ページの先頭へ
佐賀県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
鍵尼遺跡の古道
・跡
かぎあま
佐賀市
大和町大字尼寺
道路
長500m
古代
古代官道・西街道肥前路p27
/現地解説板
舗装/郊外の市街地の道路と変わらない
調査地点およびその東西に水田および畑中に直線状の帯状窪地が残る(調査時点で現状とは異なる)→道路痕跡と推定
4
C
松原遺跡の古道
・跡
まつばら
佐賀市
久保泉町大字川久保
道路
長300m
古代
古代官道・西街道肥前路p38
/現地解説板
かつて道路があったことを推測できる程度
現状は水田で明瞭な道路痕跡は見えないが、水田の中に道路痕跡として長約300mにわたって帯状窪地が存在
3
C
大覚寺の参道橋
おおどう
佐賀市
大覚寺・参道/大覚寺井樋水路
石アーチ橋
長4.0m(A),
幅2.3m
寛文12(1672)
WEB(石橋)
保存状態良好
県下で最古の石アーチ橋/高欄・束柱の装飾性は高い/束柱に「
時
寛文十二壬子歳/南呂上旬」(
緑字
は古字)と建立年が刻字/系譜不明
1
B
与賀神社の萬歳橋
よか、ばんざい
佐賀市
与賀神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長10.5m(7G),
幅3.15m
慶長11(1606)
国重文
WEB(石橋)
保存状態良好/青銅製の擬宝珠は架設時のもの
佐賀藩祖・鍋島直茂が与賀神社に寄進した橋/完形で残る沖縄以外で国内最古の可能性のある石桁橋(三重県の極楽橋が慶長年間と幅があるため確定できない)
1
大堂神社の参道橋
おおどう
佐賀市
大堂神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長4.6m(4G),
幅2.8m
宝暦13(1763)
WEB(石橋)
保存状態良好
5列の縦梁を3列の柱で支える(4列の縦梁を横梁で支え、その横梁を3本の柱で支える2段構造。横梁は2本の石梁を片持ち式に連結させてある)/擬宝珠付き高欄
1
B
善左衛門橋
ぜんじゃあ
佐賀市
一般道/多布施川
石桁橋
長8m(5G),幅5m
明和元(1764)
WEB(石橋)
明治33に一部改修
旧土橋が老朽化したため、宇野善左衛門が自費で石橋に架け替えた/橋脚は各4本の円柱
3
B
本庄神社の参道橋
ほんじょう
佐賀市
本庄神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長8.2m(5G),
幅2.7m
江戸期
WEB(石橋)
路面C舗装
擬宝珠付き高欄/橋の取付け護岸が江戸前期の石積
2
B
香椎神社の参道橋
かしい
佐賀市
香椎神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長4.6m(4G),
幅2.2m
江戸期?
WEB(石橋)
保存状態良好
5列の縦梁を3列の柱で支える(5列の縦梁を横梁で支え、その横梁を3本の柱で支える2段構造。横梁は3本の石梁を片持ち式に連結させてある)/擬宝珠なし高欄/本殿の建立は江戸初期
1
B
長瀬町の道標
ながせ
佐賀市
<長崎街道>
石道標(安山岩)
高122㎝,幅21㎝
江戸中期以降
市有形
市教委/WEB
一時撤去→平成17に8mほど移設し再建立
(正面)「(左指差し)ながさき道/(右指差し)こくらみち」、(右面)「(左指差し)いさはや とかい塲」、(左面)「(右指差し)いさはや とかい塲」
2
C
三瀬峠の肥前・筑前国境石
みつせ
佐賀市・
福岡/
福岡市(早良区)
境界石(一対)
高240㎝,(肥前)45.5㎝角,(筑前)45㎝角
文化15(1818)
WEB(筑前国境石散歩)
道路拡幅のため近接移設
肥前国~筑前国との境界/(肥前正面)「從是南 肥前國」、(肥前左面)「神埼郡三瀬山村」、(筑前正面)「從是北 筑前國」、(筑前右面)「怡土郡飯場村抱」
1
B
佐賀市・神埼市境の郡境石
さが、
かんざき
佐賀市・神埼市
佐賀市巨瀬町
・神埼市千代田町
境界石(尖頭角柱)
高170㎝,幅19㎝,厚18㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
原位置?
(正面)「從是、東 神埼郡/西 佐嘉郡」/佐嘉郡~神埼郡
1
C
水ケ江の石敢當
みずがえ
佐賀市
石敢當
(駒型、砂岩)
高62㎝,幅20㎝,厚12㎝
寛政6(1794)
日本の石敢當p105
移設
(正面)「石敢當」
2
C
船屋地区の河岸土留板の止杭
・跡
ふなや
佐賀市
佐野歴史公園/早津江川河口
停泊施設?
江戸期
市・世界遺産登録推進室
木杭列(本物)が残るのみ
船屋地区は、海軍所が整備される前から佐賀藩の和船を管理する「御船屋」のあった場所→現存遺構がその時のものなのか、洋式船を動かすための訓練所「御船手稽古所」が置かれた時代のものなのかは不明(後者なら安政5)/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない
3
C
多布施の
石井樋
たふせ、いしい
佐賀市
(石井樋公園)
<嘉瀬川→多布施川>
石樋門
長10.3m,
高1.0m(3門)
元和年間(1615-24)?
現地解説板/WEB
平成17、石井樋地区歴史的水辺整備事業により復元
佐賀城下向けの生活・灌漑用水の取水樋門(全国でも最古級の石樋門→河川から直接引水場所に設けられた石樋としては現存最古/成富兵庫茂安の水利土木事業の技術的頂点
2
多布施の石井樋の出鼻
たふせ、いしい、でばな
佐賀市
(石井樋公園)
屈曲水路(石垣)
元和年間(1615-24)?
現地解説板/WEB
同上
石井樋の入口付近の流速を下げるための工夫
2
C
嘉瀬の象の鼻
かせ、ぞう
佐賀市
(石井樋公園)
<嘉瀬川→多布施川>
石導流堤
元和年間(1615-24)?
現地解説板/WEB
同上
嘉瀬川の用水取入れ口に造らた「流速減少と沈砂促進」のための人工屈曲水路→下記の天狗の鼻とペア
2
A
嘉瀬の天狗の鼻
かせ、てんぐ
佐賀市
(石井樋公園)
<嘉瀬川→多布施川>
石導流堤
元和年間(1615-24)?
現地解説板/WEB
同上
嘉瀬川の用水取入れ口に造らた「流速減少と沈砂促進」のための人工屈曲水路→上記の象の鼻とペア
2
A
大井出堰
・跡
おおいで
佐賀市
(石井樋公園)
<嘉瀬川→多布施川>
取水堰
長96m→長約30m
元和年間(1615-24)?
現地解説板/WEB
「戸立」と称する開口部を有する石積堰
3
B
二ノ井手堰
にのいで
佐賀市
(石井樋公園)
取水堰
元和年間(1615-24)?
現地解説板/WEB
大井出堰の余水吐(象の鼻・天狗の鼻を経由して取り込んだ用水の水量調節用)
2
B
小寺川の井樋
こでら
佐賀市
(石井樋公園)
石樋門
1門
江戸後期
現地解説板
同上
灌漑用/流速減少と沈砂促進のため、引き込み部分を長くした
2
C
兵庫町若宮のクリーク
ひょうご、わかみや
佐賀市
クリーク
江戸期?
現地
クリークと集落の一体感が残る
干満の差の大きい有明海沿岸特集の農村集落の形態
2
B
築地反射炉
・跡
ついじ
佐賀市
市立日新小学校
反射炉(煉瓦造)
嘉永5(1852)
市史跡
WEB/道迫真吾
煉瓦の反射炉のレプリカと、復元された4ポンドカノン砲を展示/長年場所すら特定できていなかった(平成22の発掘調査でも炉本体位置は不明)
佐賀藩10代藩主・鍋島直正が造らせた日本初の実用反射炉/初めは鉄の溶解がうまくいかず失敗続きだったが、手引書となったオランダの『ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳した伊東玄朴、鍋島直正が育てた蘭学者達、刀工や鋳物師らの伝統技術を結集して鋳造に成功(砂鉄ではうまく鋳造できなかったので、刀剣を再溶して使用した)→その成果は、静岡の「韮山の反射炉」にも反映された
4
A
多布施
反射炉
・跡
たふせ
佐賀市
反射炉(煉瓦造)
嘉永6(1853)
WEB
場所は特定されているが遺構ゼロ
ペリーの浦賀来航(6月)→品川台場の造営命令(7月)→幕府が佐賀藩に大砲50門(36ポンドカノン砲25門、24ポンドカノン砲25門)を注文→多布施に公儀石火矢鋳立所を置く(上記「築地反射炉」では対応できなかったため)→鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた→安政2(1855)に25門を鋳造〔しかし、嘉永7(1854)2月には、ペリーが江戸湾に9隻の艦隊を集結させ、結果的に3月には日米和親条約が締結され、台場の大砲が使われることはなかった〕
4
A
御修覆場地区の荒籠
おんしゅうふくば
佐賀市
佐野歴史公園/早津江川河口
石水制
寛政5(1794)以前
市・世界遺産登録推進室
現存する石積みの表面は近・現代の補修を受けている
荒籠自体は、「川副下郷早津江村」(寛政5)に記載されているので、佐賀藩三重津海軍所とは直接の関係はない/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない
3
C
徳富地先の荒籠
とくどみ
佐賀市
筑後川・大中島
石水制
長約30m
江戸中期?
筑後川河川事務所
どの程度近世の遺構が含まれるか不明/基部の護岸は恐らく近代の補強
筑後川の荒籠群(小型)
3
C
諸富津地先の荒籠1
もろどみつ
佐賀市
筑後川(右岸)
・諸富橋上流約100m
石水制
長約30m
江戸期?
筑後川河川事務所
どの程度近世の遺構が含まれるか不明
筑後川の荒籠群(小型)
3
C
諸富津地先の荒籠2
もろどみつ
佐賀市
筑後川(右岸)
・諸富橋下流約100m
石水制
長約30m
江戸期?
筑後川河川事務所
どの程度近世の遺構が含まれるか不明
筑後川の荒籠群(小型)
3
C
大詫間地先の荒籠1
おおだくま
佐賀市
筑後川・最下流(右岸)
石水制
長約100m
江戸中期
筑後川河川事務所
保存状態良好
筑後川の荒籠群(中型)
2
B
大詫間地先の荒籠2
おおだくま
佐賀市
筑後川・最下流(右岸)
石水制
長約110m
江戸中期
筑後川河川事務所
保存状態良好
筑後川の荒籠群(中型)
2
B
大詫間地先の荒籠3
おおだくま
佐賀市
筑後川・最下流(右岸)
石水制
長約160m
江戸中期
筑後川河川事務所
保存状態良好
筑後川の荒籠群(大型)/最下流に位置
2
B
里小路の小笹生垣
さとこうじ
伊万里市
<山代郷>
生垣
天正17(1589)以降
新さが百景
現地解説板/WEB
保存状態良好
柳川の鷹尾城主だった田尻鑑種が、天正17に山代に移封された際、計画的に造られた街路→生垣として等しく矢竹を用いた独特の景観→矢竹は矢の材料となるので、戦に備えて家臣の武士達が屋敷の生垣に用いたと言われている
1
A
松浦町桃川の佐嘉領境石
まつうら、ももかわ
伊万里市
(宮地嶽神社)
境界石(尖頭角柱)
高205㎝(うち、台石30㎝),24㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設?/表面が風化して刻字が判読困難
(正面)「從是南 佐嘉領」
3
B
大黒井堰
だいこく
伊万里市
松浦川
取水堰
長50m,高7m
江戸初期
島谷幸宏
全面的にC被覆(2段の形態は残る)/公園化
初代唐津藩主・寺島広高(1563-1633)、設計: 僧侶・田代可休/虹の松原と並ぶ寺島広高の二大事業(松浦川、徳須恵川、厳木川に造られた6基の井堰の中で最大)/右岸側を拡幅する形で保存
3
B
井手平井堰
いでひら
伊万里市
徳須恵川
取水堰
長約20m
江戸初期
島谷幸宏
右岸側の3分の1がC充填
初代唐津藩主・寺島広高(1563-1633)、設計: 僧侶・田代可休/虹の松原と並ぶ寺島広高の二大事業/左側を拡幅する形で保存
2
C
岩坂井堰
いわさか
伊万里市
徳須恵川
取水堰
長約15m
江戸初期?
島谷幸宏
一部にC充填
建設の経緯は不明だが、上記「大黒井堰」「井手平井堰」の流れを汲む石積堰堤/3堰堤の中では保存状態最良で、曲面に近い独特の傾斜堰堤の構造がよく分かる/佐賀藩の原田井手(武雄市)と一見類似して見えるが、①石積方式、②余水の処理方法、③断面形状、④上流縁の遮水板の有無の4点で両者は全くの別物である
1
B
萩の尾堰の分水
はぎのお
伊万里市
松浦川→
東分・上原・下分導水路
分水
慶長11(1611)
島谷幸宏
部分改修
大正5の碑に、「東分区 弐尺五分/上原区 壱尺九寸/下分区 四尺六寸五分」と刻字
2
C
馬ン頭伏越
うまんかしら
伊万里市
松浦川/
上原導・下分導水路
逆サイフォン式水路(2本)
慶長11(1611)
島谷幸宏/
市教委
木管→C管
成富兵庫茂安の土木事業の中でも異色かつ水理学的に最も優れた事績/松浦川底を掘り樋管を通し、サイフォンの原理で対岸の低い土地に水を流した/河底部分の木管には「先細りの桶」を連続させた特殊な構造→普通の木樋ならこれだけの水圧には耐えられない→昭和3にC管に改修されるまで機能していた優れた構造/有名な金沢・辰巳用水の逆サイフォン(標高55.4m→39.0m→50.2m、寛永9-10(1632-34)頃)より20年以上古い
2
大野岳烽火場
・跡
おおのだけ
伊万里市
大野岳山頂
狼煙場
天智3(664)以降
いまりの歴史散歩p257-258
場所が100%確定されている訳ではない/自然石が方形のように配置(散乱)
倭国・百済連合軍が白村江河口で唐・新羅水軍に大敗したのを受け、唐・新羅の攻撃に備えて築かれた連絡施設(福岡の水城と一体の施設)とされる/国内各地の狼煙場と比較し、圧倒的に古い
3
B
八天神社の眼鏡橋
はちてん
嬉野市
八天神社・参道
石アーチ橋
長11.14m,S9.0m
(A),幅3.69m
嘉永7(1854)
県重文
WEB(石橋)
保存状態良好
文政9(1826)に2径間アーチとして計画されたが結局1径間に変更/壁石に見事な石組み/擬宝珠付き高欄
1
B
皿屋谷の眼鏡橋
さらやたに
嬉野市
一般道
石アーチ橋
長5.0m,S4.4m(A),幅2.65m
幕末(1865頃)?
WEB(石橋)/
石橋は生きているp271
側面に鉄管等
壁石は粗い石組み/高欄なし
2
C
塩田町の眼鏡橋
しおた
嬉野市
人道
石アーチ橋
(安山岩)
長5.5m,S2.9m
(A),幅3.5m
元禄13(1700)→明治33(1900)再々建立
市有形
WEB(石橋)
高欄は元禄13のもの/道路脇に残る
全体の形態から、明治期のアーチは、元禄のアーチとさほど変わらないと推測される
4
C
俵坂の佐嘉領境石
たわらざか、さが
嬉野市
(俵坂関所跡)
境界石
高285㎝,27㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
俵坂の峠から移設
(正面)「從是北 佐嘉領」、(裏面)「藤津郡丹生川村」
2
B
塩田町馬場下の鳥の羽重ね
しおた、ばばした、とりのはがさね
嬉野市
塩田川
土堤防(二重堤)、遊水地
長約2.5㎞
宝暦13(1763)
市教委/WEB
かつて塩田川各所にあった「鳥の羽重ね」の、唯一の残存ヶ所
塩田川本流の堤防を7ヶ所で切断し、濁流を川の湾曲内側の二重堤防の中に導き、川の流れを和らげる遊水地/蛇行部の3重となった堤防の様子が鳥の羽を重ねたようになったことによる命名/治水の神様と言われた庄屋・前田伸右衛門の設計
3
B
北浦溜池
きたうら
小城市
祈園川<小城藩>
溜池
長192m,高17.9m
江戸期
市教委
昭和23 嵩上げ
3
C
松土居
・跡
まつ
小城市
土堤防
長約3㎞
寛永年間(1630-44)
芦刈町史p38-44/現地解説版
盛土らしきものが残る
筑後川~六角川の間の干拓堤防→『芦刈町史』では六角川~廻江里川間の五千間土居とは分けて記述/「松土居」→かつて堤防上に松並木があったことからきた呼称
2
B
事比羅神社の石階段
ことひら
鹿島市
事比羅神社・参道
石階段
107段
江戸期?
市教委
保存状態良好
石階段下部が、擁壁状に飛び出ている/港に直結→金毘羅信仰との係り
1
C
住吉神社 壱の橋
すみよし
唐津市
住吉神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長4.6m(G),
幅2.4m
嘉永2(1849)
WEB(石橋)
保存状態良好
神社の参道橋だが橋面石を使わず、弧状に加工した石梁を中央の横梁で直接支持する構造
1
C
浜玉町の
対州領境石1
はまたま
唐津市
境界石
高190㎝,30㎝角
文政元(1818)以降
WEB(筑前国境石散歩)
若干の移設(C台石)?
(正面)「従是東 對州領」/唐津藩領と対馬藩領との境界(文政元から幕府領から対馬藩領となった)
2
B
浜玉町の
対州領境石2
はまたま
唐津市
境界石(尖頭角柱)
高192.5㎝,幅30㎝,厚29.5㎝
文政元(1818)以降
WEB(筑前国境石散歩)
修復時に再設置?/下1/4点で水平に折損→修復
(正面)「従是東 對州領」/唐津藩領と対馬藩領との境界(文政元から幕府領から対馬藩領となった)
2
B
加部島の碇石1
かべ
唐津市
(加部島)
田島神社・社務所前
碇石(凝灰質砂岩)
長320㎝
中世
WEB(みさき道人)
屋外展示/右1/3で折損
出土地:加部島杉の原地先沖(昭和50)/国内で発見された碇石の中で、全体が遺存する例としては最大とされる
2
B
加部島の碇石2
かべ
唐津市
(加部島)
田島神社・本殿横
碇石(凝灰質砂岩)
中世
WEB(みさき道人)
屋外展示
2
C
新溝
しんみぞ
唐津市
用水路
長約1.5㎞
文化2(1805)
市教委/
佐賀県の近代化遺産p156-7
明治以降、各種工事により破壊されたが、C化して残存
大庄屋・松隈杢右衛門による一連の農地開発/山崎の開講地に水を供給するため、厳木川と押川大溜の水を引水
4
C
びわのくび大溜
唐津市
溜池
文化2(1805)
市教委/
佐賀県の近代化遺産p156-7
三菱炭鉱のボタで埋まり、わずかに水面が残る
大庄屋・松隈杢右衛門による一連の農地開発/厳木川左岸の和田・杉野の水不足解消のため築造/
写真
は、一番下に残る小池
4
C
長尾溜池
ながお
唐津市
溜池
堤長85m
文化2(1805)頃
市教委/
佐賀県の近代化遺産p156-7
相知公園
大庄屋・松隈杢右衛門による一連の農地開発
1
C
山崎川の瀬替え
やまざき
唐津市
山崎川
瀬替え
長536m,幅25.5m
文化元(1804)
市教委
左岸側の堤防改修
唐津藩では最大の瀬替え(農地の創出)/屈曲した旧河道が確認できる
2
C
呼子町の鯨供養塔1
よぶこ
唐津市
西念寺・共同墓地
石碑(蒲鉾型)
高101.5㎝(うち、台石22.5㎝),幅30.5㎝,厚22㎝
延享5(1748)
WEB(動物のお墓)
原位置
(裏面)「万霊鯨鯢成佛」/正面に「(梵字)南無阿弥陀佛」と陰刻、同最下部に蓮花の陰刻
1
C
呼子町の鯨供養塔2
よぶこ
唐津市
石上山龍昌院
石碑(笠付き)
高194㎝,
幅45.5㎝
宝暦5(1755)
WEB(動物のお墓)
原位置
(正面)「鯨鯢供羪塔」/本体上に笠付きの六地蔵を載せる/鯨組主の3代目中尾甚六が、子鯨を身ごもっていた鯨を誤って殺してしまったため、その霊を慰め供養するため、鯨1頭分の代価を当てて建立/下記の「呼子町の鯨供養塔3」と並ぶ
1
B
呼子町の鯨供養塔3
よぶこ
唐津市
石上山龍昌院
石碑(墓石型)
高128㎝(うち、塔身84㎝),幅36㎝
天保2(1831)
WEB(動物のお墓)
原位置
(正面)「鯨鯢千本供羪塔」/鯨組7代頭首・甚六の頃、創業以来の鯨の捕獲数が千頭に達したことを機に供養のため建立/上記の「呼子町の鯨供養塔2」と並ぶ
1
C
小川島の鯨供養塔
おがわ
唐津市
(小川島)
観音堂
石碑(舟型)
高70㎝,幅31㎝
文久3(1863)
県有形民俗
WEB(呼子鯨組)
保存状態良好/3段のCブロック上に置かれる
(光背右)「鯨鯢供養塔」/光背中央に地蔵立像を陽刻/小川島を中心とする「西海捕鯨」(江戸期の四大捕鯨の1つ)を代表する捕鯨遺産
1
C
谷口石切丁場
・跡
たにぐち
唐津市
(黒田山山頂)
<大坂城石垣石切丁場?>
石丁場
(青色系花崗岩)
(露頭)幅10m,高5m以上,
(方形石材)重量22.6t 他計4個
江戸初期(1620-29)?
市教委
保存状態良好(民有地内)
花崗岩の露頭から石材を割り出し、加工するまでの一連の過程がよく分かる形で保存/直方体に整形加工された巨石が4個放置された稀な石切丁場/残された露頭も最大規模/谷口丁馬の石で、大坂城の石垣石として直接確認されたものは見つかっていない(目的など未確定の謎の多い石切丁場(発見は平成20)/藩内にこのような巨石の利用はないため、大坂城での何らかの利用が最有力と推定(江戸城、名古屋城の可能性も否定されてはいない)
1
A
谷口石切丁場の石曳き道
・跡
たにぐち
唐津市
(黒田山山腹)
石曳き道(凹状の直線斜路)
長約50m,幅2-3m
江戸初期(1620-29)?
市教委
石切り場と石曳き道が一体として残る例は稀
山頂から川まで修羅で石材を降ろした際の通路
2
B
虹の松原
(二里松原)
にじ
唐津市
海岸防風林
(クロマツ)
長4.78㎞
江戸初期
国特別名勝
市教委/
現地解説板
経年的に捕植/風で変形した樹齢100年以上の古木が相当数混在
初代唐津藩主・寺島広高(1563-1633)/松浦川と並ぶ寺島広高の二大事業/わが国に現存する最大級の海岸防風林/当初から伐採を厳しく禁じてきた
2
番所ノ辻の烽火台
・跡
ばんしょのつじ
唐津市
(馬渡島)
狼煙場(石)
江戸期
WEB
保存状態やや良好
幕末に沿岸防備のための遠見番所が設けられ、黒船を発見すれば烽火をあげて名護屋の大庄屋に知らせ、名護屋からは唐津城まで早馬を走らせていたとされる
2
C
祇園原の西海道肥前路
・跡
ぎおんばる、さいかい
神埼市
<西海道>
切通し
長約300m(切通し部約100m)
古代
木下 良/
古代官道・西街道肥前路p50
切通しの北側境界が識別可能な程度
西海道肥前路は佐賀平野を約16km一直線に通る道路痕跡が空中写真によって認められる/現況は荒地もしくは水田だが、丘陵を東西に横切る切通状の窪地や地割りが存在し、道路痕跡を伺わせる
3
A
若宮神社の参道橋
わかみや
神埼市
若宮神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長4.0m(4G),
幅2.8m
江戸期?
WEB(石橋)
保存状態良好
3列の縦梁を3列の柱で支える構造(縦梁と柱の間に横梁が挿入されている)/擬宝珠付き高覧
1
B
ひのはしら一里塚
神埼市
<長崎街道>
一里塚(1基)
慶長9(1604)以降
市史跡
現地解説板
塚上に「いぼ地蔵」→階段・鉄柵/道路側に崩壊防止のために石垣
長崎街道に唯一現存している塚/「いぼ地蔵」の存在は、『肥前古蹟集』(1665)に記されており、ごく初期段階から一里塚と地蔵が一体化した珍しい存在であったことが分かる
3
B
神埼市・佐賀市境の郡境石
さが、
かんざき
神埼市・佐賀市
神埼市千代田町
・佐賀市巨瀬町
境界石(尖頭角柱)
高170㎝,幅19㎝,厚18㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
原位置?
(正面)「從是、東 神埼郡/西 佐嘉郡」/神埼郡~佐嘉郡
1
C
三千石井堰
さんぜんごく
神埼市
城原川→横路川
石取水堰
長35m
江戸初期
WEB
原形をほぼ保つ
川久保の邑主・神代氏の采配により荒地への導水のため築造/成富兵庫の築造と記した資料もあるが関与の程度は不明/用水の取水口に天狗の鼻と象の鼻を設けたかのように解説しているWEBサイトもあるが、何でも成富兵庫や石井樋と結びつける風潮は感心しない
1
B
城原川下流部の草堰群
じょうばる
神埼市
城原川
取水堰
江戸期?
岩屋隆夫
当初形態を保持しているかどうかも不明
木杭列の間に割石が並べてある
2-4
C
神埼町姉川城跡のクリーク
かんざき、あねがわ
神埼市
姉川上分
クリーク
南北800m,
東西600m
正平15(1360)
国史跡
WEB
史跡指定地
南朝方の菊池武安が築城/中世の農村集落と領主や武士の発生と成立を見ることができる遺跡/佐賀平野に残るクリーク地帯に築かれた城跡の中でも最大級(国史跡は、クリークとしての評価ではなく、中世城跡としての評価)
2
A
横武クリーク公園のクリーク
よこたけ
神埼市
横武
クリーク
江戸期?
WEB
公園化
干満の差の大きい有明海沿岸特集の農村集落の形態
2
B
神埼町上六丁のクリーク
かんざき、かみろくちょう
神埼市
クリーク
江戸期?
現地
生活感が漂う
干満の差の大きい有明海沿岸特集の農村集落の形態
2
B
千代田町姉のクリーク
ちよだ、あね
神埼市
クリーク
江戸期?
現地
集落との一体感が薄い/護岸C改修
干満の差の大きい有明海沿岸特集の農村集落の形態
3
C
千代田町下黒井のクリーク
ちよだ、しもぐろい
神埼市
クリーク
江戸期?
現地
集落との一体感が薄い/護岸C改修
干満の差の大きい有明海沿岸特集の農村集落の形態
3
C
城原川の百間土居
じょうばる、ひゃっけん
神埼市
城原川
石堤防
長約200m
寛永11(1634)以前
現地解説板
石がほとんど見えない
成富兵庫茂安/農地開発のため、城原川の流路を西行させる目的で築かれた石垣積みの堤防
2
B
城原川の野越群
じょうばる、のごし
神埼市
城原川
洗堰(遊水地)
左岸7ヶ所,
右岸2ヶ所
江戸初期
岩屋隆夫
形態が残る
成富兵庫茂安
2
B
妙覚寺の石階段
みょうかく
多久市
妙覚寺・参道
石階段
長約50m
江戸期?
市教委
保存状態良好
1
C
船山の石塀
ふなやま
多久市
西多久町板屋
石塀
江戸期?
市教委
石塀そのものの保存状態は良いが、防風景観としては不明
防風用の石塀/複数箇所残っているが詳細は不明(家屋のためか農耕地のためか→家屋があったものが廃屋化した可能性もあるため)
1
B
越川橋
こしかわ
武雄市
(長崎自動車道川登上り線SA内)
人道<長崎街道/六角川>
石桁橋
長15.5m(5G),
幅3.0m
享保年間(1716-36)以降
市教委/
現地解説板
移設
長崎街道(武雄廻り)に架かっていた橋/3列の縦梁を3列の柱で支える構造(縦梁と柱の間に横梁が挿入されている)→橋面石を美しく見せるための工夫だが、参道橋でない街道橋になぜ必要だったかは不明/石梁の各所に鉄楔が使われている(構造上の必要性については疑問)
2
B
塔の原橋
とうのはる
武雄市
一般道
<長崎街道>/武雄川
石桁橋
長7.0m(4G),
幅3.5m
享保年間(1716-36)以降
市教委/WEB
現役の道路橋(路面舗装)/低いC高欄/護床敷石もよく残る
長崎街道(武雄廻り)に架かっていた橋/橋面石梁を直接横桁で支える一般的な形式(橋脚は各3本柱)
2
C
末広橋
(中修寺橋)
すえひろ
武雄市
老松神社
<長崎街道/大山路川>
石桁橋
長4.8m(2G),
幅2.9m
享保年間(1716-36)以降
市教委/WEB
河川改修によりH8移設・復元/階段は移設時
長崎街道(武雄廻り)に架かっていた橋/橋面石梁を直接横桁で支える一般的な形式
3
-
萩の尾堰
はぎのお
武雄市
松浦川
取水堰
長32m
慶長11(1611)
島谷幸宏
保存状態良好
成富兵庫茂安/茂安が築いた堰の中で現存最古?(現存する取水堰としても最古級)/馬ン頭伏越の取水堰
1
B
原田井手
はらだ
武雄市
鳥海川
取水堰
長23.0m,高3.0m
慶応4〈1868)以前
市教委/
佐賀県の近代化遺産p159
上流側はC補強
下流側は方形(60×80㎝程度)に近い形に加工された石を布積風に積み上げた構造→法面が一定勾配ではなく、膨らんだ曲面となっているのが非常に珍しい/慶応3の洪水被災を受けて、翌4年に修復普請の申し出が出されているので、創建はそれ以前と思われる(修復の度合いは不明)/伊万里市(唐津藩)の岩坂井堰と一見類似して見えるが、①石積方式、②余水の処理方法、③断面形状、④上流縁の遮水板の有無の4点で両者は全くの別物である
1
B
嘉瀬川溜池
かせがわ
武雄市
溜池
堤長約220m
天正年間(1573-91)
島谷幸宏
嵩上げによる改修大
竜造寺信周により構築
4
C
永池溜池
ながいけ
武雄市
蔵堂川
溜池(下池)
堤長約280m
寛永前期(1624-34)
市教委/
佐賀県の近代化遺産p152
明治20、大正2、昭和44と3度にわたり嵩上げ、補強
成富兵庫茂安(1560-1634)により構築/本来は3段の溜池/土堰堤内には「はがね土」を入れて漏水を防いだとされる
3
B
焼米溜池
やきごめ
武雄市
溜池
堤長367m
寛政12〈1800)
市史跡
市教委/
島谷幸宏/
佐賀県の近代化遺産p1
昭和7嵩上げ、昭和48に改修/石樋管が残る
施主: 鍋島藩8代藩主・鍋島治茂、施工:多久邑主多久茂/六千間土居により誕生した干拓地の水不足解消のため築造→支藩に水を送るための施設なので、水利権にからむ多様な協議を必要としたが、関連する膨大な記録が残っていることでも貴重
2
B
焼山の墾田碑
やきやま
武雄市
(永野)
石碑
高180㎝(うち、亀台石40㎝)
天保10(1839)
市重文
市教委
保存状態良好
享和年間(1801-03)に、柄崎の相賀照宗が永野村の南荒原に溜池を造って新田開発を行ったことを顕彰する碑/自然石の上に亀形の台石を据え、その背中に直方体の記念石碑を載せる独特の亀趺形の石造物→非常に珍しい/石碑頂部の張り出し部に龍の浮彫/「杵島郡永野村之南荒原陂陀曰車越享和初柄崎相賀翁照宗請墾/斯地又多買接近土田及鑿井池設廬宅拮据積年費資巨萬以利其/後裔男曰照一能継先志是疆是理無慮二百餘疇概可以水耨矣其/壘高處舊有石碣字己滅傳稱松菴冢照一以為墾田之挙実先人之/所以盡心力也而今如此先人有霊其将依焉乃就冢側別立一石以/寓追孝之意且謂無後之冢亦豈可蔑視之乎以歳十一月十五日并/祀之以為例因附田二疇使其居民与事云蓋其欲使後裔及居民永/仰成功而不廢墜其祀与業也嘱余紀概千石余嘉其貽謀之譱与継/志之美又義其祀無後而不辞焉銘曰 父葘子穫 矧復増拓 原隰畇畇 民爰饒楽 為表斯石 先霊是詫 吊古/冢 并茲用礿 惟孝惟義 無彊福澤」
1
B
大日川
だいにち
武雄市
六角川(左岸)
<三方(みほ)潟の開発>
分水(放水路)
長約270m
寛永2(1625)?
島谷幸宏
保存状態良好
成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の左岸側放水路/先端が先細りになり、越流水を野越経由で大日堰の下流に戻す方式
1
C
大日川の野越
・跡
だいにち、のごし
武雄市
六角川(左岸)
<三方潟の開発>
分水(洗堰)
寛永2(1625)?
島谷幸宏
嵩上げ/両端の石積は後補/六角川への水路は土捨場となり旧状を感じさせない
成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/大日川の洪水時の越流水を大日堰の下流に流す部分/「象の鼻」もあったとされるが埋没
4
C
大日川下流の狭窄部
だいにち
武雄市
六角川(左岸)
<三方潟の開発>
分水(放水路)
寛永2(1625)?
島谷幸宏
護岸C改修
成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/大日川の通常の水路(洪水時には上記の「野越」を経由して大日堰の下流に流す)
4
C
生見川(横堤)
いきみ
武雄市
六角川(右岸)
<三方潟の開発>
分水(放水路)
長約320m
寛永2(1625)?
島谷幸宏
保存状態良好
成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の右岸側放水路/高い横堤の形態から、増水時の遊水地の締切堤を兼ねていたと推測される
1
B
茂手の石井樋
・跡
もで、いしい
武雄市
六角川(右岸)
<三方潟の開発>
石樋門
寛永2(1625)
島谷幸宏/
現地解説板
覆石のみ展示
成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の右岸側放水路である生見川の始点に設置
4
C
生見の石井樋
いきみ、いしい
武雄市
六角川(右岸)
<三方潟の開発>
石樋門
2門
寛永2(1625)?
島谷幸宏
石材が一部離散
成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の右岸側放水路である生見川の末端に設置
2
C
老松神社の参道橋
おいまつ
鳥栖市
老松神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長4.2m(3G),
幅2.2m
天明5(1785)
WEB(石橋)
昭和62修復→高欄更新
2
C
幸津天満神社の参道橋
さいつ
鳥栖市
幸津天満神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長4.2m(2G),
幅2.9m
江戸期?
WEB(石橋)
保存状態良好
擬宝珠付き高欄
1
C
田代昌町の道標
(追分石)
たしろ、しょう
鳥栖市
<長崎街道・田代宿東口>
石道標(自然石)
高約1m
享和2(1802)以前
市重文
WEB
原位置?
(正面)「左、こくら/者加多、へ」(=博多)、(右面)「右 ひこ山道」/尾張の商人・菱屋平七の旅日記『筑紫紀行』(享和2(1802))に記載がある
1
C
田代外町の道標
(追分石)
たしろ、かん
鳥栖市
<長崎街道・田代宿西口>
石道標(自然石)
高約1m
享和2(1805)以前
市重文
WEB
原位置?
(正面)「右 さか/左 くるめ、道」/太田蜀山人の『小春紀行』(文化2(1805))に記載がある
1
C
権現山~三領界山間の国境石群
ごんげん、
さんりょうさかい
鳥栖市・
福岡/
(筑紫)那珂川町
境界石(自然石)
全39基(4市町分)
宝永元-2(1704-5)
WEB(筑前国境石散歩)
保存状態良好/
写真
は、1番の「從是北筑前領」
肥前対馬領との国境→国境争いはなかったので予防的に建立
1
B
五反三歩の堤
ごたんさんぶ
鳥栖市
溜池
元和年間(1615-24)?
みやき町教育委員会
排水用の「尺八」と呼ばれる石樋管は白石神社に移設
成富兵庫茂安/佐賀藩で最初の堤(?)
2
C
吉野ヶ里遺跡内の西海道肥前路
・跡
よしのがり、さいかい
(神崎)吉野ヶ里町
日吉神社・北<西海道>
切通し
長約400m
古代
木下 良/
古代官道・西街道肥前路p50
切通しを明瞭に確認できる
西海道肥前路は佐賀平野を約16km一直線に通る道路痕跡が空中写真によって認められる/現況は荒地もしくは水田だが、丘陵を東西に横切る切通状の窪地や地割りが存在し、道路痕跡を伺わせる
2
A
七曲峠~佐賀橋間の国境石群
ななまがり、
さが
(神崎)吉野ヶ里町・(三養基)みやき町・
福岡/
(筑紫)那珂川町
境界石(自然石)
全39基(4市町分)
元禄13(1700)頃
WEB(筑前国境石散歩)
保存状態良好/
写真
は、隣接する31番と32番〔31番:「従是西南 肥前國」、32番:「從是東北 筑前國」〕
元禄9(1696)頃の国境争いを経て短期間に設置された一群の国境石群
1
A
蛤水道と野越
はまぐり
(神崎)吉野ヶ里町
蛤岳の井手→田手川
用水路
長1.26㎞,幅1.3m
元和年間(1615-24)
選奨土木遺産
WEB(みさき道人)
C改修
成富兵庫茂安/余った水を那珂川に流す野越が数ヶ所に設けられた(福岡の水を佐賀で使わせてもらっているため、余った水は福岡に戻す配慮)⇒洪水対策の「野越」と同じ用語を余水吐にも用いている
3
A
杉谷遺跡の石積井戸
すぎたに
(杵島)大町町
町総合福祉保健センター「みさと」
石井戸
径約1.4m,
深2m以上
15世紀頃(推定)
町教委/
現地解説版
建物の中庭にそのまま保存=ユニークな保存方法
ほぼ円形をした井戸の側壁前面に人頭大の自然石を積み上げて造られた井戸
2
C
六角川の瀬替え
ろっかく
(杵島)江北町・
白石町
六角川
瀬替え
長約800m
江戸中期以降?
島谷幸宏
保存状態良好
佐賀藩では最大の瀬替え(農地の創出)/屈曲した旧河道が確認できる
1
B
福泉禅寺の石階段
ふくせん
(杵島)白石町
福泉禅寺・参道
石階段
4座
天明7-8(1787-88)
町教委
保存状態良好
自然石を粗く積んだ長い石階段
1
A
水堂安福寺の石階段
すいどうあんぷく
(杵島)白石町
安福寺・旧参道
石階段
長約360m
江戸期?
町教委
使われていない→放置に近い
自然石を粗く積んだ長い石階段
2
B
稲佐神社の石階段
いなさ
(杵島)白石町
稲佐神社・参道
石階段
長約160m
江戸期
町教委
平成3改修(C充填)
自然石を粗く積んだ長い石階段
2
C
湯崎の常夜灯
ゆざき
(杵島)白石町
石常夜灯
(道標兼、自然石)
高1.9m
文化6(1809)
町教委
保存状態良好
(竿)「西水道/みち」
1
C
深浦の道標
ふかうら
(杵島)白石町
石道標(自然石)
高1m以下
宝永6(1709)
町教委
移設
(正面)「八天宮」、(同最下部)「西 嘉島道/南 龍王道」
2
C
戸ケ里の延命地蔵道標
とがり
(杵島)白石町
石道標(丸彫)
高210㎝
(うち、台石77㎝)
江戸期
町教委
信仰の対象/簡単な屋根
(台石左面)「南 かしま路/北 さか路」/(台石正面)「當村安全/延命地蔵/五穀成就」/台石の上に、丸彫された蓮台付きの延命地蔵菩薩立像を載せる
1
B
五千間土居
(松土居)・跡
ごせんげん
(杵島)白石町
<佐賀藩>
土堤防
長約9㎞→
(北部)長1.4㎞,
(南部)長1.8㎞
寛永期(1624-34=成富兵庫の没年)
町教委
一部を国道444号線として転用/谷神社内にごく一部を保存
有明海干拓のための潮受け堤防(成富兵庫茂安)/50~100mごとに屈曲をもたせる→荒波を抑える工夫/「松土居」→かつて堤防上に松並木があったことからきた呼称
2
A
六千間土居
(本土居)・跡
ろくせんげん
(杵島)白石町
<佐賀藩>
土堤防
長約12㎞→
(東部)長2.6㎞,
(西部)長7.3㎞
天明4(1784)以降
町教委
過半を国道444号として転用/その他の部分も痕跡ほとんどなし
干拓地の拡大に伴い、五千間土居の外側に造られた潮受け堤防
4
A
梅ノ木谷溜池
うめのきだに
(杵島)白石町
溜池(3基)
(下段)堤長約400m,(中段)堤長約280m,(上段)堤長約100m
(上・中段)享保5(1720)、(下段)明和5(1768)→嘉永4-文久3(1851-63)改築
町教委
昭和24に最上段(4段目)を築造
3段連続した溜池は珍しい/写真は近世築造の1~3段の溜池
2
B
六角川の瀬替え
ろっかく
(杵島)白石町 ・
江北町
六角川
瀬替え
長約800m
江戸中期以降?
島谷幸宏
保存状態良好
佐賀藩では最大の瀬替え(農地の創出)
1
B
南川良原の石井手
(ぴょんぴょん橋)
なんがわら
(西松浦)有田町
有田川
取水堰
長31.3m,高2.8m
慶長年間(1596-1615)?
町教委/
佐賀県の近代化遺産p158
天端C化/排水口は現在使われていない
野面積みと打込みはぎの中間程度の石積→検地史料等からの年代推定だが、石積みからも江戸初期の可能性(現存する取水堰としては最古級)/安政6(1859)の有田絵図に明記/天端幅が5mと広く橋としても使われている→飛び石が天端に並べられていて、越流時も渡れることから「ぴょんぴょん橋」との愛称がある
2
B
城江井樋
じょうえ
(西松浦)有田町
有田川
素掘トンネル
(水路)
長約120m
嘉永3(1850)
WEB
C改修(内部は不明)
3
C
山谷大堤
やまたに
(西松浦)有田町
(
山谷切口)
溜池
長約100m
貞享元(1684)
ため池百選
WEB
保存状態良好
地元の山谷村民だけで築造/岳の棚田の最下部に位置し、良好な景観を創出
1
C
岳の棚田
たけ
(西松浦)有田町
棚田石垣
570枚
安土桃山~江戸期
日本の棚田百選
WEB
保存状態良好
堅固な石垣が特徴
1
B
泉山磁石場
・跡
いずみやま
(西松浦)有田町
白磁ケ丘公園
磁石採掘場
約5ha
元和2(1616)以降
国史跡
WEB
保存状態良好(場所による年代の特定は困難)/立入禁止(崩壊の可能性)
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島藩によって日本に連れて来られた朝鮮の陶工・李参平(通称)により発見された陶石場=400年近く日本の磁器産業を支えた
2
(東松浦)玄海町
(藤津)太良町
上峰町の堤土塁
・跡
かみみね、つつみ
(三養基)上峰町
堤土塁跡歴史公園
土塁
(東側)長110m,高約2m,幅約20m
(西側)長110m,高約5m,幅約40m
7-8世紀(推定)
県史跡
町教委/
現地解説板
公園化
版築工法に似た土木技術が使われる/築造目的は、①灌漑施設、②防衛施設、③道路など諸説あり/東側土塁にある「野越」と呼ばれる切通しは余水吐(?)→
写真は野越部
3
B
長野の西海道
道路遺構
ながの
(三養基)基山町
<西海道(西路)>
道路
長約60m
古代(律令期)
木下 良/
WEB(みさき道人)
畑となっており、判別が困難/現在確認できる場所は、甘木鉄道と小郡市との境界線の交差する南側の60m程度のみ
筑後と肥前の国境沿いに西海道西路が通っていた
4
C
菖蒲坂溜池
しょうぶざか
(三養基)基山町
基山総合公園
溜池
長約50m
寛文4(1664)
町教委
公園として修景整備
2
-
とうれぎ土塁
・跡
(三養基)基山町
土塁
天智3(664)?
WEB/
WEB(みさき道人)
保存状態は良好
大宰府防衛のために築かれた基肄城の関連施設/水城と似ている
2
B
七曲峠~佐賀橋間の国境石群
ななまがり、
さが
(三養基)みやき町・(神崎)吉野ヶ里町・
福岡/
(筑紫)那珂川町
境界石(自然石)
全39基(4市町分)
元禄13(1700)頃
WEB(筑前国境石散歩)/
WEB(みさき道人)
保存状態良好/
写真
は、正面に「從是北 筑後國」と刻字されたもの
元禄9(1696)頃の国境争いを経て短期間に設置された一群の国境石群
1
A
一の瀬井堰
いちのせ
(三養基)みやき町
寒水川→中原水道
取水堰
寛永11(1634)以前
町教委
C改修
成富兵庫茂安/取水堰の直上流に径1-2mの石が散在→用水路に導水するための工夫と言い伝えられている
3
C
お茶屋の堤
おちゃや
(三養基)みやき町
<通瀬川>
溜池
堤長約150m
寛永11(1634)前後
町教委
保存状態良好/締切堤中央にあった石樋管は残存していない
白石鍋島藩の成立(1633)後に茶屋が造られたため、成富兵庫茂安
(1634没)の関与は不明
2
C
お茶屋の堤の「象の鼻」
おちゃや
(三養基)みやき町
<通瀬川>
水制(取水用)
長約50m
寛永11(1634)前後
町教委
先端部(石積み)を除き用水はC化/樹木が繁茂し分かりにくい
用水の取水部は溜池東部にあり、嘉瀬川の石井樋にある「象の鼻」と同じ構造をしている→こちらの方が時代が後のため、何らかの理由で真似たとされている
3
B
千栗土居
ちぐり
(三養基)みやき町
千栗土居公園
<筑後川右岸>
土堤防
長約12㎞→
長約180m,高7.3m,裾幅55m
寛永11(1634)以前
町教委/
現地解説板
公園として、堤防の一部が保存
成富兵庫茂安によって築堤された筑後川の右岸堤/土手内部に漏水防止のため「はばね土(版築状の緩い粘土層)」が用いられている
2
A
中原水道
なかばる
(三養基)みやき町
寒水川
上水路
寛永11(1634)以前
町教委
堰の付近は当時の石組が残る/大部分がC改修
一の瀬井堰から取水し、宿場の飲用と灌漑用に用いた/成富兵庫茂安
3
C