船引の馬頭観音道標
ふねひき
田村市
<里道(生活道)>
石道標
高103㎝,幅48㎝
天保14(1843)
市教委
移設
「(馬頭観世音) 左 ふねひき」
2
C
上大越の題目塔道標
かみおおごし
田村市
<里道(生活道)>
石道標
高118㎝,幅50㎝
弘化2(1845)
市教委
移設
「南 仁井町/右 山みち/左 わせ川/西三はる」
2
C
栗出の馬頭観音道標
くりで
田村市
<里道(生活道)>
石道標
高115㎝,幅40㎝,厚13㎝
安政4(1857)
市教委
移設
「(馬頭観世音) 左 ときは道/右 ひろせ道」
2
C
栗出の題目塔道標
くりで
田村市
<岩城街道>
石道標
高86㎝,幅40㎝
文久2(1862)
市教委
移設
「右ハ大こい、ときは/左ハまきの、ほりこし」
2
C
菅谷の題目塔道標
すがや
田村市
<岩城街道>
石道標
高160㎝,幅74㎝
慶応元(1865)
市教委
移設
「右 仁井町/左 入水寺」
2
C
旧・
保原陣屋の石橋
ほばら
伊達市
保原町中央公民館・脇
石桁橋
(G)
安政4(1857)
市教委/WEB
上部がアスファルト舗装された一般の道になっていて、石桁の裏面のみ視認可能
4
-
伏黒河岸寄蔵
ふしぐろ
伊達市
<阿武隈川>
河岸蔵
梁間約7.27m,
桁行18.18m
江戸後期
市建造
市教委/WEB
屋根はトタンで改修/私有地内で管理
信達地方に現存する寄蔵としては唯一/江戸へ輸送する年貢米・城米などを一時保管するために設置
3
B
砂子堰
いさご
伊達市
広瀬川
用水路
長約15㎞
慶長年間(1596-1614)→明治15(1882)に大改修
市教委/WEB
C改修
水利の便が乏しいことから灌漑用水路を敷設/砂子堰だけでは不充分だったため、明治23年に東根堰を敷設
5
B
万部の洞門
まんべ
伊達市
素掘トンネル
(水路)
長約94m
寛永9(1632)
国見町教育委員会
入口を地元産出の国見石で補強/内部は当時のまま
下流部の隧道のため、西根上堰の取入口より小規模
1
C
金鉱山
きんこうざん
伊達市
坑道
坑口数100以上
室町期以降
市教委
不明
室町時代に伊達氏により開発/明治以降にも開発/坑口数は100以上あると思われるが、時代の区別は困難
B
大局の井戸
おおつぼね
伊達市
井戸
鎌倉期
市教委
C改修/館跡の中ではあるが、現在では葡萄畑内に残る
伊達氏初代の娘「大進局」が使用したと伝えられる
4
B
不川田の石橋の石材
ふかわだ
二本松市
<石桁橋>
長5.4m,幅1.4m
文久3(1863)
市教委
私有地に石材が2枚保存
4
C
不川田の橋供養塔
ふかわだ
二本松市
石碑
高156㎝,長47㎝,厚37㎝
文久3(1863)
市史跡
市教委
移設
周辺地域の橋がよく流されたことから建立
3
B
百間樋の上流石畳
ひゃっけんどい
二本松市
旧二合田用水
石畳(水路)
長約100m
寛文年間(1661-72)
市教委
当時の石組水路が残る
城下の防衛・防火・灌漑用水が目的/生活排水を綺麗にするなどの衛生面にも役立てられた
2
C
通称V字谷の切通し
二本松市
旧二合田用水
切通し(水路)
長約2㎞
寛文年間(1661-72)
市教委
山岳地形を利用したV字型の素掘り水路が残る
城下の防衛・防火・灌漑用水が目的/生活排水を綺麗にするなどの衛生面にも役立てられた
2
B
旧・
二合田用水
にごうだ
二本松市
旧二合田用水
用水路
長約18㎞
寛文年間(1661-72))
市教委
石組、V字谷(上記)以外にも素掘りの用水路が所々に残るが、多くがC化/特に二本松城周辺には当時のものがよく残る
城下の防衛・防火・灌漑用水が目的/生活排水を綺麗にするなどの衛生面にも役立てられた
4
B
鹿島区山下の
題目塔道標
かしま、
やました
南相馬市
浅間神社
石道標(自然石)
高89㎝,幅57㎝,厚20㎝
寛政4(1792)
浜通り地方の道標p110
移設
(正面右下)「右 はらまち」、(同左下)「左 かしま」/正面に「(梵字)二十三夜塔」と陰刻
2
C
原町区中太田の
道標
はらまち、
なかおおた
南相馬市
羽山神社・南<浜街道>
石道標
(自然石、砂岩)
高70㎝,幅38㎝,厚25㎝
安政7(1860)
浜通り地方の道標p106
原位置?
(正面)「妙見社/八幡社、道」
1
-
鹿島区北屋形の地蔵
道標
かしま、
きたやかた
南相馬市
(田野入)
石道標(尖頭角柱)
高65㎝,幅30㎝,厚31㎝
慶応2(1866)
浜通り地方の道標p108
移設
(正面最下部)「鹿嶋道」、(右面)「右 海老浜道」、(左面)「左 中村道」/正面に「地蔵尊」と陰刻
2
-
鹿島区小池の題目塔
道標
かしま、
こいけ
南相馬市
(原畑)
石道標(自然石)
高270㎝
→145㎝
,幅60㎝,厚30㎝
江戸期
浜通り地方の道標p109
原位置
→
2011.3.11の東日本大地震で上半分が転落(もともと折損し継いであった)
(正面最下部)「東、…/鹿…/橲原、道」/正面に大きく「南無阿彌陀佛」と陰刻/表面の剥離具合から近世由来と推定
4
C
羽山岳の木戸跡と野馬土手
はやまだけ
南相馬市
木戸(石垣)、
野馬土手(土手)
木戸
:長約8.5m(北面),長3m(東面),高1.5m
寛文8(1665)頃
市史跡
(木戸跡のみ)
市教委/WEB
木戸跡は片側のみ/石垣が変形してきたため修復→2011.3.11の東日本大地震の影響ほとんどなし
(対比写真参照)
相馬藩の飼馬は千葉のように軍馬飼育のためではなく、5月の申の日を中心に3日間行われた「野馬追」行事のため(中世の軍事訓練に由来)/相馬藩が野馬追原で放牧していた野馬が増え農作物に被害が出たため、第3代藩主・
相馬忠胤
が築かせた土手/住民が原を自由に通行できるよう土手の19ヶ所に設けられた出入口「木戸」の1つ/木戸部分のみ石塀で、そこから90度曲がって数10m土手が残る
2
菖蒲沢の野馬土手
しょうぶざわ
南相馬市
野馬土手(片面が石垣)
長130m,
石垣長146m
寛文8(1665)頃
市史跡
市教委/WEB
保存状態良好
同上/片側のみ石垣で造られた直線土手→形状・構造から野馬土手でないという説も→確かに、千葉・静岡の江戸期の野馬土手に石垣は使われていない→野馬追原の中心だった原町地区と離れている→猪垣に構造が似ている)
2
A
高木戸の木戸跡と野馬土手
たかきど
南相馬市
野馬土手(片面が石垣)、
木戸(石垣)
長70m
寛文8(1665)頃
市史跡
市教委/WEB
木戸跡は片側のみ
同上/高木戸の木戸跡に続き、短い野馬土手(石垣)が続く→形状・構造から野馬土手でないという説も→野馬追原の中心だった原町地区と離れている→猪垣に構造が似ている
2
B
上渋佐の野馬土手
かみしぶさ
南相馬市
桜井古墳公園
野馬土手(土手)
長75m,高1.8m,基底幅5.4m,
上幅1.8m<東西3里,南北1里>
寛文8(1665)頃
市教委/WEB
公園内に保存/外面側の急斜面が割れている
同上/野馬追原の中心だった原町地区内
3
C
青葉町の野馬土手
あおば
南相馬市
野馬土手(土手)
長90m,高1.5m
寛文8(1665)頃
市教委
残ってはいるが、溝・土手の現状は不明
同上/野馬追原の中心だった原町地区内
4
C
萓浜の野馬土手
かいはま
南相馬市
野馬土手(土手)
長97m,高1.5m
寛文8(1665)頃
市教委
残ってはいるが、溝・土手の現状は不明
同上/野馬追原の中心だった原町地区内
4
C
仁井田の古道痕跡
にいた
本宮市
<東山道>
道路
長約100m,幅約24m
古代
木下良
古道の両端部が道路となり、中央に家6戸が並ぶ
空中写真によれば旧道に沿って帯状に土地が連続しており、古代道路特有の形状を示している
4
C
太郎丸の道標
たろうまる
本宮市
石道標(花崗岩)
高138㎝,幅84㎝,厚25㎝
天保14(1843)
市教委
原位置に再移設
「(普度供養塔) 右 あい津/左 江戸」
2
C
大岩の隧道
おおいわ
本宮市
日影沢堰
素掘トンネル
(水路)
長約38.2m,高1.52m,幅0.9m
文政3(1820)
市教委/本宮市立歴史民俗資料館
道路拡幅時に一部消失/網が張られ、モルタル吹き付けがされている/現在は使用されていない
隧道出口付近はコンクリート製の新たな掛樋により隠れている
5
C
玉井の井戸
たまのい
(安達)大玉村
石井戸(円形)
江戸末期以前
村史跡
村教委/WEB
使用されていないが、僅かに水がわき出ている/井戸には金網が被せられている
丸い水晶の玉が掘り出されたことから玉井の地名発祥の地とされる
3
C
(石川)浅川町
中野の常夜灯
なかの
(石川)石川町
<御斎所街道>
石常夜灯
高2.85m
天保10(1839)
町教委/歴史の道・御斎所街道p33
火袋はコンクリート製に交換
動物を型どった装飾が施されている
2
B
(石川)玉川村
(石川)平田村
大原の
道標
おおはら
(石川)古殿町
(小登)
石道標(凝灰岩)
高50㎝,幅40㎝,厚24㎝
宝暦14(1764)
浜通り地方の道標p39
移設/頂部欠損
(正面)「右 かいのとまり 平形/左 かとふの小名たいら、道」(=貝泊、平潟)
3
-
鎌田の
供養塔道標
かまた
(石川)古殿町
八幡神社
石道標(安山岩)
高52㎝,幅24㎝,厚23㎝
安永4(1775)
浜通り地方の道標p37
移設/頂部欠損
(正面左下)「
□
倉海道」、(右面)「東 岩城海道」、(左面)「西 石川海道」/正面中央に「(梵字輪)眞言百万編」と陰刻
3
-
(石川)古殿町
(岩瀬)鏡石町
(岩瀬)天栄村
氷玉峠の石畳
ひだま
(大沼)会津美里町
<下野街道(会津西街道)>
石畳道
長約300m,
幅約1.6m
江戸前期
町教委
現在見れるのは発掘調査を行った30m
ボーリング調査などの結果、約300mは地中に埋っていると考えられる
3
C
栃沢一里塚
とちざわ
(大沼)会津美里町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(2基)
直径8m,高3m
寛文7(1667)
町史跡
町教委/WEB
山間部にあることから、ほぼ当時の姿のまま現存
3
B
新屋敷一里塚
しんやしき
(大沼)会津美里町
一里塚(1基)
高約2m,周囲30.8m
寛文7(1667)
町史跡
町教委
片塚は大正期に県道拡幅時に消失/現存する1基は基部を四角形に掘削
若松大町四ッ角の札の辻を起点として築かれた/越後街道か下野街道のどちらにあったものか不明
4
C
西甲の道標
にしこう
(大沼)会津美里町
<仁王寺>
石道標(安山岩)
高85㎝,幅28㎝,厚23㎝
弘安10(1287)→
道しるべの文字は江戸期の追刻
町史跡
町教委
供養碑を道標に転用した時に街道に移設
「右 大岩道 是より二十六町十五間」「左 谷ヶ地道」/弘安の役(弘安4の蒙古軍の襲来)の戦死者の霊を弔った供養碑→
道標化(江戸期)
2
C
沼沢一里塚
ぬまざわ
(大沼)金山町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(1基)
寛文年間(1661-72)
歴史の道・沼田街道p55
南側の基部残存
通称:実宗壇/廻戸地内
4
-
上横田堰隧道
かみよこた
(大沼)金山町
松坂川
素掘トンネル
(水路)
長110m,高0.9m
天保10(1839)
町教委
素堀の状況は入口から確認出来る範囲で当時のまま
新田開発のため松坂川の水を堰止めて用水に水を引いた/高さ、幅ともに三尺、長さ六〇間に渡って隧道を開削したとされる/内部は未実測等のため実延長は不明
1
C
吉尾峠一里塚
よしお
(大沼)昭和村
<八十里越>
一里塚(1基)
寛文年間(1661-72)
只見町教育委員会/歴史の道・沼田街道p192
1基の現存は確認されている
3
C
美女峠一里塚
びじょ
(大沼)三島町
<銀山街道>
一里塚(2基)
江戸期
町教委
年に1度草刈作業
3
B
石神峠一里塚
いしがみ
(大沼)三島町
<銀山街道>
一里塚(2基)
江戸期
町教委
特に管理はされておらず、放置されている状態
4
B
滝谷一里塚
たきや
(大沼)三島町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(1基)
南塚
:高5m
寛文年間(1661-1672)
町教委/歴史の道・沼田街道p54
道路改修の際に北塚消失
3
C
束松峠の石畳
たばねまつ
(河沼)会津坂下町
<越後街道>
石畳道
長約1㎞,石:長約91㎝,幅約30㎝,厚約12㎝
元文4(1739)頃
町教委/歴史の道・越後街道p68/WEB
約1㎞に渡って断続的に敷石が所々に露出している/切石の石畳だったため、近代に入り炭焼等に使われ、10m程度を残して現存せず
束ね松峠は泥岩の風化した粘質土壌のため、対策として石畳が整備されたと思われる
4
A
束松峠一里塚
たばねまつ
(河沼)会津坂下町
<会津街道>
一里塚(2基)
北塚
:高4.1m,,周囲39m,
南塚
:高2.8m,周囲30.8m
寛文7(1667)頃
町教委/歴史の道・越後街道p7/WEB
当時のまま(塚木なし)
北塚は大きいため「男壇」、南塚は「女壇」と呼ばれている/南塚は北に比べ小さいが福島で完全に残っているものはここが唯一
2
B
気多宮の道標
(追分石)
けたのみや
(河沼)会津坂下町
<越後街道・下野街道>
石道標(尖頭角柱)
高2m
江戸中期?
町教委/歴史の道・沼田街道p23
50m移設
(正面)「是より右 越後路」、(左面)「是よ里左 柳津路」/越後街道と上州沼田に通じる沼田街道の別れ道に立つ道標
2
B
片門の渡し場
・跡
かたかど
(河沼)会津坂下町
渡し場
江戸期
町教委
ほぼ消滅
幕末には舟橋が架けられた
4
C
中丸堤
なかまる
(河沼)会津坂下町
只見川
溜池
堤長50.0m,
堤高5.90m
寛政4(1792)
町教委
昭和60に堤の掛樋の取換工事等/現役使用
高寺山などからの湧水を集水し、窪、窪倉、田中(高郷村)各村の用水として利用された
3
C
荒田堤
あらたつつみ
(河沼)会津坂下町
只見川
溜池
堤長54.0m,
堤高6.85m
寛政7(1795)
町教委
当時のまま/現役使用
2
C
下沼堤
しもぬまつつみ
(河沼)会津坂下町
只見川
溜池
堤長86.0m,
堤高3.67m
江戸期
町教委
現役使用
4
C
上沼堤
かみぬまつつみ
(河沼)会津坂下町
只見川
溜池
堤長67.0m,
堤高5.00m
江戸期
町教委
現役使用
4
C
堂ノ入掘貫隧道
どうのいりほりぬき
(河沼)会津坂下町
大沢川
素掘トンネル
(水路)
長246m,高1.6m,幅1.0m
慶応2(1866)
町教委
当時のまま/農業、防火用水として利用されている
発起人:伊藤運次郎、設計:西羽賀の忠吉
1
C
栗村堰
くりむらせき
(河沼)会津坂下町
鶴沼川
用水路
長13.4㎞,幅約7m
元亀元(1570)
町教委/WEB
昭和40頃は現在の倍程の川幅があった
地頭・栗村下総守盛満が家臣の笠間平太夫に命じて開削
3
B
牛沢堰
うしざわ
(河沼)会津坂下町
鶴沼川
用水路
長約14㎞
明暦4(1658)
町教委
大規模な改修
牛沢組郷頭・佐原光重、光忠親子によって開削
4
C
開田水路
かいでん
(河沼)会津坂下町
鶴沼川
用水路
全長3㎞→大部分は消滅
江戸末期
町教委
ごく一部のみ残存/長500mのトンネルは埋設
水量が豊富であったため農業用のほか、宿場町である村内の生活用水にも使われた
4
C
(河沼)柳津町
(河沼)湯川村
八木沢の題目塔道
標
やぎさわ
(相馬)
飯舘村
石道標(蒲鉾型)
高226㎝,幅55㎝,厚31㎝
宝暦7(1757)
浜通り地方の道標p120
原位置?
(台石正面)「右 原町/左 中村」/正面に大きく「南無阿彌陀佛」と陰刻/塩の道沿い/宝暦5の飢饉による死亡者への供養(?)/信州石工の作
1
B
谷地小屋の題目塔道
標
やちごや
(相馬)新地町
(北狼沢)
石道標(砂岩)
高70㎝,幅30㎝,厚33㎝
享保8(1723)
浜通り地方の道標p119
移設/頂部大きく欠損
(右面)「北 わたり/南 須加や、道」、(左面)「西 加狼山/東 つるし、道」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻
3
-
谷地小屋の歌碑
道標
(東碑)
やちごや
(相馬)新地町
(萩崎)
石道標
(自然石、砂岩)
高74㎝,幅58㎝,厚45㎝
嘉永3(1854)
浜通り地方の道標p114
移設→個人宅
(正面中央)「西、右 奈可むら/左 津るし」(=中村、釣師)/正面左側に「志良茶や松し満/道遠黄都人与里」の歌を刻字
4
-
谷地小屋の歌碑
道標
(西碑)
やちごや
(相馬)新地町
(萩崎)
石道標
(自然石、砂岩)
高74㎝,幅59㎝,厚45㎝
嘉永3(1854)
浜通り地方の道標p115
移設→個人宅(外構)
(正面中央)「東、東都 八十里/仙堆 十三里」(=江戸、仙台)/正面右側に「陸奥の束稲山能佐久良者奈/吉野乃外丹可奈負可ハ/等能茂と丹汁を鷠毛桜可奈」、正面左側に「
□□
好雅ハ太平を楽奈理/東西丹遊人来臨遠
□
卯」と刻字
3
-
駒ケ嶺の
道標
こまがみね
(相馬)新地町
(東善寺下)
石道標
(自然石、花崗岩)
高66㎝,幅40㎝,厚50㎝
嘉永3(1854)
浜通り地方の道標p113
移設?/頂部折損(未修復)
(正面)「奥相善宮」、(同左下に小さく)「自是西 十丁」
3
-
(伊達)川俣町
国見峠長坂
くにみ、
ながさか
(伊達)国見町
阿津賀志山防塁・東
<奥州道中>
道路
長約150m
江戸初期
町史跡
現地解説版/WE
B(鎌倉街道上道)
保存状態良好
五街道の1つ奥州道中として使用された道/奥州道中の名称は正徳6(1716)の布達で確定(海端を通らないので/布達は旧暦の4月15日、改元は同6月22日なので、「享保元(1716)」というよく見かける記述は間違い)/直進性などから中世奥大道や古代東山道もこの道筋を利用していた可能性が高い→価値評価に反映
1
B
西根上堰
にしね
(伊達)国見町
摺上川
用水路
長29.2㎞
寛永9(1632)
町教委/WEB
昭和期に改修/取水口が500m上流に移設
新田開発のために摺上川から取水するための用水路
4
B
雷神山の隧道
らいじんやま
(伊達)国見町
西根上堰
素掘トンネル
(水路)
長約50m
寛永9(1632)
町教委
保存状態良好・現役
1
-
万部の洞門
まんべ
(伊達)国見町
西根上堰
素掘トンネル
(水路)
長94m
寛永9(1632)
町教委
保存状態良好・現役/坑口付近を凝灰岩の整形布積で補強(近代)
2
-
半田銀山
はんだ
(伊達)国見町
・桑折町
半田銀山
坑道(通常の坑道+排水)
長766m→100m
(
二階平鋪
)
江戸期〔二階平坑は安政元(1854)〕
町史跡
町教委/WEB
平成10の豪雨による倒壊後、平成13に改修復元(江戸期の状況に復元したか、明治期の状況に復元したか不明)/
二階平鋪は
かつての半田銀山で、開口されている唯一のもの
日本三大銀山の一つ(石見・生野)/天文2(1534)に地元・北半田の野村甚右衛門が鉱脈を発見/上杉景勝が慶長3(1598)に伊達・信夫の2郡を領有→領内の半田銀山の開発に着手/延享2(1723)に幕府が生野銀山の山師・勘兵衛らを派遣→半田銀山とその周辺を直轄領とし佐渡奉行の支配下におく/天保14(1843)の新鉱脈発見で日本3大銀山の1つに/二階平鋪開坑の10年後には産出量が大幅に減少し、幕府は経営を放棄
3
A
御滝神社の湧水
おたき
(伊達)国見町
御滝神社
湧水
平安期以前
町天然
町教委
神社脇の池から湧き出ている
灌漑用水に利用していた
2
B
大清水湧水
おおすず
(伊達)国見町
三吉神社
湧水
古代
町教委
神社の水飲み場として整備
灌漑用水に利用していた/地名の由来
4
C
阿津賀志山防塁
あつがし
(伊達)国見町
阿津賀志山~滝川
土塁
幅15m,高3m,
長3.2㎞
文治5(1189)
国史跡
町教委/現地解説板
当時のままだが、一部開発等により消滅
3重の土塁と2重の空堀からなる防塁/平泉の藤原秦衡らが源頼朝の鎌倉軍を迎え撃つために築いた→古戦場
2
A
谷地の道標
やじ
(伊達)桑折町
追分公園/
<羽州街道、奥州街道>
石道標
高約1m
宝永5(1708)
町教委/WEB
当時の奥州街道と羽州街道の追分を公園整備/原位置に再移設
「(夕暮れに心の通う柳かな)/右 奥州仙台道/左 羽州最上道」
2
C
桑折の大迂回
こおり
(伊達)桑折町
西根上堰/産ヶ沢川
用水路
寛永元-9(1624-32)
国見町教育委員会
全面C改修/当初の仕組みをそのまま利用している
西根上堰を産ヶ沢川の川幅が狭い所で交差させるために、交差する周辺では産ヶ沢川と西根上堰は流れの方向が逆向きになっている
4
B
半田銀山
はんだ
(伊達)桑折町
・国見町
半田銀山
坑道(通常の坑道+排水)
江戸期?
町教委(半田銀山の歴史)/WEB
土砂の堆積により狭くなっている/昭和40代の試掘坑が300m続いた先が、近世の坑道に繋がっている/試掘坑は近世の坑道を多数横断する形で掘られているため、左右にも多数の坑道が見られる
〔写真は中鋪坑〕
日本三大銀山の一つ(石見・生野)/天文2(1534)に地元・北半田の野村甚右衛門が鉱脈を発見/上杉景勝が慶長3(1598)に伊達・信夫の2郡を領有→領内の半田銀山の開発に着手/延享2(1723)に幕府が生野銀山の山師・勘兵衛らを派遣→半田銀山とその周辺を直轄領とし佐渡奉行の支配下におく/天保14(1843)の新鉱脈発見で日本3大銀山の1つに/二階平鋪開坑の10年後には産出量が大幅に減少し、幕府は経営を放棄/明和6以降の古文書が残り、「桑折町史9」(江戸時代だけで514ページ)にまとめられている
3
A
(田村)小野町
鷹巣一里塚
たかのす
(田村)三春町
<江戸街道>
一里塚(1基)
高約3m,直径10.85×10.10m
江戸期
町史跡
町教委/WEB
東側の一基のみが現存する/保存会により年に1度草刈り
3
C
(西白河)泉崎村
(西白河)中島村
米の題目塔道標
(的石の白湯山大権現)
よね
(西白河)西郷村
国道289号沿い・擁壁上
石道標(自然石)
天保13(1842)
WEB(がりつう)
移設/刻字不明部は意図的に削除
(正面右)「右
、□□
湯本 八里/
□□
小屋 八里」、(同左)「左 むら道」/正面中央に「白湯耶麻大權現」と陰刻
2
C
矢吹町の常夜灯
(西白河)矢吹町
<水戸街道、常陸街道>
石常夜灯
高1m未満
文化8(1811)
WEB/歴史の道・奥州道中p40/歴史の道・水戸街道 p22
八幡神社に移設/火袋と最下部の基壇のみが現存
元々は中畑新田宿の常陸街道の追分に設置
4
-
水戸街道の常夜灯
しらかわ
(西白河)矢吹町
<水戸街道、御斎所街道>
石常夜灯
高2.65m
天保10(1839)
町教委/歴史の道・御斎所街道p16
移設
「御霊宮 二十三夜 八天狗」
3
C
白河藩・幕府領境界石
しらかわ
(西白河)矢吹町
<水戸街道>
境界石
高約2m
江戸期
町教委/歴史の道・水戸街道p17,
23
私有地に移設
「従是北白川領」/市原多代女の句「亀も首のばすや汀や初日の出、米齢多代」
4
B
西山の道標
にしやま
(東白川)鮫川村
石道標(自然石)
高約1m
享保6(1721)
村史跡
村教委/WEB
文字は多少見えにくくなっているが、当時のまま
「江戸五十里/水戸弐十五里/京都百七十四里/仙台三十八里/会津弐十四里」/棚倉と岩城を結ぶ旧街道に置かれていた
2
C
八槻一里塚
やつき
(東白川)棚倉町
<常陸太田街道>
一里塚(1基)
江戸初期
町教委/歴史の道・水戸街道p53
東塚は規模が縮小されているが巨木と共に現存/西塚は消失
3
C
山際一里塚
やまぎわ
(東白川)棚倉町
<伊王野街道(棚倉街道)>
一里塚(1基)
塚木:桜
江戸中期
町教委/WEB
一基残るが半壊/桜の巨木が残る(中央に生えていないためオリジナルではない)
2
C
逆川一里塚
さかさがわ
(東白川)棚倉町
<会津海道 (常陸太田街道・水戸街道)>
一里塚(1基)
江戸中期
町教委/歴史の道・水戸街道 矢吹-明神坂p45/WEB
規模縮小/西塚のみ残るが、当初より削平されている
4
C
台宿一里塚
だいじゅく
(東白川)塙町
<水戸街道>
一里塚(1基)
塚木:榎
江戸期
WEB/歴史の道・水戸街道p68
東塚の形が崩れているが、榎の大木が残る(中央からずれているのと、榎にしては小型なのでオリジナルの可能性は低い)
3
C
(東白川)矢祭町
熊町一里塚
くままち
(双葉)大熊町
<浜街道>
一里塚(2基)
高約2m,
直径12.6m
慶長9(1604)
町史跡
町教委/歴史の道・白河街p82
周囲の整備がされておらず、接近不能/塚自体は草刈りなどの整備はされている
4
B
五郎四郎一里塚
ごろうしろう
(双葉)大熊町
<浜街道>
一里塚(2基)
高約1m,直径7m
慶長9(1604)
町教委/歴史の道・白河街道p82
1基は田の中に現存/もう1基は私有地内に残るが半壊
4
B
野上の題目塔
道標
のがみ
(双葉)大熊町
(諏訪)
石道標
(自然石、花崗岩)
高70㎝,幅46㎝,厚28㎝
嘉永7(1854)
浜通り地方の道標p71
原位置に近いが逆向き
(正面右下隅)「右ハ おほかわら/とみおか」、(同左下隅)「左ハ くま川」/正面中央に「山神塔」と陰刻
2
-
大夫沢の暗渠水路
たゆうざわ
(双葉)大熊町
素掘トンネル
(水路)
江戸後期
町教委
当時のまま/現役使用
長さは未計測だが、山1つを貫通/大夫沢の溜池から灌漑用水路として掘削
2
C
(双葉)葛尾村
(双葉)川内村
本岡の浜街道松並木
もとおか
(双葉)富岡町
<浜街道>
松並木
6本程度
慶安2(1649)
→正徳3(1713)補植
町史跡
町教委
後世の補植が行われている/土塁はわりと残っているが、松はほぼ倒壊
旧浜街道約300mにわたる松並木
4
C
清水一里塚
しみず
(双葉)富岡町
<浜街道>
一里塚(1基)
西塚
:高約6m,
直径約10m
江戸期
町史跡
町教委/歴史の道・越後街道p81/WEB
西塚のみ現存
3
C
新田町一里塚
しんでん
(双葉)富岡町
<浜街道>
一里塚(1基)
江戸期
町史跡
町教委/歴史の道・白河街道p82
西塚のみ現存
江戸から66番目の一里塚
4
C
川添の馬頭観音
道標
かわぞえ
(双葉)浪江町
正西寺
石道標
(自然石、砂岩)
高63㎝,幅25㎝,厚18㎝
文政9(1826)
浜通り地方の道標p76
移設
(正面右下)「右ハ 中村」、(同左下)「左ハ 三春」/正面中央に「馬頭觀世音」と陰刻
2
-
樋渡の題目塔
道標
ひわたし
(双葉)浪江町
八坂神社
石道標(自然石)
高75㎝,幅40㎝,厚40㎝
天保2(1831)
浜通り地方の道標p78
移設、集約
(右面下部)「右ハ 大ほり/左ハ 仲ぜんし、道」/正面中央に「甲子碑」と陰刻
2
-
大堀の馬頭観音
道標
おおぼり
(双葉)浪江町
(宮前)
石道標
(自然石、砂岩)
高58㎝,幅40㎝,厚22㎝
嘉永2(1849)
浜通り地方の道標p83
移設
(正面右下)「右ハ 末森/室原」、(同左下)「左ハ むら道」/正面中央に「馬頭觀世音」と陰刻
2
-
加倉の題目塔
道標
かくら
(双葉)浪江町
八幡神社
石道標
(自然石、砂岩)
高57㎝,幅30㎝,厚16㎝
嘉永5(1852)
浜通り地方の道標p93
移設、集約
(正面右下)「右 三春」、(同左下)「左 大堀」/正面中央に「山神/水神、塔」と陰刻
2
-
大堀の題目塔
道標
おおぼり
(双葉)浪江町
山津見神社
石道標(自然石)
高122㎝,幅67㎝,厚37㎝
安政6(1859)
浜通り地方の道標p90
移設
(正面左)「右ハ みなえ/左ハ むろはら」/正面中央に大きく「山神塔」と陰刻
2
C
川添の題目塔
道標
かわぞえ
(双葉)浪江町
国玉神社
石道標(自然石)
高65㎝,幅64㎝,厚10㎝
安政6(1859)
浜通り地方の道標p89
移設、集約
(正面右下)「右ハ 田志り/中ハ おのた」、(同左下)「左ハ さかへ」/正面中央に「山神/水神、塔」と陰刻
3
-
権現堂の題目塔
道標
ごんげんどう
(双葉)浪江町
浪江神社
石道標(自然石)
高68㎝,幅56㎝,厚10㎝
江戸期
浜通り地方の道標p77
移設(もと、高野宿の西北端)
(正面右下)「右ハ せんだい」、(同左下)「左ハ、むろはら/おおほり」/正面中央に「金毘羅大權現」と陰刻/「金毘羅」の標記は江戸期
2
-
藤橋の題目塔
道標
ふじはし
(双葉)浪江町
藤橋不動尊
石道標(自然石)
高67㎝,幅54㎝,厚14㎝
江戸期
浜通り地方の道標p79
移設、集約
(正面右)「右ハ 江戸道」、(同左)「左ハ 藤橋不動尊/きよはし/うけどみち」/正面中央に「南無地蔵大菩薩」と陰刻/「江戸」の標記は江戸期
3
-
井出一里塚
いで
(双葉)楢葉町
<浜街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.5m,直径7m,
慶安(1650)頃
町史跡
町教委/歴史の道・白河街道p80
西塚は東塚よりやや大きいが、裾が一部宅地となり削平/後世にイチョウの大木を補植
3
B
上浅見川の馬頭観音
道標
かみあさみがわ
(双葉)広野町
(南山)
石道標
(自然石、花崗岩)
高84㎝,幅39㎝,厚27㎝
安政3(1856)
浜通り地方の道標p68
原位置
(正面右)「右ハ や満」、(同左)「左は 折木ゆ」/正面中央に「馬頭觀世音」と陰刻/江戸期に温泉名が刻字されている例は稀
1
C
鴻草の題目塔
道標
こうのくさ
(双葉)双葉町
鴻草薬師寺
石道標
(自然石、粘板岩)
高114.5㎝,幅42㎝,厚63㎝
安政6(1859)
浜通り地方の道標p75
移設、集約/台石紛失→斜面に置いてある
(正面右)「是よりにし ちうぜんじ 東ハ うけと」/正面中央に「十一面觀世音」と陰刻
3
C
下野街道
しもつけ
(南会津)下郷町
<下野街道(会津西街道)>
道路
約10㎞
江戸期
国史跡
WEB
大内宿の前後区間が旧状をよく留める
会津西街道のこと(下野街道は会津側の名称)
2
B
沼山の石畳
(南会津)下郷町
<下野街道(会津西街道)>
石畳道
上部
:長44m,
下部
:長27m
江戸期
国史跡
町教委
小規模な修復
歩行部分に雨水が溜まらないように配石/沼山坂上方は比較的大きな石を両端に立て、その中に小さな石を充填する形で配石/下側は石は30~50㎝で山側に排水路
2
C
大内峠一里塚
おおうちとうげ
(南会津)下郷町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(2基)
江戸初期
国史跡
町教委
塚木は残っていないが、当時の雰囲気が残る
会津藩初代藩主・保科正之が設置/当時は榎が植えられていた
2
B
大内宿南一里塚
おおうち
(南会津)下郷町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(1基)
江戸初期
国史跡
町教委
北塚のみ現存するが、一部損壊/後世に松を補植
会津藩初代藩主・保科正之が設置
3
C
杉の沢一里塚
すぎのさわ
(南会津)下郷町
<松川街道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
WEB(がりつう)
天和3(1683)の日光大地震で鬼怒川支流・男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が誕生→会津西街道が通行不能になり会津藩三代藩主・松平正容により元禄8に整備された新道
2
B
野際一里塚
のぎわ
(南会津)下郷町
<松川街道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
WEB(がりつう)
樹林の中にやや離れて一対で残る
同上
2
B
大峠一里塚
おおとうげ
(南会津)下郷町
<松川街道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
WEB(がりつう)
笹で覆われている
同上
3
B
大内の地蔵道標
おおうち
(南会津)下郷町
<下野街道(会津西街道)>
石道標
江戸期?
歴史の道・下野街道p14
全て覆われているため、道標は見えない
「右 若松/左 柳津」/結能峠分岐点/地蔵台座部分が道標化
3
C
三郷境の塚
さんぐんさかい
(南会津)下郷町
<下野街道(会津西街道)>
土塚
江戸期以前
町教委
小さな塚が残るのみだが、今も境界塚としての役割を果たす
会津郡、大沼郡、南山郡の3郡の境界塚として古くから伝わる/現在も会津若松市、会津美里町、下郷町の境界
2
C
壇の沢一里塚
(南会津)只見町
<八十里越>
一里塚(1基)
高約1m,直径約3.5m
寛文年間(1661-74)
町教委
/歴史の道・沼田街道p192
1基現存/片塚は道路舗装時に消失したと考えられる
4
C
(南会津)檜枝岐村
バッケノママ一里塚
(田部原一里塚)
(南会津)南会津町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(1基)
寛文7(1667)
町史跡
歴史の道・下野街道p68
/WEB(がりつう)
北塚のみ残る/南塚は道路拡幅の際に滅失
「バッケ」はアイヌ語で高土手、崖の上などの意味/北側の頂上に赤松/会津若松大町の辻から数えて12番目の一里塚
3
C
二本松街道の松並木
にほんまつ
(耶麻)猪苗代町
<二本松街道>
松並木
長約20m,
5本程度
江戸期
町教委/WEB
三忠碑付近の松並木は街道跡として良好な状態/一部区間においては草刈り等の整備
主要道として賑わっていた旧街道に代わって明治25年に新県道が開通したことにより旧道は衰退
3
C
楊枝一里塚
ようじ
(耶麻)猪苗代町
<二本松街道>
一里塚(2基)
高4m,直径15m
寛文7(1667)
町史跡
町教委/歴史の道・二本松街道p30
保存会により草刈りなどの整備
若松札ノ辻を起点として8番目
2
B
御上覧場一里塚
ごじょうらんば
(耶麻)猪苗代町
<二本松街道>
一里塚(2基)
高4m,直径8m
寛文7(1667)
町史跡
町教委/WEB/歴史の道・二本松街道p38
保存良好/保存会により草刈りなどの整備
当時は榎が植えられていたことから榎壇とも呼ばれる
2
B
檜原峠一里塚
ひのはらとうげ
(耶麻)北塩原村
<米沢街道>
一里塚(2基)
東塚
:高3.5m,周囲27.4m,
西塚
:高3.95m,周囲33m
寛文7(1667)
歴史の道・米沢街道2p80
4
B
鷹の巣一里塚
たかのす
(耶麻)北塩原村
<米沢街道>
一里塚(2基)
高1.9m,直径8.5m
寛文7(1667)
WEB
南塚半壊
4
B
樟一里塚
くぬぎ
(耶麻)北塩原村
<米沢街道>
一里塚(1基)
南塚
:高4.4m,周囲23m
寛文7(1667)
歴史の道・米沢街道2p77/WEB
南塚のみ現存するが放置/樹木に覆われている
4
C
八丁壇一里塚
はっちょうだん
(耶麻)北塩原村
<米沢街道>
一里塚(1基)
南塚
:高3.2m,周囲31m
寛文7(1667)
町史跡
WEB
南塚のみ現存するが放置/樹木に覆われている
岩松の札の辻の起点から6番目の一里塚
4
C
大塩一里塚
おおしお
(耶麻)北塩原村
<米沢街道>
一里塚(1基)
寛文7(1667)
歴史の道・米沢街道2p79
西塚のみ
4
C
野沢一里塚
のざわ
(耶麻)西会津町
<越後街道>、諏訪神社
一里塚(1基)
寛文7(1667)
町史跡
町教委/歴史の道・越後街道p7/WEB
南塚のみ現存するが放置/樹木に覆われている
3
C
宝川一里塚
ほうがわ
(耶麻)西会津町
<越後街道>
一里塚(1基)
寛文7(1667)
町史跡
町教委/歴史の道・越後街道p7
元々は円形だったと思われるが、現在ではいびつな形になっている/塚上に電柱
4
C
芹沼一里塚
せりぬま
(耶麻)西会津町
<大田原道>、十文字霊園
一里塚(1基)
寛文7(1667)
町教委/歴史の道・越後街道p7/WEB
大正期に線路敷設の際に片塚消失/残る塚もかなり小さくなっている
4
C
十文字の供養塔道標1
じゅうもんじ
(耶麻)西会津町
<大田原道>
石道標
江戸初期?
WEB
光輪上部が欠落
「右 日光道」「左 鹿沼江」/蓮華座に載った光輪付きの野仏像の台座に道標が刻印
2
B
十文字の供養塔道標2
じゅうもんじ
(耶麻)西会津町
<大田原道>
石道標
江戸初期?
WEB
良好
「右 日光」「左 鹿沼」/蓮華座に載った光輪付きの野仏像の台座に道標が刻印
1
B
(耶麻)磐梯町