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鳥取県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
鳥取城下町の碁盤目状街路
とっとり
鳥取市
<鳥取城下町>
碁盤目状街区(道路)
久松山麓の片原通りから袋川までの間(270ha程度)
光政領地期(1617-32)に計画・開始→光政との国替えで入封した池田光仲時代以降
WEB/市教委
久松山をアイストップとした3街道の基本的レイアウトはよく残る
池田光政が鳥取藩主だった時期に、久松山麓の鳥取城南西に計画された城下町の街区/大手から平行に延びる3本の街道(若桜街道、智頭街道、鹿野街道)を中核として碁盤目状の街区が形成された/昭和18の大地震と昭和27の大火事により、旧市街地に残されていた江戸期、明治期の町並みは姿を消したが、旧城下町の街路形態などの町の骨格はよく残る/わずかに残された内堀と石垣と町名だけが城下町の雰囲気を残す
2
A
不動坂
ふどう
鳥取市
<法美往来>
切通し
幅1.8m
江戸期
歴史の道9p29-30
保存状態良好
切通し状になった峠の旧道/片側が野面石積み
1
C
円通寺の一里松
えんつう
鳥取市
<智頭往来>
一里松
樹高9.3m(2本)
江戸期
市指定保存樹木・樹林(名木・古木)
歴史の道1p22-23
松は高さ2mあたりの所で切られている
城下から2里の印/智頭往来のものとしては唯一の残存
3
C
叶の太神宮常夜灯
かのう
鳥取市
<智頭往来>
石常夜灯
文化8(1811)
歴史の道1p21
原位置?/火袋後補
(写真の
右
)
(竿正面)「伊勢大神宮常夜燈」/竿のみ自然石/石基壇なし/下記「叶の秋葉山常夜灯」と並ぶ
1
C
河原町釜口の太神宮常夜灯1
かわら、
かまぐち
鳥取市
<智頭往来>
石常夜灯(自然石)
高2.4m
天保3(1832)
歴史の道1p29-30
火袋後補/放置
(竿正面)「奉上 大神宮」
3
C
用瀬町鷹狩の太神宮常夜灯
もちがせ、
たかがり
鳥取市
<智頭往来>
石常夜灯(自然石)
天保5(1834)
歴史の道1p37
原位置
(竿正面)「太神宮」
1
B
叶の秋葉山常夜灯
かのう
鳥取市
<智頭往来>
石常夜灯
高1.95m
天保11(1840)
歴史の道1p21
原位置?/火袋後補
(写真の
左
)
(竿正面)「秋葉大權現常夜灯」/竿のみ自然石/石基壇なし/上記「叶の太神宮常夜灯」と並ぶ
1
C
用瀬町鷹狩の常夜灯
もちがせ、
たかがり
鳥取市
鷹狩駅・裏<智頭往来>
石常夜灯
天保12(1841)
歴史の道1p37
祢宜谷の太神宮常夜灯
ねぎだに
鳥取市
<若桜街道>
石常夜灯(自然石)
高3.0m
天保15(1844)
歴史の道4p10
現役で点灯(電気)/電球の傘が火袋から出てみっともない
(竿正面)「太神宮」
1
B
河原町高福の太神宮常夜灯
かわら、
たかふく
鳥取市
(高津原)<智頭往来>
石常夜灯
嘉永5(1852)
歴史の道1p29
移設
(竿)「大神宮」
2
国安の太神宮常夜灯
くにやす
鳥取市
国安公民館<智頭往来>
石常夜灯(自然石)
高2.9m
嘉永7(1854)
歴史の道1p22
原位置?
(竿正面)「奉/上、太神宮」/火袋のみ球状の加工石を使用/石基壇なし
1
B
白兎の常夜灯
はくと
鳥取市
白兎海岸
<山陰道(伯耆往来)>
石常夜灯(自然石)
高2.2m
安政5(1858)
歴史の道8p47-48
原位置?
砂浜を望む岩上に設置
1
C
国府町谷の常夜灯
こくふ、たに
鳥取市
<雨滝街道>
石常夜灯(自然石)
高2.05m
文久元(1861)
歴史の道9p24/WEB
近接移設(水路上)
(竿正面)「奉/捧、常夜燈」、(竿左面下部)「村中」/宝珠から台石まですべて異なる材質の石材を使用/どの程度宗教目的か不明
1
C
河原町釜口の太神宮常夜灯2
かわら、
かまぐち
鳥取市
<智頭往来>
石常夜灯(自然石)
高2.4m
文久2(1862)
歴史の道1p30
原位置
(竿正面)「太神宮」
1
C
国府町町屋の地蔵道標
こくふ、
まちや
鳥取市
<法美往来>
石道標(蒲鉾型)
高100㎝,幅30㎝,厚24㎝
寛政4(1792)
歴史の道9p23-24/WEB
近接移設/RC祠内
(正面像右)「右」、(同左)「左」、(右面)「大加い/たじま道」、(左面)「むらみち」/正面頂部を削り込み地蔵坐像を浮彫し、その下の角柱部正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻
2
C
河原町釜口の廻国塔道標1
かわら、
かまぐち
鳥取市
<智頭往来>
石道標(自然石)
高145㎝
享和元(1801)
原位置
(正面)「奉納太乘妙典日本廻國供養」/下記の「河原町釜口の廻国塔道標2」と並ぶ
1
C
国府町宮下の地蔵道標
こくふ、
みやのした
鳥取市
袋川・右岸堤防下
<法美往来・中郷橋>
石道標(隅丸型)
高100㎝(うち、台石27㎝),幅30㎝
享和元(1801)
歴史の道9p21-22/WEB
近接移設
(左面)「右 きさいち/左 おうかい」/正面を光背型に削り込み地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻
2
C
気高町山宮の地蔵道標
けたか、
やまみや
鳥取市
<鹿野往来>
石道標(舟型)
享和3(1803)
歴史の道9p51
原位置/大木の根元
(台石正面)「左ハ ミとく山/右ハ あをや道」/台石上に光背付き地蔵地蔵(蓮台)を載せる。台石は自然石を加工したもの
1
B
河原町釜口の廻国塔道標2
かわら、
かまぐち
鳥取市
<智頭往来>
石道標(自然石)
高133㎝
文化2(1805)
原位置
(正面)「奉納太乘妙典六十六部供養」/上記の「河原町釜口の廻国塔道標1」と並ぶ
1
C
丸山町の地蔵道標
まるやま
鳥取市
<山陰道(但馬往来)>
石道標(自然石)
高135㎝(うち、台石13㎝)
文化7(1810)
歴史の道8p10-11
戦後に近接移設
(正面像右)「右ハ まにみち」、(同左)「左ハ たしま者満道」、(正面像下)「是ゟ 三十四丁/たじま山ミち/まにへかけ連ハ/四丁のま王り」/正面頂部を光背型に削り込んで地蔵坐像(蓮台)を陽刻
1
C
東大路の道標
ひがしおおろ
鳥取市
<若桜街道>
石道標(自然石)
文化14(1817)
吉岡速人
移設(C台石)
(正面)「右ハ 村道/左ハ いせ道」
2
-
鹿野町今市の道標
しかの、
いまいち
鳥取市
<鹿野往来>
石道標(自然石)
高約60㎝
文政10(1827)?
吉岡速人
移設(C基礎)
(正面)「右 かちみ々ち/左 あをやみち」/「丁亥」とだけ記載→明和4(1767)、文政10(1827)、明治20の可能性
2
-
気高町会下の道標
けたか、えげ
鳥取市
<鹿野往来>
石道標(尖頭角柱)
文政12(1829)
歴史の道9p51-52
移設?
(正面)「右 青屋道/左 倉内道」
2
C
河原町釜口の地蔵道標
かわら、
かまぐち
鳥取市
(六日市)果樹園内
<智頭往来>
石道標(自然石)
高88㎝,幅45㎝
天保3(1832)
歴史の道1p30
原位置?
(右面)「春ぐ やまミち/左 おく ふ奈を可道」(春ぐ=すぐ)/正面を光背型に削り込み地蔵立像(錫杖)を陽刻
1
C
正蓮寺の延命地蔵像道標
しょうれんじ
鳥取市
<若桜街道>
石道標(舟型)
高130㎝,幅45㎝,厚33㎝
天保15(1844)
歴史の道4p9
移設?
(光背右)「右 いせ道」、(光背左)「左 一ノミや道」/光背中央に延命地蔵尊(駒型光背付き)を陽刻/年代不明の道標数基と共に立つ
2
B
野坂の地蔵道標
のさか
鳥取市
<鹿野往来>
石道標(舟型)
安政2(1855)
吉岡速人
移設?(下段台石はC製)
(光背右)「中ハ いせ道」、(同左)「左 鳥取道」
2
C
国府町清水の道標
こくふ、
すんず
鳥取市
袋川・左岸堤防下20m
<法美往来・清水橋>
石道標(自然石)
高211㎝(うち、台石66㎝)
文久2(1862)
歴史の道9p25/WEB
移設
(右面)「是ゟ 京都ヘ 五十五里/伊勢内宮ヘ 九十一里/大峯ヘ 八十一里」/正面に「(梵字)奉供養大峯三十三度二世安樂祈処」と陰刻/清水吉左エ門が33回の大峰山信仰を記念して建立
1
B
国府町楠城の地蔵道標
こくふ、
なわしろ
鳥取市
<法美往来>
石道標(舟型)
高45㎝,幅28㎝
江戸期
市保護文化財
歴史の道9p30/WEB
地蔵の顔の右側が削落/移設、集約
(光背右)「右 奈王志ろみち」、(光背左)「左 たぢまみち」/光背中央に地蔵立像を陽刻
3
-
大安興寺の町石(五丁)
だいあんこう
鳥取市
(用瀬町鷹狩)<智頭往来>
町石(舟型)
宝暦3(1753)
歴史の道1p37
(光背右)「五丁」/光背中央に地蔵を陽刻/「三丁」と刻字された地蔵町石もあるが年代不明
国府町中郷の橋供養塔
こくふ、
ちゅうごう
鳥取市
袋川・左岸堤防下
<法美往来・中郷橋>
石碑(自然石)
高91㎝,幅59㎝,厚52㎝
天明元(1781)
歴史の道9p21-22
近接移設
(正面)「新建立他力万人講橋供養」/山陰で橋供養塔は稀
2
C
国府町清水の橋供養塔
こくふ、
すんず
鳥取市
袋川・左岸堤防上
<法美往来・清水橋>
石碑(丸彫)
高163㎝(うち、台石23㎝),幅64㎝
嘉永6(1853)
歴史の道9p25
原位置/地蔵の顔が欠損→丸石が置いてある
(台石正面)「橋安全」/台石の上に丸彫りの地蔵坐像が載る/山陰で橋供養塔は稀、かつ、「安全」と明記してある例は稀
2
B
気高町八束水の金毘羅常夜灯
けたか、
やつかみ
鳥取市
姉泊海岸
石常夜灯(自然石)(海運?)
高約2.5m
正徳元(1711)?
現地調査
保存状態良好
(竿正面)「金」/岬の先端の岩塊上に建立/火袋と笠は天然の溶けた砂岩、台石はサンゴで建てられており、極めて稀/建造年が保徳元と刻字←「保徳」は中国の元号(平安末期)であり、正徳元の彫り間違いとしか考えられない
1
B
大堤池
おおづつみ
鳥取市
河内川
溜池
天正15(1587)以降
県教委(とっとりため池物語p27-33)
堰堤改修
鹿野城主・亀井茲矩が築かせた溜池/河内川から引水する井手の供用時間を管理することで大堤池の水位を確保した(「小堰の制度」)
3
C
佐藤池
さとう
鳥取市
河内川
溜池
天正15(1587)以降
県教委(とっとりため池物語p27-33)
堰堤改修
鹿野城主・亀井茲矩が築かせた溜池/上記「大堤池」より小規模で、「小堰の制度」によって水を分け合った
3
-
大口堰取水堰
おおぐち
鳥取市
千代川→大口堰用水
取水堰(斜め堰)
長230m
慶長年間(1596-1615)?
WEB
C改修されているがオリジナルの線形を維持
近江屋安兵衛による改修など数度の改修が行われた/典型的な斜め堰/下記の「大口堰用水」の取水堰
5
B
大口堰用水
おおぐち
鳥取市
千代川
用水路
長10㎞
慶長年間(1596-1615)?
WEB
数回の大規模改修/C改修
施主:吉方村の庄屋・近江屋安兵衛/全財産を投じた難工事→鳥取藩主・池田吉泰から功績を称えられ望みを訊かれた際、財産をはたいてしまって墓を建てる所もないので水路が見える所に墓所を、と希望したとの逸話あり
3
B
大井手用水
おおいで
鳥取市
千代川
用水路
長16㎞
慶長14(1609)
疏水百選
WEB/小林忠夫
護岸改修/地域住民による景観保全・環境保全活動が行われている
施主:亀島城主・亀井茲矩/千代川左岸の河原地区に水源を求めたい亀井茲矩と、千代川河口の加露を港として利用したい鳥取藩主・池田長吉との間で領地(1000石相当)の交換が行われた/水量を調節するための樋が多いことが特徴/水路の底には白粘土を突き固め、側壁には赤土混じりの粘土を用いた/農業用水路を造る際、亀井公自身が馬に乗り、馬の通った足跡に用水路を作るように命じたとの逸話あり
2
B
湖山池の石がま
こやま
鳥取市
湖山池(北岸)
魚獲施設
40-60㎡
承応4(1655)以前
未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選
WEB
86基(明治期)→4基(使用可)
湖山池西岸の末恒地区だけで行われる特異な漁法(越冬中のコイやフナの習性を利用した一種の追い込み漁法)/水深約2mの水底から水面上数10㎝まで大小の石を積み上げたもの(外見は矩形の石の土台のように見えるが、内部には魚が通れるような隙間(一種の魚道)と、上から“つつき棒”で魚道を突くための穴(100個程度)があり、最奥部には洞檻という箱(捕獲装置)が設けられている
2
A
嵐ヶ鼻土手
あらしがはな
鳥取市
<千代川(左岸)>
土堤防
長1500m→長約700m,高2-2.5m(現存部)
13世紀以降
選奨土木遺産
県教委(私たちを取り巻く歴史的環境p1-3、41-58)
土手に植樹された常緑広葉樹帯が散歩道に/一部市道で寸断
築造に係わる史料なし/寛文年間作成の絵図に描かれ、「嵐ヶはなな」と記されている→土手のすぐ南に「古川」と記され千代川とつながっていないため、絵図作成時点で既に現役の河川堤防ではなかった可能性が指摘されている/千代川左岸の安定化に貢献
3
胡麻堤
ごま
鳥取市
<千代川(左岸)>
石堤防
長約700m(当初)
慶長年間(1596-1615)
WEB
部分的に残る/潅木と雑草で対岸から遠望できるだけ
施主:亀井茲矩/千代川の治水の一貫で、千代川幹線にほぼ直角延びている横堤/千代川の氾濫による洪水を防ぐため、竹薮や石積で補強された土手
4
B
鳥取城下町の排水溝
・跡
とっとり
鳥取市
<鳥取城下町>
碁盤目状街区(排水溝)
光政領地期(1617-32)に計画・開始→光政との国替えで入封した池田光仲時代以降
WEB
多くが、舗装されて路地化
/場所により数m単位で断片的に表面観察できる
碁盤目状街区の中に道路と交互に設けられた生活排水溝群/悪水抜・大溝とも呼ばれた
3
B
関金町関金宿の金毘羅常夜灯1
(滝川の金毘羅常夜灯)
せきがね、せきがねしゅく
倉吉市
(滝川)県道・関金~常藤線と大滝山観音堂・分岐
石常夜灯
高1.85m
文政4(1821)
市教委(関金町の石造物p49)
原位置?
(竿正面)「金毘羅大權現」
1
C
下田中
(亀跌)
の金毘羅常夜灯
しもたなか
(かめてつ)
倉吉市
竹田川・堤防上
<鹿野往来>
石常夜灯(渡し場)
高2.24m
文政6(1823)
歴史の道5p31-35
渡し場常夜灯としての雰囲気が良く残る/堤防改修後に再移設/火袋更新
(竿正面)「奉金」、(竿裏面)「石工 八橋五郎右衛門」/火袋に「日月」の開口部/自然石の台石の上に丸彫りの亀を置き、その上に竿を建てる→極めて稀
2
A
関金町関金宿の金毘羅常夜灯2
せきがね、せきがねしゅ
倉吉市
<備中往来>
石常夜灯(道標兼)
高3.05m
文久3(1863)
市教委(関金町の石造物p49)/歴史の道2p27
原位置?
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿右面)「大神宮」、(竿左面)「厳嶋大明神」、(竿裏面)「大山大權現」/(中台正面)「東」、(中台右面)「北」、(中台左面)「南」、(中台裏面)「西」/(台石右面)「右 (當温泉/作
州
下
□
)/中 倉吉/左 (八橋/米子)」、(台石左面)「右
□□
/中
□□
/左
□□
」、(台石裏面)「右 倉吉/中 (八橋/米子)/左 作
州
長田」(
緑字
は異体字)/「當温泉」は関金温泉を指す→温泉に係わる道標兼常夜灯は江戸期において極めて珍しい
1
B
関金町明高の地蔵道標
(土着の地蔵)
せきがね、
みょうこう
(どじゃく)
倉吉市
<大山道>
石道標(舟型)
高47㎝
(下部埋設)
天明3(1783)
市教委(関金町の石造物p26)/歴史の道10p39
原位置/下部埋設
(光背右)「右ハ 大山道」、(光背左)「左ハ 札所道」/光背中央に地蔵○像を陽刻(埋没して立像か坐像か不明)
3
-
関金町大鳥居の題目塔道標
せきがね、
おおどりい
倉吉市
東大山鳥居前<大山道>
石道標
高170㎝
文久元(1861)
市教委(関金町の石造物p106)/歴史の道10p39
移設
(右面)「南、ゆせき/作
州
」(
緑字
は異体字)、(左面)「北、や者"せ/米子」、(裏面)「東、く良よし/い奈者"」(=因幡)/正面に「大山大權現」と陰刻/道標部は角錐状(非常に稀)で、その上に自然石の笠と宝珠が載る
2
B
関金町野添の道標
(地蔵峠の道標)
せきがね、
のぞえ
倉吉市
<大山道>
石道標(尖頭角柱)
文久2(1862)
市教委/歴史の道10p39
原位置?
(正面右)「右、せん上山/や者"せ、道」、(同左)「左 大山 米子道」
1
-
川床道の地蔵町石
(百六十六丁)1
かわどこ
倉吉市
<川床道>
町石(舟型)
文政元(1818)
市教委/歴史の道10p40
(光背右)「大山ヨリ 百六十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻/200m先に下記の町石があるが、願主が同じ斎江定右衛門で、なぜ同じ丁数かは不明
1
C
川床道の地蔵町石
(百六十六丁)2
かわどこ
倉吉市
<川床道>
町石(舟型)
文政2(1819)
市教委/歴史の道10p40
(光背右端)「大仙ヨリ百六十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
関金町山口の道造塔
(矢櫃の道造塔)
せきがね、
やまぐち
(やひつ)
倉吉市
(矢櫃)
石碑(自然石)
高153㎝、幅54㎝
嘉永3(1850)
市教委(関金町の石造物p113)
原位置
(正面)「道造塔」/側面に「施主 銀百目 倉吉牧田仁右ヱ門」と陰刻
1
C
カウモ井手
倉吉市
小鴨川
用水路
長5.3㎞
安政6(1859)
県教委(とっとり井手物語p30-34)
漏水や水害が発生したためC改修/山腹を流れるカウモ井手でボート下りなどの行事
藩の土着士・亀次郎らと地元の農民で開削した用水路/「カウモ」は水路の通過する地名に由来(異説あり)
3
C
讃岐井手
さぬき
倉吉市
小鴨川
用水路
長4.5㎞
江戸期
県教委(とっとり井手物語p48-52)/歴史の道10p39
C改修
泰久寺・松河原集落の用水だったが、江戸末期の新田開発に伴い、大鳥居・安歩の集落まで掘り進められた/泰久寺の高い土手の築造に苦労していたのを見て讃岐の僧が人柱になったという伝承→名称の由来
4
C
竹内町の金毘羅常夜灯
たけのうち
境港市
金毘羅宮<境往来>
石常夜灯
高1.60m
文政7(1824)
市有形民俗
市教委
原位置?
(竿正面)「金毘羅大權現」、(台石正面)「村中安全」/豊漁と村民の安全を祈願し、毎日夕方に灯明を点けたと伝えられる
1
C
花町の常夜灯
はな
境港市
鼻守神社
石常夜灯
高2.10m
文政7(1824)
市有形民俗
市教委
移設(もと、上道村支村鼻の集落入口)
(竿正面)「大山常夜灯」、(竿右面)「天照皇太神宮/金毘羅大權現」、(竿左面)「天神地祗八百萬神」、(竿裏面)「恵美須神社/市杵嶋大明神」
2
C
高松町の常夜灯
たかまつ
境港市
阿弥陀堂<境往来>
石常夜灯
高2.07m
文政9(1826)
市有形民俗
市教委
原位置?
(竿正面)「天照皇太神宮」、(竿右面)「堺三社大御神」、(竿左面)「大山智明大權現」、(竿裏面)「三寶荒神宮」
1
C
花町の金毘羅常夜灯
はな
境港市
石常夜灯
文久3(1863)
市有形民俗
市教委
竿石のみ保存
(竿)「金」/旧上道村から鳥取藩台場へ通じる三差路に建つ
4
米川
よね
境港市・米子市
日野川
用水路
長約20㎞ (全長:境港市はこのうち末端部のみ)
宝暦9(1759)
市教委/米子市教育委員会(新修米子市史2・通史編(近世)p238-240)
C改修
自然の川のなかった弓ヶ浜半島を灌漑するための用水=県西部最大の農業用水路で米子市から境港市まで続く/奉行・米村所平広次の提言を入れて鳥取藩2代藩主・池田綱清の命で元禄13(1700)着工→翌14年に両三柳までの1期工事が完成/その後、宝暦9(1759)に全線開通するまでに3回伸延/農業用水の不要な冬に砂丘の砂を米川の水で海岸部に流し、新しい新田村(粟島新田、安倍村)を造った
4
B
境台場
・跡
さかい
境港市
(花町)台場公園
台場(土塁)
(鈍角で弧状に屈曲した四辺の前面をもつ)
長約250m,幅約25m,高約6m/18斤砲2門,6斤砲1門,5寸砲5門
文久4(1864)
国史跡
鳥取県文化財報告書16p13-16/歴史の道7p22
由良台場に次いで旧状をよく残す/公園として整備(台場の雰囲気が喪失)
松波宏元の設計で境水道の入口に計画、大庄屋・山根作兵衛が工事を指揮/鳥取藩領内で由良台場と並ぶ規模の(土塁は3つの鈍角コーナーを持ちつつ約250m連続し、内側には約1haの広場がある)/砲数は計8門と由良台場の倍だが、口径は圧倒的に小さかった
3
A
連理の松
れんり
境港市
(花町)台場公園
黒松
文久4(1864)?
市天然
WEB/市教委
1本のみ現存
(添付写真の左端の松)
境台場の構築直後に台場を管理していた鳥取藩士・富山啓蔵により植えられたと伝えらる(通説、植樹の意図不明)
2
-
西福原の金毘羅常夜灯
にしふくばら
米子市
<境往来>
石常夜灯
文政5(1822)
歴史の道7p20
原位置?
(竿正面)「金毘羅大權現」
1
C
尾高の金毘羅常夜灯
おだか
米子市
黒住教高尾教会所
<日野往来>
石常夜灯(道標兼)
高2.55m
文政8(1825)
歴史の道3p11/市教委
移設(約100m)
(竿右面)「金毘羅大權現」、(竿裏面)「大山智明大權現」、(台石左面)「従是/東 大山道/南 ミそ口/北 よ奈ご道/西 さく者"ミち」/火袋に「日月」の開口部
2
C
淀江町中間の金毘羅常夜灯
よどえ、
なかま
米子市
三輪神社<日野往来>
石常夜灯
文政11(1828)
歴史の道3p8
移設
(竿)「大山智明大權現」、「金毘羅大權現」、「出雲大社」
2
淀江町西原の金毘羅常夜灯
よどえ、
にしばら
米子市
<山陰道>
石常夜灯
文政12(1829)
歴史の道8p86
移設
(竿)「大山智明大權現」、「金毘羅大權現」
3
C
淀江町今津の金毘羅常夜灯
よどえ、
いまづ
米子市
<山陰道>
石常夜灯(自然石)
高約3m
天保5(1834)
歴史の道8p81-82/市教委
移設?
(竿正面)「金毘羅大權現」/下記「淀江町今津の秋葉山常夜灯」と並ぶ
2
B
両三柳の常夜灯
りょうみつやなぎ
米子市
浜橋付近<境往来>
石常夜灯
安政2(1855)
歴史の道7p7
笠の損傷が激しい/火袋は欠損
(竿)「天照皇大神宮」「因伯大守公」
3
C
淀江町今津の秋葉山常夜灯
よどえ、
いまづ
米子市
<山陰道>
石常夜灯(自然石)
高約3m
慶応3(1866)
歴史の道8p81,82
/市教委
移設?
(竿正面)「秋葉大權現」/上記「淀江町今津の金毘羅常夜灯と並ぶ
2
B
水浜の廻国塔道標
みずはま
米子市
日野川(右岸)堤防上
<日野往来>
石道標(自然石)
寛政元(1789)
歴史の道3p12
移設?/下部埋没
(正面右)「右 くけミち」、(同左)「左 上方ミち、大山」/正面中央に「奉納經四國八十八ヶ…」と陰刻
2
C
夜見町の道標
よみ
米子市
<境往来>
石道標
文化年間(1804-18)
歴史の道7p7-8
上部欠損/個人宅に移設
(正面)「右、境江 三里/三保関 五里、道」、(○面)「左、米子
□□
/淀江
□□
/因幡
□□
、道」/建立年は「文化
□□
」
4
-
淀江町中間の道標
よどえ、
なかま
米子市
大和公民館
<山陰道(伯耆往来)>
石道標(尖頭角柱)
高88㎝,29㎝角
天保5(1834)
市教委(伯耆・出雲 郷土史跡めぐりp55)
移設/下部埋没
(正面)「右 よ奈…」、(左側面)「左 ひの…」
2
C
尾高の道標
おだか
米子市
大高公民館<尾高道>
石道標(尖頭角柱)
高80㎝,25㎝角
安政5(1858)
市教委/
歴史の道3p9-11
移設
(正面)「右 大山道/左 因幡道」
2
C
車尾の道標
くずも
米子市
<出雲街道>
石道標
高115㎝,幅30㎝
江戸期?
吉岡速人
移設/個人宅に移設/刻字の7割は剥離・磨耗のため判読不能(データは、資料による)
(正面)「西 米子入口 八丁 雲州清水 二り 廣瀬
□
□
松江
□
り 一畑杵築
□
り/北 境津 三穂関
□
□
雲州浦辺/南 山市場 天万 法勝寺
□
り
□
□
/東 淀江 二り 倉吉
□
り 鳥取
□
り 尾高 大仙 溝口
□
り 勝山」、/(正面最下部)「道」/施主が屋号のみ→江戸期の可能性
4
C
尾高道の一丁地蔵
(二番)
おだか
米子市
<尾高道>
町石(舟型)
享保7(1722)
市教委
(光背○側)「二番」/光背中央に地蔵立像を陽刻
尾高道の一丁地蔵
(四十九番)
おだか
米子市
<尾高道>
町石(舟型)
宝暦3(1753)
市教委
(光背○側)「四十九番」/光背中央に地蔵立像を陽刻
八幡の渡し場
・跡
やわた
米子市
日野川
船着場
江戸期
歴史の道10p28
場所がほぼ特定できる程度
日野川を渡り、大山寺へ行くための参詣道として使われた
5
C
米川
よね
米子市・境港市
日野川
用水路
長約20㎞
元禄14(1701)
→宝暦9(1759)
市教委(新修米子市史2・通史編(近世)p238-240)/WEB(米川用水)
C改修
自然の川のなかった弓ヶ浜半島を灌漑するための用水=県西部最大の農業用水路で米子市から境港市まで続く/奉行・米村所平広次の提言を入れて鳥取藩2代藩主・池田綱清の命で元禄13(1700)着工→翌14年に両三柳までの1期工事が完成/その後、宝暦9(1759)に全線開通するまでに3回伸延/農業用水の不要な冬に砂丘の砂を米川の水で海岸部に流し、新しい新田村(粟島新田、安倍村)を造った
4
A
佐野川用水
さの
米子市・
(西伯)南部町・
(西伯)伯耆町
日野川→長者原台地
用水路
長8.8㎞
文久元(1861)
県教委(とっとり井手物語p66-72)
C改修
豪農・吉持五郎左衛門が元和4(1618)から自費で開削を開始→10代・250年かけても完成せず→11代・吉持吉十郎の請願を受け鳥取藩在家長役・佐野増蔵の指揮監督で開削再開/藩からの資金援助ゼロが条件→庄屋・加藤清左衛門が中心となって資金を集めた/佐野川の名称は佐野増蔵に由来
4
B
岡成池
おかなり
米子市
溜池
室町期?
→享保11(1726)決壊
県教委(とっとりため池物語p71-75)
C改修
享保11、堰堤が60mにわたって崩壊し、死者74名を出す大惨事を引き起こした
3
C
宗像土手
むなかた
米子市
(宗像神社・東)
<新山川・法勝寺川>
土堤防
慶長5-8(1600-03)
市教委(勝田郷土史考p72)
土堤防の一部が残る
11歳の中村一忠がに米子城主に移封された際(慶長5(1600))、後見役の執政家老として同行した叔父・横田村詮が築いた可能性の高い堤防〔慶長8に村詮を誅殺された後は、慶長14に加藤貞泰が入部するまで大事業は行われなかったと推定される〕
3
C
勝田土手
かんだ
米子市
(勝田町東区公民館・裏)
<日野川>
土堤防
長160m→約100m,幅15m,高3m
(現存部)
江戸初期 or
享保年間(1716-36)
市教委(新修米子市史2・通史編(近世)p332
/勝田郷土史考p71-76)
土堤防の一部が残る
米子城下を日野川の洪水から守るため築造された/土手の中央には印幡街道が通っていた→日野川が決壊しても米子に濁流が流れ込まないよう、土手の両側の石柱間に板を立てて堰とした/築造年についてが、①土手の上に元禄3(1690)の一字一石塔が建っていることから江戸初期と推定する説、②元禄15(1702)の日野川大洪水後の流路変更を受けて米子城主・荒尾氏が享保年間(1716-36)に築造したとする説がある
3
C
西町の潮止め松
にし
米子市
湊山公園
海岸防風林
12本
江戸初期
市天然
歴史の道7p8-9/WEB
平成23の大雪で松1本が幹の途中から折れたため補修
海岸防風林の一環と捉えることができる/樹齢400年を越す黒松12本が残る
4
B
淀江台場
・跡
よどえ
米子市
<淀江湊>
台場(土塁)
長65m,幅24m,高約5m/18斤砲1門,6斤砲1門,5寸砲1門
文久3(1863)
国史跡
鳥取県文化財報告書16p13-16/市教委/歴史の道8p82,84
明治31に小学校建設に伴い一部削平/海に面した土塁の遺構を残す
淀江湊に面した今津に、上記「境台場」と同じ松波宏元の設計で、実父の大庄屋・松波宏年が土地を無償提供して築造/松波が率いる松波農兵隊が守備した
3
C
山陰道・蒲生峠越
さんいん、
がもう
(岩美)岩美町
<山陰道>
道路
国史跡
駆馳山峠の石畳
しちやま
(岩美)岩美町
<山陰道>
石畳道
長約152m,幅約2m,最大石約180×60㎝
文化9(1812)
国史跡
WEB/
歴史の道8p15-16
原形通りだが、草が繁茂
備前から来た多十郎という六部僧が、峠の悪路に難渋していた村人を助けるため、寄付を募って造った
2
C
牧谷の道標
まきだに
(岩美)岩美町
<山陰道(但馬往来)>
石道標(笠付き)
高85㎝,幅42㎝,厚33㎝
文化2(1805)
歴史の道8p28
/米田信夫
原位置?
(正面右)「右 御たき道」、(同左)「左 た
□□
」/角柱の道標の上に屋根型の石が載る
1
C
新井の地蔵道標
にい
(岩美)岩美町
<山陰道(但馬往来)>
石道標(自然石)
高55㎝,幅38㎝
文化12(1815)
歴史の道8p18・19
/米田信夫
原位置?
(右面)「加も登/たちま/東ゆ村/道」(=蒲生峠?,但馬)/正面に地蔵立像の線刻
1
-
高山の地蔵道標
たかやま
(岩美)岩美町
<山陰道(但馬往来)>
石道標(丸彫)
文政6(1823)
吉岡速人
移設、集約
(台石裏面)「是ゟ岩井へ/十六丁」/円柱台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる
2
C
大沢池
(柳池)
おおさわ
(岩美)岩美町
溜池
文久3(1863)着工
県教委(とっとりため池物語p11-17)
水源涵養地として保全
地元・唐川の小倉勝次郎が私財を投じて上野山頂の大沢に溜池を築造(完成は明治6)
1
C
浦富台場
・跡
うらどめ
(岩美)岩美町
台場(土塁)
長92m,幅約10m,高約3m/12斤砲1門、6斤砲1門、5寸砲1門
文久3(1863)
国史跡
歴史の道8
p22/現地解説板
公園として整備
藩執政職にあった鵜殿長道が浦富海岸に築いた因幡に現存する唯一の台場
2
B
川床道の石畳
かわどこ
(西伯)大山町
大休峠・西<川床道>
石畳道
長511m,幅約1.2m
天保-安政年間(1830-60)
歴史の道10p3,4,41,49
/町教委/WEB
保存状態良好
付近の村人によって大山寺への参道の一部として寄進造成(別所村の庄屋・小村定右衛門が私財を投じて造ったとの説も)/東伯方面からの大山参詣と牛馬市往来に利用された/沢の部分は長めの石を2列に並べて水抜きの役目を果たせるよう配慮/火災で記録が残っていないため築造年間などは推測
1
B
横手道
よこて
(西伯)大山町
道路
江戸期
WEB
往時の状況を比較的留めるのは大山寺付近の3.5㎞程度
岡山県真庭市から内海峠、鍵掛峠を経て大山西麓を北進し大山寺境内に至る道
2-3
B
大山寺参道の石畳
だいせん
(西伯)大山町
大山寺~大神山神社奥宮への参道
石畳道
長約700m,幅約2.6m
寛政8(1796)
WEB
保存状態良好
路肩を縁石で固定し、細長い石材を意図的に混入させた堅固で他に例のない石畳/石畳というよりは舗石に近く、道を横断する細い水路溝も縁石できっちり仕切られている
1
A
大山並木松
だいせん
(西伯)大山町
県道<尾高道>
松並木(黒松)
慶長年間(1596-1615)
町天然
歴史の道10p31/WEB
81本→26本
大川寺中興の祖・豪円僧正が、雪深い山道に参詣者が迷わないよう、山奉行・三中市太郎と陶山太兵衛に命じて1町ごとに松を植えさせた始まりとされる
3
B
羽田井の一町松群
はたい
(西伯)大山町
県道<川床道>
一町松
直径0.5-2.8m
江戸期
歴史の道10p44-46/WEB
年々枯死が進み、数が減少している(21本→6本)
山道を歩く参拝者のために植えられたもの/直径2.8m、周囲6.49mの巨大な松は「中山町の巨木」と呼ばれる
3
B
赤松の常夜灯
あかまつ
(西伯)大山町
(一の谷)<大山道>
石常夜灯
安政8(1861)
歴史の道10p24-25
原位置?
火袋に「日月」の開口部
1
B
羽田井の道標1
(船上山分かれの道標)
はたい
(西伯)大山町
<川床道>
石道標(五角柱)
高104㎝
元禄14(1701)
吉岡速人
原位置?
(正面)「是より、右ハ 大山道也/左ハ 舩上道也」
1
C
高田の供養塔道標
たかた
(西伯)大山町
<大山道>
石道標(浦鉾型)
高112㎝
安永6(1777)
歴史の道10p19
移設
(正面右下)「右 所子」、(正面左下)「左 淀江」/正面中央に「○廻國一千人供羪塔」と陰刻、最下部に蓮花の陰刻
2
C
大山の道標1
(桝水別れの道標)
だいせん
(ますみず)
(西伯)大山町
<横手道>
石道標
天明8(1788)
町教委/
歴史の道10p37/WEB
原位置?
(正面)「従是、右 みぞ口 二ぶ道/左 ゑび 并 みづくゑ道」
1
B
西坪の題目塔道標
にしつぼ
(西伯)大山町
(三軒屋)
<山陰道(伯耆往来)>
石道標(自然石)
高90㎝
文化4(1807)
歴史の道8p75/
吉岡速人
移設?
(左面)「左 大せん道」/正面に「大乘妙典石書塚」、裏面に「此身今は 王可もの登/笠佐希て 立那可羅/月涼しけつ満津以/多良楚こ尓寝ん
(此身今は わがものと 笠さげて 立ながら 月涼し けつまついたら そこに寝ん)
」の句を陰刻
2
C
羽田井の道標2
はたい
(西伯)大山町
<川床道>
石道標(自然石)
高約50㎝
天保12(1841)
吉岡速人
原位置?
(正面)「右 大山道」
1
-
西坪の道標
にしつぼ
(西伯)大山町
(三軒屋)
<山陰道(伯耆往来)>
石道標
高100㎝,幅25㎝,厚15㎝
安政5(1858)
吉岡速人
原位置?
(正面上部)「氏殿権現道」、(正面下部)「名和旧跡自是西十三丁/米子往来御来屋江通抜」
1
C
羽田井の道標3
はたい
(西伯)大山町
<川床道>
石道標(自然石)
高約80㎝
文久4(1864)
吉岡速人
移設、集約
(正面)「右 赤碕道」
2
C
上市の地蔵道標
うわいち
(西伯)大山町
<山陰道>
石道標
江戸期?
歴史の道8p69-70
移設?/道標部分は追刻?
(正面下部両裾)「左 いなば/右ハ米子道」/「江戸時代この地蔵の前を通るときは、貴人たりといえども駕籠から降りて通らないと後に必ず腹痛などのさわりがあった」という言い伝えがある
2
B
大山の道標2
(別れ地蔵前の道標)
だいせん
(西伯)大山町
<大山道>
石道標(尖頭角柱)
江戸期?
町教委
原位置
(正面)「従是、右 みくりや い奈ば/左 よ奈ご い津も、道」(=米子、出雲)/尾高道と坊領道合流地点に別れ地蔵と共に建つ
1
C
大山寺参道修繕碑
だいせん
(西伯)大山町
<大山寺・参道>
石碑
高約80㎝(円形の塔身のみ)
寛政8(1796)
WEB
原位置
(正面上部)「道修治」/石基壇の上に台石を載せ、その上に円盤状の石碑を置く
1
B
大山の牛馬の水呑み場
・跡
だいせん
(西伯)大山町
<大山道>
水呑み場
江戸期?
WEB
保存状態良好
石で作られた水槽/牛馬市が盛んな頃に、牛馬を休ませたとされる
1
C
御来屋の常夜灯
みくりや
(西伯)大山町
御来屋港
石常夜灯(海運)
(自然石)
江戸期
歴史の道8p76
移設
江戸期の年貢米積み出しによってにぎわった御来屋漁港の常夜灯
2
C
稲光井手
いなみつ
(西伯)大山町
阿弥陀川
用水路
正徳2(1712)頃
県教委(とっとりため池物語p53-59)
保存状態良好
阿弥陀川から下流の水田に導水/稲光村の人夫頭・孫兵衛が考案したとされる(水路のことで普請奉行と口論になり斬殺された)
1
C
赤松池
あかまつ
(西伯)大山町
溜池
堤長130m,堤高5.5m(現在)
延宝8(1680)頃
県教委(とっとりため池物語p61-67)
昭和18嵩上げ/C改修
築造に係わる史料なし/「へび伝説」で有名
3
-
大谷池
おおたに
(西伯)大山町
溜池
堤長95m,堤高9m
正徳2(1712)頃
県教委(とっとりため池物語p53-59)
堰堤改修
施主:入江喜兵衛/自分の山林を提供して(代替地として)溜池を築造
2
-
松尾池
まつお
(西伯)大山町
溜池
寛政4(1792)以降
県教委(とっとりため池物語p53-59)
C改修
寛政4の大旱魃の際、堰堤の嵩上げ工事が行われた/創建年は不明
2
-
大山寺門前の博労座
・跡
だいせん、
ばくろう
(西伯)大山町
博労座駐車場
牛馬市
享保11(1726)
WEB
空間として残っているだけ(駐車場化)
八代将軍・吉宗の頃、大山の祭日を期して牛馬市を開いたのが起源/最盛期の明治36頃には市が年5回開催され、売買された頭数は1万頭にのぼった
4
B
天万の道標1
てんまん
(西伯)南部町
天万神社参道
<新上方往来>
石道標(自然石)
高約1.5m
享保9(1724)
町教委/歴史の道6p29
移設(刻字、判読困難)
(正面右)「きた よなごみち」、(同左)「ひがし、大せんみち/いなばみち」
3
C
法勝寺の題目塔道標
ほっしょうじ
(西伯)南部町
<法勝寺往来>
石道標
安永10(1781)
吉岡速人
移設/簡易覆屋内
(上段台石正面)「川向/あひ/連道」、(同右面)「村入/上かた/ミち」/正面に「南無日蓮大菩薩」と陰刻
2
C
宮前の道標
みやまえ
(西伯)南部町
<新上方往来>
石道標(尖頭角柱)
高60㎝
文政5(1822)
町教委/歴史の道6p28
近接移設
(正面)「従是、右 こまつだに/左 上がた、道」
2
-
天万の道標2
てんまん
(西伯)南部町
南部町役場<新上方往来・天万宿・本陣前>
石道標(尖頭角柱)
高約1.0m
慶応3(1862)
町教委/歴史の道6p29
移設
(正面)「右 母里 法勝寺道/左 二部 上方道」
2
C
佐野川用水
さの
(西伯)南部町・
米子市・
(西伯)伯耆町
日野川→長者原台地
用水路
長8.8㎞
文久元(1861)
県教委(とっとり井手物語p66-72)
C改修
豪農・吉持五郎左衛門が元和4(1618)から自費で開削を開始→10代・250年かけても完成せず→11代・吉持吉十郎の請願を受け鳥取藩在家長役・佐野増蔵の指揮監督で開削再開/藩からの資金援助ゼロが条件→庄屋・加藤清左衛門が中心となって資金を集めた/佐野川の名称は佐野増蔵に由来
4
C
金田瓦窯
・跡
かねだ、
がよう
(西伯)南部町
瓦窯
長5.5m,高5.6,煙出し穴の高1.7m
鳳時代(7世紀後半)
県史跡
WEB
保存状態良好
花崗岩の斜面をくりぬいて造られた瓦窯/内部は、焚口、燃焼室、焼成室、煙道からなる/古代の瓦窯が残る稀少な事例
1
A
中祖一里塚
なかぞ
(西伯)伯耆町
<出雲街道>
一里塚(1基)
江戸期
町教委(ふるさと溝口p10)
昭和62黒松枯死/西塚が残る/周囲を石垣で囲む
4
C
宮原の金毘羅常夜灯
みやばら
(西伯)伯耆町
宮原公民館<日野往来>
常夜灯(自然石)
高1.6m
安政5(1858)
歴史の道3p18
移設?
(竿)「金毘羅大權現」「大山」/台石に双体道祖神の線刻/宮原地区への入口常夜灯
2
C
丸山の常夜灯
まるやま
(西伯)伯耆町
<大山参詣道>
常夜灯(自然石)
高2.7m
江戸期?
町教委(岸本町ふるさと巡りp52)
原位置?/宝珠欠損
(竿正面)「大智明大権現/下山大明神」/中台と笠・宝珠は自然石
2
C
谷川の道標
たにがわ
(西伯)伯耆町
道寧寺・前<日野往来>
石道標(自然石)
高68㎝
元禄(1688-1704)以前?
歴史の道3p15
移設
(正面)「奈可"やま/ふだ志よ」/道寧寺が移設された際、一緒に移設されたと考えられている
2
-
三部の地蔵道標
さんぶ
(西伯)伯耆町
<出雲街道>
石道標(舟型)
高173㎝(うち、塔身100㎝)
天明6(1786)
町教委(ふるさと溝口p52)
原位置?
(光背右)「右
□□
ふ志"や谷ゟ法正寺道」、(光背左)「左 上加多道 にぶへ十丁」(=上方)/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻
1
B
上細見の道標
かみほそみ
(西伯)伯耆町
矢田貝家<大山道>
石道標
高80㎝
寛政6(1794)
歴史の道3p12/
歴史の道10p32
個人宅へ移設(もと、大江)
(正面)「右 大せん/左 上の村、通」
4
C
大内の道標
(小柳別れの道標)
おおうち
(こやなぎ)
(西伯)伯耆町
<横手道>
石道標(安山岩)
高194(うち、台石64㎝),
幅36㎝,厚33㎝
享和3(1803)
歴史の道10p36/
町教委(ふるさと溝口p88)/WEB
原位置
(正面)「従是、右 こやなぎ ゑび/左 ミつくゑ ゆ者"ら、道」(=湯原)
1
B
岩立の道標1
いわたて
(西伯)伯耆町
<大山道>
石道標(尖頭角柱)
文化5(1808)
歴史の道10p34
移設、集約/下部埋設
(正面)「従是、右ハ 岩…/左ハ 大…」〔「大」の右に「たい」とふり仮名〕
4
-
大原の道標
おおはら
(西伯)伯耆町
<大山道>
石道標
高130㎝(うち、台石80㎝)
文政6(1823)
町教委(岸本町ふるさと巡りp47)
原位置/中央で水平に折損→修復(原石の破損大)
(正面)「右 やま/左 丸山 大仙、道」/巨大な自然石(台石代わり)の上に立つ
3
C
岩立の道標2
いわたて
(西伯)伯耆町
<溝口道>
石道標(駒型)
天保7(1836)
吉岡速人
原位置?
(正面)「従是、右 大内/左 大山、道」
1
-
二部の道標
にぶ
(西伯)伯耆町
(宮ノ鼻)
<出雲街道・富田街道>
石道標
高166㎝
嘉永2(1849)
町教委(ふるさと溝口p67)
上部1/3で水平に折損→修復/間地川の護岸工事の際に近接(3m)移設
(正面上部)「右 ひん古/左 大さか、道」(=備後)、(左面上部)「右 米子/左 黒坂」/二部の町外れに大坂の近江屋市次郎(出雲参りの旅行業者)が立てた→正面下部に「大坂屋とんほり/近江屋市次郎/日本者し南つめ」と刻字して宣伝
2
B
丸山の道標
まるやま
(西伯)伯耆町
<大山参詣道>
石道標(自然石)
高210㎝
江戸期?
町教委(岸本町ふるさと巡りp52)
原位置?
(正面)「左 大山」/三角形をした自然石が2つの台石(自然石の台石と石組みの台石)の上に載る/全高210㎝のうち2/3程度は台石の高さ
1
B
溝口の渡し場
・跡(宇代側)
みぞぐち
(西伯)伯耆町
<出雲街道>/日野川
渡し場
江戸中期
町教委(ふるさと溝口p9)/歴史の道6p17
船着場の遺構(小規模)が残る
江戸中期の古文書に「川幅30間(55m)、深さ4尺5寸(1.35m)、舟渡し、洪水ならば1日以上渡るべからず」との記載がある
3
C
上の渡し場
・跡
かみ
(西伯)伯耆町
日野川
渡し場
江戸期
歴史の道10p27
場所がほぼ特定できる程度
日野川を渡り、大山寺へ行くための参詣道として使われた
5
-
中の渡し場
・跡
なか
(西伯)伯耆町
日野川
渡し場
江戸期
歴史の道10p27
場所がほぼ特定できる程度
日野川を渡り、大山寺へ行くための参詣道として使われた
5
-
下の渡し場
・跡
しも
(西伯)伯耆町
日野川
渡し場
江戸期
歴史の道10p27
場所がほぼ特定できる程度
大寺(岸本町)から吉長との間に伯耆橋ができるまで使われた渡し場/日野川を渡り、大山寺へ行くための参詣道として使われた
5
-
吉定の常夜灯
よしさだ
(西伯)伯耆町
日野川
石常夜灯
文政4(1821)
歴史の道10p28
(竿正面)「大山大智明大権現」
蚊屋井手
かや
西伯)伯耆町・
(西伯)日吉津村
日野川
用水路
江戸前期
WEB
C改修
何度も改修を受けている/日野川の転流で度重なる水害と旱ばつに悩まされていたが、蚊屋井手の開削により水の供給は安定した
4
-
佐野川用水
さの
(西伯)伯耆町・
(西伯)南部町・
米子市
日野川→長者原台地
用水路
長8.8㎞
文久元(1861)
県教委(とっとり井手物語p66-72)
C改修
豪農・吉持五郎左衛門が元和4(1618)から自費で開削を開始→10代・250年かけても完成せず→11代・吉持吉十郎の請願を受け鳥取藩在家長役・佐野増蔵の指揮監督で開削再開/藩からの資金援助ゼロが条件→庄屋・加藤清左衛門が中心となって資金を集めた/佐野川の名称は佐野増蔵に由来
4
C
弁天岩隧道
べんてんいわ
(西伯)伯耆町
佐野川用水
素掘トンネル
(水路)
長159m,
高1.98m,幅2.3m
文久元(1861)
県教委/町教委(岸本町ふるさと巡りp14)
坑口は改修/隧道内は時期により見学可能
1人の石工が1日がかりで石宵1弁と言われたほどの難工事→隧道担当の下奉行・山田治三郎尚真は出羽の羽黒山の修験場で御神体の分霊を受けて坑口に小さな祠を建立/石工が掘った当時の「のみ」の跡が残っている
2
B
佐野川御普請皆出来の碑
さの
(西伯)伯耆町
(金廻)佐野川
石碑(自然石)
高170㎝
文久元(1861)
町史跡
町教委(岸本町ふるさと巡りp15)
保存状態良好
(正面)「佐野川御普請皆出來」/上記「佐野川用水」の完成を記念して竣工後に建立
1
C
藤屋炉床
ふじや
(西伯)伯耆町
製鉄遺構
(炉床、鉧)
江戸期
町史跡
町教委(ふるさと溝口p57)/WEB
大舟、小舟が半分以上破壊/製鉄炉の地下の状況を良く残す
大きな掘り込みの中に小舟を東西に置き、中央に大舟を置き、その上に本床を載せる床釣り形式のたたら製鉄炉
3
B
日吉津の常夜灯
ひえづ
(西伯)日吉津村
<山陰道>
石常夜灯
高約2m
文政11(1828)
歴史の道8p87
笠が一部欠損
1
C
蚊屋井手
かや
(西伯)日吉津村・
(西伯)伯耆町
日野川
用水路
江戸前期
WEB
何度も改修を受けている
日野川の転流で度重なる水害と旱ばつに悩まされていたが、蚊屋井手の開削により水の供給が安定
4
御新田開発碑
(西伯)日吉津村
(今吉)
石碑(蒲鉾型)
元治元(1864)
村指定(保護文化財)
現地解説板
原位置?
(正面)「御新田開發
碑
」(
緑字
は異体字)/日野川右岸の荒地に着目した植田彦三郎が、領主荒尾氏の許可を得て今吉村新田を開発/日野川上流の冬期のカンナ流しによる泥水を砂地に流し込んで耕地化した
1
B
山陰道駅路の道路痕跡
さんいん
(東伯)琴浦町
<古代山陰道>
道路
古代
木下 良
畑地として残る
赤碕の地蔵道標
あかさき
(東伯)琴浦町
<大山道>
石道標(舟型)
安永4(1775)
歴史の道10p43
移設
(最上段台石正面右)「右 大山道」、(同左)「左 山道」/台石上に光背付き地蔵立像を載せる
3
B
尾張の地蔵道標
おわり
(東伯)琴浦町
<大山道>
石道標(舟型)
享和元(1801)
歴史の道10p42-43
原位置?
(上段台石正面右)「右ハ 大山 赤崎」、(同左)「左 山道」/台石上に光背付き地蔵立像を載せる
1
B
浦安の地蔵道標
うらやす
(東伯)琴浦町
<八橋往来>
石道標(自然石)
文政元(1818)
吉岡速人
移設?
(正面像下右)「右ハ くらよし」、(同左)「左ハ 大つ可」/正面上部を光背型に削り込み地蔵坐像を陽刻
2
C
菊港の防波堤
(西堤)
きく
(東伯)琴浦町
菊港
石防波堤(玉石)
長90m,幅5.3m,高3.4m
江戸後期
選奨土木遺産
町教委/歴史の道8p69
保存状態良好/途中で途切れ、その先はテトラポットで補強
日本海側で最も旧状を留める近世防波堤/承応年間(1652~55)に藩倉と船番所が置かれる/築造時期については、諸説あり(東堤:享保・元文、西堤:寛政、文政)/人頭大の玉石
2
A
菊港の防波堤
(東堤)
きく
(東伯)琴浦町
菊港
石防波堤(玉石)
長150m,幅13.8m,高2.3m
江戸後期
選奨土木遺産
町教委/歴史の道8p69
若干の改修
承応年間(1652~55)に藩倉と船番所が置かれる/築造時期については、諸説あり(東堤:享保・元文、西堤:寛政、文政)/人頭大の玉石
2
A
徳万の石塁
とくまん
(東伯)琴浦町
琴浦町の海岸
石塁(玉石)
江戸末期
町教委
保存状態良好/鳴り石の浜プロジェクトにより、遊歩道が整備
幕末に外国(中国)の侵略から守るために作られたと言われる石積みが海岸線に沿って延々と残っている(徳万地区のものが最良)/一部二重/建造時期は、台場が築造された頃と推測されている
2
B
由良の船着き場
・跡
ゆら
(東伯)北栄町
ひより川
舟着場
享保4(1719)頃
WEB
船着場の面影は残っておらず、碑のみ残る
由良藩倉ゆかりの舟着場跡/現在碑が建っている位置は民間の船が泊まっていた場所の可能性がある(本来の由良藩の船着場は100m南の川との合流地点の上あたりだと推測される)
5
C
由良~北条の海岸防風林
ゆら、
ほうじょう
(東伯)北栄町
海岸防風林
長約700m
江戸中期~江戸末期?
所々枯れた松がほぼ直線状に残るがどれだけ防風効果があったかは疑問
由良~北条にかけての防風林は、史料がないので正確な年代が把握されていないが、江戸中期から末期にかけて植えられたものと推定されている/砂丘開拓の一環として北条に水路が造られ綿花等の栽培が行われていたようで、それに伴って防風林を植え始めたとされる
3
A
由良台場
・跡
ゆら
(東伯)北栄町
台場(土塁)
(五角形に屈曲した前面をもつ)
東西125m,南北84m,前面高4.5m/60斤砲1門,24斤砲1門,18斤砲1門,5寸砲1門
文久4(1864)
国史跡
鳥取県文化財報告書16p13-16/町教委/歴史の道8p68
保存状態良好/お台場公園/国道9号の北条バイパスによって海との連続性が断絶
伯耆5台場の中で最初に着手されたものと言われている(竣工は淀江・橋津台場の方が早い)/文久3(1863)6月に武信潤太郎を総指揮者として建設に着手→藩の財政窮乏のため出資金なし→男女を問わず16-50歳までの者が使役に出された(延べ75000余人)→人夫賃は中・大庄屋らの献金/西洋式の城塞プランが採用されるなど藩築造の台場としては極めて特徴的で、江戸末期史の理解に欠くことのできない重要な遺構/台場には下記の「六尾反射炉」で製造された大砲が配備された(砲数は計4門と境台場の半数だが、口径は遥かに大きい
2
六尾反射炉
・跡
むつお
(東伯)北栄町
反射炉
安政4(1857)
町史跡
町教委/
歴史の道8p168
土塁、土手、井戸、用水路等が残る
鳥取藩が武信潤太郎を反射竈御用懸りに任じて築かせた炉(潤太郎は、長崎・熊本など各地で砲術の秘伝を学んだ人物)/費用は、藩財政が緊迫していたため富豪・武信佐五右衛門がすべて供出/鋳鉄製の大砲を造るための炉/50門以上の大砲が鋳造され、由良台場にも配置された
4
B
木地山の一里松
(東伯)三朝町
<津山往来>
一里松
高約25,周囲3.7m
江戸期
歴史の道2p12
樹齢約350年/一里松の残存例は少ない
1
C
三朝の地蔵道標
みささ
(東伯)三朝町
<鹿野往来>
石道標(舟型)
安永9(1780)
吉岡速人
原位置?
(光背右)「美徳山江 從是五拾一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
野花の旧道
のばな
(東伯)湯梨浜町
<倉吉往来>
道路
江戸期?
歴史の道5p23
昔ながらの町並みの旧道
C
橋津藩の藩倉
(三十間北蔵)
はしづ、さんじゅっけん
(東伯)湯梨浜町
<橋津港>
倉庫
(木造切妻瓦葺)
文化3(1806)以前
WEB
移設/明治初頭に県の官舎、明治24奨恵社の倉庫、昭和26移設/平成22修復
橋津港に設けられた藩倉(江戸・大坂へ売却する廻米の保管・積出し用)/現存する3倉の中で一番古い
2
B
橋津藩の藩倉
(片山蔵)
はしづ、
かたやま
(東伯)湯梨浜町
<橋津港>
倉庫
(木造切妻瓦葺)
文化3(1806)以降
WEB
原位置/明治初頭に県の官舎、明治24奨恵社の倉庫、平成14までJA鳥取中央橋津支所/平成22修復
橋津港に設けられた藩倉(江戸・大坂へ売却する廻米の保管・積出し用)/現存する3倉の中で唯一原位置
1
B
橋津藩の藩倉
(古御蔵)
はしづ、
こおくら
(東伯)湯梨浜町
<橋津港>
倉庫
(木造切妻瓦葺)
天保14(1843)
WEB
移設/明治初頭に県の官舎、明治24奨恵社の倉庫、大正10-12移設
橋津港に設けられた藩倉(江戸・大坂へ売却する廻米の保管・積出し用)/現存する3倉の中で唯一棟札があり、かつ、最大→内部が3室(各15坪)に分かれていて全体で4500俵を格納できた
2
A
宇野地蔵タギ
うの
(東伯)湯梨浜町
<山陰道>
湧水
江戸期
歴史の道8p60/WEB
飲用可能
生活用水として宇野地蔵ダキの水を使用していたこともあって水源に対する意識が強いため、 地域住民によって、綺麗に管理されている
1
C
橋津台場
・跡
はしつ
(東伯)湯梨浜町
<橋津湊>
台場(土塁)
両翼:長約50m,高4m/18斤砲1門,6斤砲1門,3斤砲1門,5寸砲1門
文久3(1863)
国史跡
鳥取県文化財報告書16p13-16/歴史の道8p60,62
波により前方部が浸食/正面が滅失、両翼と後方及び目隠し土塁のみ残る
藩倉のある橋津湊に、大庄屋・戸崎久右衛門以下が取締役となって築造/当初は由良台場と同じ左右対称の構造/台場建設に馬ノ山古墳群の土が使われた
4
B
御机の常夜灯
みつくえ
(日野)江府町
<大山道>
石常夜灯
文政8(1825)
歴史の道10p36
原位置?
御机集落の入口に建つ
1
吉原の常夜灯
よしはら
(日野)江府町
<大山道>
石常夜灯
文政8(1825)
歴史の道10p37
笠が一部欠損
(竿左面)「大智明大權現」
2
C
吉原の道標
(小柳わかれの道標)
よしはら
(日野)江府町
<横手道>
石道標
高194㎝,35㎝角
享和3(1803)
町有形
WEB
原位置
(正面)「従是、右 こやなぎ ゑび/左 ミつくゑ ゆ者"ら、道」
1
B
洲河崎の舟渡し
・跡
すがさき
(日野)江府町
<日野往来>/日野川
渡し場
江戸期
歴史の道3p19
場所がほぼ特定できる程度
洲河崎~武庫間の渡船/弘化4(1847)の記録に「一 渡船壹艘 御運上五匁 村中持」とある
5
C
江尾の鼻ぐり岩
えび
(日野)江府町
江尾駅・下方/日野川
舟繋石
江戸期?
歴史の道3p19
保存状態良好
石の一端に小孔が掘られている/日野川の水位の上昇の目安にしている
1
-
霞の金毘羅常夜灯
かすみ
(日野)日南町
<日野往来>
石常夜灯(自然石)
文政7(1824)
歴史の道3p27
(竿正面)「奉献金毘羅大権現」自然石だが竿の部分が異常に太くて大きい(奥日野型)
阿毘縁の題目塔道標
あびれ
(日野)日南町
(万才峠)<法勝寺往来>
石道標(蒲鉾型)
高265㎝(うち、台石2段48㎝)
文化2(1805)
歴史の道6p47
原位置?
(台石正面)「阿昆縁山江/二十五丁半」/正面に「南無妙法蓮華経」と陰刻
1
B
折渡の地蔵道標
おりわたり
(日野)日南町
(鉄穴谷)<法勝寺往来>
石道標
高80㎝(うち、台石20㎝),幅40㎝
文化8(1811)
歴史の道6p46-47
地蔵の真ん中で折損
(台石正面)「右 山道/左 かいとう」/台石の上に地蔵○像が陽刻された石が2基載る
2
C
多里の道標
たり
(日野)日南町
<日野往来>
石道標(自然石)
高約90㎝
文政10(1827)
吉岡速人
移設
(正面)「従是、右 備後/左 備中、道」
2
C
中石見の道路改修碑
なかいわみ
(日野)日南町
<日野往来>
石碑(自然石)
高267㎝(うち、台石2段89㎝
宝暦9(1759)
歴史の道3p28
移設
(正面像下)「此道路也自往古艱嶮之切処/而凸凹險阻殆倍乎九折矣爰/以老少男女重擔吏商客旨人/牛馬止徒苦途幾許乎也矢忠/子不忍其勞適促普請出候隣/郷相與併力布滑石運土砂費業閒數年徐而于越道成矣鳴/呼徃還之君子思之量之哉因/而勒焉備後鍳云」/正面上部を光背型に削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻し、その下に往古より難路の此道を、隣郷力を合せ、道路のでこぼこをならし、九折を直して道路改修の経過を刻字
2
B
神戸上の鉄穴流し
・跡
かどのかみ
(日野)日南町
鉄穴流し
江戸期以前
WEB
鉄穴残丘が残る程度
跡地は、「流し田」や削り残しの「鉄穴残丘」など,複雑な小凹凸の点在する山麓地/神戸上には「鉄穴内」「殿鉄穴」「鈩腹」「鍛冶屋田」など、砂鉄精錬に関連する小字も数多く残る
4
C
茶屋の鉄穴流し
・跡
ちゃや
(日野)日南町
鉄穴流し
江戸期以前
WEB
鉄穴残丘が残る程度
小原川の支流、北の小濁川と南の黒谷川に囲まれる地域で、深層風化の進んだ花崗閃緑岩や因美花崗岩の山地を削り、古くから鉄穴流しが行われた/鉄穴流しによる土砂は、小原川から日野川へと流出し、米子平野や夜見半島を造成/「鉄穴山」「鉄穴洞」「鉄穴池端」など、砂鉄精錬に関連する小字も数多く残る
4
C
四十曲峠の旧道
しじゅうまがり
(日野)日野町
<出雲街道>
道路
幅1.5-2m
江戸期
歴史の道6p24-25
保存状態良好
岩山を切り開いて造ったつづら折れの道
1
B
孫四郎橋
・跡
まごしろう
(日野)日野町
<日野往来>
橋脚の柱穴
長36m,幅2.25m
天保2(1831)
歴史の道3p21
柱穴のみ残る
創建以来6回架替・補修を行った/川の両岸が迫り、寝覚峡と呼ばれる名勝地
4
C
高尾の道標
たかお
(日野)日野町
<出雲街道>
石道標
高125㎝,幅22㎝,厚25㎝
寛政5(1793)
WEB/
歴史の道6p22,25
移設→個人宅の庭
(正面)「右 備中道/左 上方道」
4
C
峠根の地蔵道標
とうげね
(日野)日野町
<上方街道>
石道標(舟型)
文政8(1825)
歴史の道6p24
移設
(光背右上)「右 備中」、(同左上)「左 上方」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
志戸坂峠越
しとさか
(八頭)智頭町
<智頭往来>
道路
江戸期
国史跡
歴史の道3p41
明治19(1886)改修/市瀬地区、智頭宿、篠坂付近、中原付近、樽見(大字福原)、駒帰の6ヶ所は昭和40代の改修を免れた
承徳3(1099)に因幡国守・平時範が赴任する際に峠上で行われた「境迎え」の儀式が『時範記』に記載/江戸期には鳥取藩の参勤交代道となり、慶安元(1648)~文久2(1862)の214年間に178回通行した
3
A
篠ケ峰岐の旧往来
ささがほうき
(八頭)智頭町
<智頭往来>
道路
江戸期
吉岡速人
保存状態良好
智頭往来が、千代川沿いの御建山の中腹を通る難所
1
B
西谷の地蔵道標
にしだに
(八頭)智頭町
(右手峠)
石道標
嘉永5(1852)
WEB
原位置?
(正面右端)「右 つやま 左 やまみち」/正面像下に“右指差し”を陽刻/正面中央を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻/標石上に石板を笠代わりに置き、その上に宝珠まで載せている
1
C
栃木の道標
とちぎ
(八頭)智頭町
<智頭往来>
石道標(舟型)
江戸期?
歴史の道1p42
「右 かも/左 びぜん、道」/台石上に光背付の地蔵○像が載る
徳丸の金毘羅常夜灯
とくまる
(八頭)八頭町
<若桜街道>
石常夜灯
高2.36m
文久2(1862)
現地調査
原位置?
(竿正面)「金」
1
C
西御門の題目塔道標
にしみかど
(八頭)八頭町
石道標(自然石)
高約70㎝
江戸期
町教委
原位置
(正面右)「(右指差し)右 者奈原」(=花原)/正面中央に「南無阿弥陀佛」と陰刻
1
-
安井宿の道標1
やすいしゅく
(八頭)八頭町
愛宕神社・階段登り口
<伊勢道>
石道標(自然石)
江戸期
WEB
原位置
(正面)「右 いせ道/左 やま道」
1
-
安井宿の道標2
やすいしゅく
(八頭)八頭町
旧安部小学校・跡地
石道標(自然石)
高60㎝,幅30㎝,厚15㎝
江戸期
町教委
移設
(正面)「右 むら道/左 いせ道」
2
-
舟川の舟まわし
・跡
ふな
(八頭)八頭町
見槻中<舟川>
舟廻し
江戸期
町教委(新船岡町誌p249-251)
僅か一部が残る
八東川に農業用の取水堰があり舟の航行が困難であった→才代村の大庄屋・中村甚兵衛が私財を投じて迂回路・舟川(長6.8㎞,幅1.8-3.6m)を開削
4
B
長瀬堰
ながせ
(八頭)八頭町
八東川→安藤井手
取水堰
文政6(1823)
WEB
一部C改修
安藤井手の取水堰/洪水で何度も決壊、その都度積み直されている/安藤井手以外に、安井・大門・花の各地区へ給水する井手にも取水
3
C
安藤井手
あんどう
(八頭)八頭町
八東川
用水路
長10.8㎞,
幅0.9-2.4m
文政6(1823)
町史跡
町教委(郡家町の文化財p32-37)
/県教委(とっとりため池物語p19-25)
水路がC改修→
写真
は未改修部分だが、現在もこの状態かどうかは不明
70haの田畑を有する豪農・安藤伊右衛門が、全額自己負担という条件付きで鳥取藩から許可を受け、陣頭指揮をして開削した用水/井手の名称は築造者・安藤に由来するが、安藤家の農地は売却ため14haに減ってしまった
3
B
通り谷穴井手
・跡
とおりたに
(八頭)八頭町
<安藤井手>
素掘トンネル
(水路)
長459m,
幅1.2-1.8m
文政6(1823)
町史跡
同上
新トンネルが完成後は非現役(現況不明)
安藤井手で最大の難工事=24,816両の経費と3年の歳月を要した/岩の硬い部分を避けて掘ったため途中で何箇所も直角に折れ曲がっている
3
B
通り谷穴井手の明り井戸
・跡
とおりたに
(八頭)八頭町
<安藤井手>
素掘トンネル
(水路)の通気口
深4.15m
文政11(1828)
町史跡
町教委(郡家町の文化財p32-37)
1ヶ所のみ残る(保存状態良好)/穴井手は新トンネル完成後は閉鎖
通り谷穴井手が崩壊したのを受けて、修復した際に造られた通気用の穴/9ヶ所造られ、弁財天社下の井戸のみ旧態が保存されたまま残る
1
C
新興寺の石灰窯
・跡
しんこうじ
(八頭)八頭町
石積窯
7-8ヶ所(うち半数ほどが近世由来)
江戸末期~昭和初期
町教委
崩れて埋没/江戸期のものは改修されずに残る
田畑の肥料(中和剤)として焼石灰を生産
2
B
勘右衛門土手
かんえもん
(八頭)八頭町
八東川
石堤防
長約550m
江戸期
町教委(八東町誌p335-337)
草で覆われているが、その下にある石組みは非常にきれい/ニラ保存会が結成
八東川の氾濫に苦しむ農民のため東村の勘右衛門が自費で築いた堤防/巨石の上に土手を構築し、藤かずらを植えて地盤を強化した/土手にニラを植えて飢饉の備えとした
1
B
つく米の道標1
(舂米氷ノ山越えの道標)
つくよね
(八頭)若桜町
<伊勢道>
石道標(自然石)
寛政12(1800)
町有形
町教委
原位置?
(正面)「右ハ いせミち/左ハ 於じろ…」
1
C
淵見の道標
(淵見神社前の道標)
ふちみ
(八頭)若桜町
淵見神社<伊勢道>
石道標(自然石)
高104㎝,幅44㎝
文化11(1828)
町有形
歴史の道4p36-37/
町教委
河川改修により移設
(正面)「右 京 いせ/左 やま、道」
2
C
若桜の道標
(新町大師堂前の道標)
わかさ
(八頭)若桜町
(新町)<伊勢道>
石道標(自然石)
江戸期?
町史跡
町教委
移設、集約
(正面)「従是、みぎハ は里まみち/ひだ里ハ いせみち」
2
C
つく米の道標2
(舂米部落上の道標)
つくよね
(八頭)若桜町
<伊勢道>
石道標(自然石)
高約90㎝
江戸期?
町有形
歴史の道4p38/町教委
道路改修により移設?
(正面)「みきは やまミち/ひたりは いせミち」/「ミち」の標記は江戸期
2
C
若桜弁財天の丁地蔵群
わかさ
(八頭)若桜町
町石(舟型)
19基
江戸期?
若桜郷土文化の里
原位置/3、8、15、16丁が喪失/最近19丁が発見された
若桜弁財天の丁地蔵は山麓から山頂まで丁数順に並んでいる(山頂が一丁
⇒
逆順
)/光背頂部に「一丁」~「廿三丁」まで/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
B
つく米の棚田
つくよね
(八頭)若桜町
棚田石垣
棚田枚数100枚
戦国期~江戸期
WEB
保存状態良好
標高800mの谷を切り開いて造成された/畦畔の多くは下流の谷から運び上げた雑石で造られており、一度崩れれば復元できないような見事な石積
1
C