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宮崎県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
勢田峠の切通し
せた
宮崎市
<飫肥街道>
切通し
江戸期?
歴史の道百選
WEB(みさき道人)
当時のまま
清武川~加江田川間の丘陵を横断する山道の頂部
1
C
去川の関
・跡
さるかわ
宮崎市
高岡町内山
関所
永禄年間(1558-70)
県史跡
市教委/WEB
門柱跡とされる礎石1個が残存
薩摩路への入口にあたる関所→厳しい取り調べが行われていたと言われる/永禄年間に伊勢の国から島津氏を頼ってきた二見久信が番所での努めを行い、以来代々二見家が番所を守った
4
B
松井用水
まつい
宮崎市
清武川→八重川
用水路
長11㎞
寛永17(1640)
市教委
昭和58に大規模修復
飫肥藩清武郷の松井五郎兵衛が、天水に頼るため水不足で困っていた農民を救うため私財により開削
3
C
巨田の大池
こた
宮崎市
佐土原町上田島、巨田神社・付近
溜池
長約200m
天正14(1586)以前
ため池百選
WEB
改修
『上井覚兼日記』(1586)に記載されている/島津藩時代からの鴨の猟場として使われてきた
2
C
はぜ馬場の櫨並木
宮崎市
佐土原町下田島
櫨並木
(産業遺産)
長約500m
安政4(1857)
市史跡
WEB
南側のみ残る/まばら
安政の改革の際、第11代佐土原藩主・島津忠寛が財政建て直しのため、藩内各地の道路脇や空き地に櫨(ハゼ)の木を植えさせた→櫨の実からロウソクを製造し、藩の専売品として大坂に送ったとされる/現在は旧藩内で残るのはここだけ→馬を走らせる馬場でもあったので「はぜ馬場」と呼ばれる
2
B
栗下の道路状遺構
くりした
えびの市
<西海道の肥後・日向連絡路>
道路
長約50m,
幅約10m
古代
木下 良
推測できる程度
道路の北側の水田が一段低くなっていて道路と水田部分が幅約10mの帯状窪地になっている→延長部にあたる草刈田遺跡で道路遺構が検出→この部分も古代道路だと推測できる
3
C
靉靆橋
あいたい
えびの市
(杉水流)一般道<人吉街道>・享保水路
石アーチ橋
(道路・水路)
長13m,S3.95m
(A),幅10m
享保14(1729)?
国登録
市教委
/WEB(石橋)
上流側左岸側の壁面全体がCプロック化
人吉街道の橋として架設されたが、3年後に享保水路も通した→街道橋として架設した際、数年後に水路橋として用いることを想定していた可能性がある(橋の幅も当時としては異例に広い)/架設年については異説あり(宮崎では孤立的に早い、鹿児島最古の石アーチより古い)
3
C
榎田関
・跡
えのきだ
えびの市
榎田
関所
江戸期
県史跡
市教委/WEB
石垣や礎石が残る→雑草に覆われて見えない(
写真
の史跡柱の右下の石はその名残りと思われる)
薩摩から肥後の人吉(相良藩)に通じる球磨街道の関所(薩摩藩の9つの関所の1つ)/番所には牧ノ原の郷士が2人ずつ1日交代で勤務し、人々や物資の通行に対して厳重な取締りを行っていた
4
C
原田の石敢當
はらだ
えびの市
えびの市飯野出張所・前
石敢當
高112㎝,幅53㎝
元禄2(1689)
市有形
日本の石敢當p121/WEB
原位置?
大法師盛意により建立/日本で2番目に古い紀年銘をもつ石敢當(現時点での日本最古は、鹿児島県の松山町泰野の石敢當の元和2(1616))
1
A
享保水路太鼓橋
きょうほう
えびの市
(大河平)
享保水路/有島川
石アーチ橋(水路)
長34m(A),
幅9.6m
明治3(1870)
国登録
WEB(石橋)
1850頃に架設され、明治3に大修理が加えられたと書いてある場合も多いが、ここでは明治3の「大修理」が石アーチ化された時期と判断する→対象外
享保用水路
きょうほう
えびの市
川内川
用水路
長6.8㎞,幅2.1m
享保17(1732)
WEB
昭和7-10、54-60に大改修/一部当時のまま
川内川上流から取水し、飯野平野一帯の水田を潤す用水路/言い伝えによると、瑞山寺の僧が水利計画を思い立ち、村民の総意を得て、測量器具のない時代、提灯をあちこちに置いて土地の高低差を測り、苦労をして造られたとされる
3
C
巻かやし井堰
まっかやし
えびの市
二俣川
取水堰
長41m,幅38m
寛政9(1797)
→嘉永4(1851)改修
市有形
市教委
昭和期、下流側に約100mの石垣を増築/両岸縁はかなり埋没→公園と水田に改変
上流側の川底5-6m以上にまで潜らせる「巻かやし」工法により築造/中上江~西上江地区への用水路の取水堰/大きさ0.3-1.0mの安山岩は約1㎞南の山から運ばれたもの/右岸80m、左岸95mの石垣も見事
1
B
漆野原一里塚
うるしのばる
小林市
野尻町紙屋
一里塚(1基)
高2m,径6m
宝永3(1706)
県史跡
市教委/WEB
昭和5の土地開発で街道は消滅し、水田の真ん中に残る(円形の一里塚に配慮して稲を植えてある)
薩摩藩が鹿児島・下町札辻を起点として綾に至る街道に一里塚を設けた時のもの/九州は一里塚がほとんど残っていない地域で、その中で、塚の形が完全に残っている
2
C
池の原一里塚
いけのはら
小林市
野尻町紙屋
一里塚(1基)
高2m,径6m
宝永3(1706)
県史跡
市教委/WEB
畑地に挟まれているため道路側の基部は擬木で堅固に保護されているが、三方は次第に浸食されつつある
薩摩藩が鹿児島・下町札辻を起点として綾に至る街道に一里塚を設けた時のもの
3
C
永仁の碑
えいにん
小林市
(堤)岩瀬川
石碑(自然石)
高95㎝,幅30㎝
永仁元(1293)
市有形
WEB
原位置
頂部に大きな梵字(大日如来)、右下に「橋勧進」、左下に「除蛮災」(元寇の災難を除く)と刻字/岩瀬渡の交通難所が改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵攻が再び起こらないことを祈って建てられたものとされる
1
B
東方大丸太鼓橋
ひがしかたおおまる
小林市
(東方)猿ノ宮溝/浜の瀬川
石アーチ橋(水路)
長27m,S15.3m
(A)
弘化4(1847)
県有形
市教委
/WEB(石橋)
保存状態良好/写真は草刈直後だが、時期によっては草で石が見えない
県下に2橋ある近世の水路用アーチで、猿ノ宮溝の水を浜の瀬川を越えて引水するため、薩摩加治木の豪商・森山新蔵が私財を投じて建設したもの/江戸後期ではあるが、現存する県内最古の石造アーチ橋
1
B
野尻城跡の井戸
のじり
小林市
野尻町東麓
石井戸
中世
市史跡
市教委
枠石は江戸期のもの/上面を鉄筋の井戸枠で覆う
野尻城・新城の第2郭のほぼ中央(居館跡と推定)にある井戸
2
C
紙屋関所跡の井戸
かみや
小林市
野尻町紙屋<肥後街道>
石井戸
17世紀
市史跡
市教委
鉄板で蓋
薩摩藩の9つの関所の1つ紙屋関所に残る唯一の遺構
3
-
妻の領境石
つま
西都市
西都市歴史民俗資料館
境界石(尖頭角柱)
高166㎝,22㎝角
江戸期
市教委
/WEB(筑前国境石散歩)
移設→館内展示
(正面・右面・左面)「従是東西北 佐土原領」/佐土原藩~天領
2
C
杉安井堰
すぎやす
西都市
(杉安)一ツ瀬川
用水路
長約6㎞
享保7(1722)→寛延3(17
50)に第2期工事
WEB
昭和8・52に大改修
穂北郷の庄屋・児玉久右衛門が、水利の便が悪く年貢の10分の1程度しか米ができずに農地を手放す農民が多いことを憂いて計画した用水路/資金調達や土地の売り渋り、妨害工作もあったが、黒木弥能右衛門の全面的な資金援助を得て完成に漕ぎ着けた
3
C
鵜戸山八丁坂の石階段
うどさん
日南市
(宮浦)鵜戸神宮・参道
石階段
上り438段,
下り377段
平安期?(諸説あり)
市建造物
市教委/WEB
保存状態良好
1段に3個石材が使われており、中央だけが側面にノミ跡があり、両側は加工度が低く角も丸いまま→多くの人が真ん中の部分を歩き、砂岩ということもあってやや磨り減っている
1
B
内之田の里塚石(一里)
うちのだ
日南市
歓楽寺<飫肥街道>
一里石(尖頭角柱)
江戸期
市建造物
市教委
移設
(正面)「一里」/飫肥城下から内之田まで1里であることを示す
2
C
山仮屋関所
・跡
やまがりや
日南市
(山仮屋)<飫肥街道>
関所
寛文3(1663)以前
市史跡
市教委
石垣が残る→平成16・17年度で一部石垣を修復
藩政時代、飫肥・清武間の要所であったため設けられた関所/参勤交代の休息所にもなっていた
2
C
堀川運河
ほりかわ
日南市
広渡川河口~油津港
運河
(林業遺産)
長約1.5㎞,
幅22-36m
貞享3(1686)
(財)飫肥城下町保存会/油津2/市教委
良好な景観を構成している堀川橋と石護岸(ともに、国の有形登録文化財)は残念ながら近代の構造物なので、江戸期のものは水面しか残っていない
飫肥藩五代藩主・伊東祐実の命により開削された広渡川・酒谷川河口と油津港を結ぶ運河で、飫肥山中から伐り出された木材(松、楠、植林された杉)を南に突き出た岬を廻り込まずに直接油津港に輸送するためのもの(距離だけの問題ではなく、危険や、木材の流失を伴っていた)/藩士・中村與右衛門と田原権右衛門が堀川奉行に任じられ(人事異動で、中村與右衛門は平部俊英に途中交代)、岩盤区間の開削を伴う難工事を3年で完成させた
2
広渡川石堰堤
ひろと
日南市
広渡川
石導流堤
(林業遺産)
長67m→20m
江戸中期
国登録
市教委
半分以下に短縮
堀川運河に流入する水量を調整する目的で広渡川西岸に築かれた導流堤/江戸期の空積が見事
2
B
松田堤
・跡
まつだ
日南市
南郷町中村乙
土堤防
長640m
慶安3(1650)
市教委
非現役/天端を道路化(アスファルト舗装)
地元の松田理右衛門の建議で、脇元村界・尾崎~潮屋権現の森、潮屋権現~天ノ越の岡麓の間に築いた埋立堤/松田堤の名は松田理右衛門に由来
3
B
山仮屋の水汲場
やまがりや
日南市
(山仮屋)<飫肥街道>
湧水
江戸期?
生活用水として現役利用
山仮屋関所と直接関連はない
2
C
外浦砲台
・跡
とのうら
日南市
南郷町贄波
台場(石塁)
長123m
元治元(1864)
市教委
バスの転回所に石垣が一部残る
文政8(1825)に異国船打払令が出され、沿岸の警固を強化するため大砲4門を設置した
3
C
舞野原赤木峠
まいのはらあかぎ
延岡市
<日向往還>
道路
江戸初期?
宮崎県歴史の道調査報告書p29/WEB
平田~舞野町間は旧道の雰囲気をよく残している
1
C
東海町の常夜灯
とうみまち
延岡市
延岡港
石常夜灯(海運)
(凝灰岩)
高5.6m
江戸後期
市有形
WEB
原位置
航海安全祈願や港の位置を示すために建てられたもの/台石には建設時の関係者(地元の有力問屋や、芸州・備前・摂州など遠方の関係者)が刻字されている→広島、岡山、兵庫など瀬戸内との関連が分かる
1
A
舞野町の地蔵道標
まいの
延岡市
赤木峠・近傍<日向往還>
石道標
高175㎝,幅30㎝,厚45㎝
寛文5(1665)
WEB(みさき道人)
原位置
(正面像上中央)「従是 行縢大鳥居迄 壱里二十八町」/正面下半分を火灯窓型に浅く削り込み地蔵立像(光輪、錫杖)を陽刻/17世紀の道標/判明している限り、九州で最古の道標
1
A
岩熊井堰
いわくま
延岡市
五ヶ瀬川
取水堰
長261.55m,
高1.60m
享保19(1734)
現地解説板
当初の堰は木枠製→C造
延岡藩家老・藤江監物が、出北村農民の嘆願を受けて郡奉行・江尻喜多右衛門に命じて築造させたもの(工事途中で、家老が軍用金流用の疑いで投獄・獄死した)
5
C
和田越の切通し
わだのこし
日向市
東郷町坪谷
切通し
江戸期
市教委
保存状態良好
山陰村(延岡藩)と坪谷村(天領)の村境にある/庚申塔が残る
2
C
亀ノ井堰の逆サイフォン式水路
かめの
日向市
東郷町坪谷~下三ケ
逆サイフォン式水路
嘉永3(1850)
市教委
木管→C管に変更/非現役
道路を通すために造られた逆サイフォン水路(小規模)→川と交差するために逆サイフォンにすることはあっても、道路と交差するための逆サイフォンは稀
3
C
牧島台場
・跡
まきしま
日向市
牧島山・東端付近
台場(石塁)
文久2(1862)
市教委/現地解説板
山中に石塁や土塁が残る
岬の先端(延岡藩の牧場のあった場所を、幕末に台場として整備)/地元では「東九州屈指」と評価されている
3
B
新町台場
・跡
しんまち
日向市
八坂神社・横
台場(土塁)
文久2(1862)
市教委
山中に土塁が残る(ブッシュがひどい)
4
C
国見峠の薩摩街道
くにみ、
さつま
都城市
岩屋野~国見峠~林道合流点<薩摩街道>
道路
長約3㎞
明応年間(1492-1501)、
江戸期に整備
市教委
保存状態良好
明応年間に伊東氏が開通させたとの伝承/近世に入り、関外四郷を統括する高岡郷地頭仮屋への通行を円滑にするために整備/嘉永6(1853)に島津斉彬が領内巡見の際に作成された『御道中記』に、「岩屋野後七曲坂と言う是より去川迄皆山坂難渋に御座候」と記載
1
B
今町一里塚
いままち
都城市
<今町街道>
一里塚(2基)
高2.7m,径7.2m
宝永6(1709)
国史跡
市教委/WEB
西塚の塚木は大きいが昭和8頃の写真では塚木がないので補植
薩摩藩が札の辻を起点として今町街道に造った一里塚/宝暦7(1756)の巡検使通行の際に町木(標柱)の立替・書換えを行ったとの記録がある/塚の東側に桜、
西側に榎が植えてあったと伝えられる
2
B
高城町石山の道標
たかじょう、いしやま
都城市
(片前)
石道標(自然石)
高134㎝
安永4(1775)
~慶応3(1867)
市教委(高城の石塔・石碑・石仏たち)
若干移設
(正面)「従是右 御觀音道 拾弐町/石山寺」/建立年はないが、「石山寺」と呼ばれていた時期は安永4~慶応3
2
C
高崎町縄瀬の石敢當1
(小牧の石敢當)
たかざき、
なわぜ
都城市
(小牧)
石敢當(自然石)
高70㎝,幅60㎝,厚20㎝
宝暦6(1756)
市教委(高崎町史)
移設
(正面)「石敢當」
2
C
山之口町山之口の石敢當
(永野の石敢當)
やまのくち、やまのくち
都城市
(永野)
石敢當(凝灰岩)
高45㎝,幅23㎝,厚15㎝
享和元(1801)
市教委(山之口町史)
移設
(正面)「石敢當」
2
-
高崎町縄瀬の石敢當2
(蔵元の石敢當)
たかざき、
なわぜ
都城市
(蔵元)
石敢當
高55㎝,幅23㎝,厚13㎝
文化6(1809)
市教委(高崎町史)
移設
(正面)「石敢當」
2
-
高崎町大牟田の石敢當
(原村の石敢當)
たかざき、
おおむた
都城市
(原村)
石敢當
高34㎝,幅33㎝
天保3(1832)
市教委(高崎町史)
移設
(正面)「石敢當」
2
-
高城町穂満坊の石敢當
たかじょう、ほまんぼう
都城市
石敢當(自然石、凝灰岩)
高90㎝,幅70㎝
江戸期?
市教委(高城の石塔・石碑・石仏たち)
山崎家のブロック塀中に割れた石片を継いで修復されている
藩政時代の高城地頭館を囲む武家屋敷外入口の要衝の地点で、薩摩街道七日市の突き当たりにある/旧街道にあるので、江戸期の建立と推定される
3
C
観音瀬水路
かんのんぜ
都城市
大淀川
舟通し
長90m,幅1.8m
寛政6(1794)
県史跡
市教委/WEB
明治23に左岸寄りに平行して水路が開削されたため、現在では平行した2本の水路が見られる
大淀川の凝灰岩の河床を開削した長さ約90m、幅約1.8mの水路で、これにより都城竹之下から赤江港までの72㎞の河川が航行可能となった/薩摩藩の直轄工事で、工事責任者は藤崎五百治、施工には肥後の石工が携わった
1
南前用水路
みなみまえ
都城市
庄内川
用水路
長7.2㎞
貞享2(1685)
市教委/WEB
取水口付近の水路は建設時のもので、岩を割って開削された様子がよく残る
都城島津氏の第十八代当主(薩摩藩士)・島津久理の命で、家老・川上久隆が采配し、関之尾の滝の上流300m右岸の岩山を掘り抜く難工事の末に完成させたもの
2
A
大五郎用水路
だいごろう
都城市
丸谷川
用水路
長約8㎞
享保13(1728)
市教委
保存状態良好
1
C
大五郎用水路竣工碑
だいごろう
都城市
大五郎用水路
石碑
享保13(1728)
市教委
移設?/下部で水平に折損→修復
(正面)「御新田見立開」
2
C
定満池と放水路
じょうまん
都城市
観音池公園
溜池、放水路
堤長約70m
天保12(1841)
市教委/WEB
明治24・26、昭和初期・43に改修/放水路は、池干し時にしか視認不可
定満池の放水路の被覆部に江戸期のものと推測される石垣・石畳のある水路が残っている
4
C
定満池の水神碑
じょうまん
都城市
観音池公園
石碑(尖頭角柱)
高142㎝,幅36㎝,厚35㎝
天保12(1841)
市教委
移設
(正面上部)「水神」、(正面その下)「夫定満溜池盤日向國諸縣郡高城石山邑乃公田数/千町を養る水源尓して其廻一里余也と以へ度星霜年久敷/経始詳奈ら寸然るに此水を吐流寸溝川乃年毎尓破滅して民乃歎支/不少民役乃労費止時なく上貢も亦安加ら左る奈り 天保十一亥春/郡奉行町田次郎九郎なる人 宦尓乞ひ奉り許多乃米銭を賜李」
2
C
定満池放水路の石柱
じょうまん
都城市
観音池公園
石柱
高170㎝, 29㎝角
天保12(1841)
市教委
移設(3本あったうちの中央の石柱と推定されている)
(正面)「天保十二辛丑五月四日建」
2
C
山之口の島津寒天工場
・跡
やまのくち
都城市
山之口町山之口(永野)
寒天製造所
天保9~嘉永元(1838-49)の間? 〔調所笑左衛門が家老になってから死去するまでの間に操業開始〕
市教委/WEB
9基の窯跡が残る/屋根を架けて保存
全国的に見ても珍しい産業遺産/薩摩藩家老・調所笑左衛門が行った藩の抜本的な財政改革の際、将来藩の筆頭御用商人となる八代目・浜崎太平次に命じて始めた事業(八代目・浜崎太平次は、家運衰退により、飢えをしのぐため唐芋を拾うような少年期を過したとされる)。原料のテングサを薩摩西海岸から運び、寒天は薩摩の福山港に運び、大坂・長崎そして清やロシア等にも密輸されたと言われる/監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者約80名、地元採用者約50名を合わせた従業員数は120-130名ほどであった
2
A
牛之峠論所
・跡
うしのとうげ、ろんしょ
(北諸県)三股町
境界石(尖頭角柱)
(林業遺産)
高220㎝,25㎝角
延宝3(1674)以降
市教委/WEB
/WEB(筑前国境石散歩)
原位置/中央下部で水平折損→修復/本来、日南市に関係の深い遺構であり、分水嶺上に立っているのだが、現在の行政境界では僅かに三股町側に位置する
(正面・右面・左面)「従是東 飫肥領」/現在、日南市と三股町の境界となっている分水嶺を、「飫肥と薩摩の藩境とするかしないか」という、分水嶺南東斜面の森林資源を巡る争いを象徴する遺構/日向国にも所領のある70万石の大藩と5万石の小藩との争いは、48年にわたる紆余曲折を経て、幕府裁定により飫肥藩側の全面勝訴となった/牛之峠南東斜面の木材を自由に伐採可能となったことが、堀川運河掘削の直接的な要因である
1
B
長田の石敢當
ながた
(北諸県)三股町
梶山小学校・付近
石敢當(自然石、砂岩)
高84㎝,幅31㎝
江戸後期?
みまたの石造文化
鈴木家敷地の西角→県道拡幅→同家内の庭に移設/横倒し/風化大
(正面)「(梵字)〔種子ボロン〕 石敢當(?)」
4
C
竹浜用水路
たけはま
(児湯)川南町
名貫川(右岸)
用水路
約4㎞
享保3(1718)
宮崎県歴史の道調査報告書p40
現役/石積部分が大半
小規模
1
C
上江の領境石1
うわえ
(児湯)高鍋町
舞鶴公園
境界石(尖頭角柱)
高160㎝,
19.5㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面・右面・左面)「從是北東 高鍋領」/高鍋藩~佐土原藩
2
C
上江の領境石2
うわえ
(児湯)高鍋町
舞鶴公園
境界石(尖頭角柱)
高160㎝,幅20㎝,厚19.5㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面・右面・左面)「從是東南 高鍋領」/高鍋藩~延岡藩
2
C
旧藩都農牧駒追込場
・跡
つのまき、こまおいこみ
(児湯)都農町
(川北)
野馬捕込
径10m,深2m
慶長年間(1597-1615)
県史跡
宮崎県/WEB
昭和11の史跡指定の文書に「旧態ヲ正確ニ存シ」と記載されている/日南のリニア実験線のすぐ脇
高鍋藩が日向灘に面した原野に開いた都農牧の追込場/都農の飼馬の起源は、『延喜式』兵部省に見える官牧「都濃野馬牧」とされているが、現存するものは慶長年間に高鍋藩主により再興され軍馬を飼育していた際の遺構/野馬捕込としてはかなり小規模/大小2つある円環のうち、小さい方は幼馬選別場と推測されている
2
B
戸の口橋
とのくち
(西臼杵)五ヶ瀬町
一般道/谷川→三カ所川
石アーチ橋
長8.5m,S5.5m
(A)
明治以前
WEB(石橋)
下流側をCカルバートで拡幅
4
C
比波里川の眼鏡橋
ひばり
(西臼杵)高千穂町
一般道/比波里川
石アーチ橋
S2.3m(A)
天保9(1838)
WEB(石橋)
高欄ガードレール化
カルバート的な橋/県下では最古級
3
C
久兵衛橋
(関橋)
きゅうべえ
(西臼杵)高千穂町
一般道/上野川
石アーチ橋
長20.0m,S10.9m
(A)
文久3(1863)
WEB(石橋)
高欄ガードレール化
アーチの上幅より基礎が2.6m広い+見せかけの二重拱環→肥後の石工の技?
2
B
左目木橋
(轟橋)
さめき
(西臼杵)高千穂町
一般道/永の内川
石アーチ橋
長5.0m,S3.6m
(A)
江戸期
WEB(石橋)
RC床版で拡幅/高欄ガードレール化
3
C
高橋
たか
(西臼杵)高千穂町
廃道/下野川
石アーチ橋
長18.5m,S8.0m
(A)
江戸期
WEB(石橋)
輪石が若干剥落している他は健全
カルバート的な橋
1
C
甲斐有雄の道標群
かい・ありお
(西臼杵)高千穂町・
熊本/
(阿蘇)
高森町
甲斐有雄道標公園
石道標(12基)
文久元(1861)
~明治42(1909)
高千穂町教育委員会/WEB(みさき道人)
高森町の津留~長野旧道中間の森林内の道標を甲斐有雄道標公園に移設/時代の特定ができないため、「保存評価」を低くしてある
熊本県を中心に、ほぼ半世紀の間に約1900基にもおよぶ道標を立てた石工の生誕地/このうち江戸期は1861-67年しかないので、甲斐有雄の立てた初期の道標は高森町内に限定されると推定できるが、時代の特定はされていない
4
B
綱の瀬橋
(小崎橋)
つなのせ
(西臼杵)日之影町
人道/日向川
石アーチ橋
長16.7m,S9.5m
(A)
安政3(1856)
岡崎文雄/WEB(石橋)
C床版、鉄柵高欄/新橋と並ぶ
当初名称: 小崎組六十問石橋(問は間の間違いではなく、小崎集落の戸数を表している)
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C
鶴の平橋
つるのだいら
(西臼杵)日之影町
人道/秋元川
石アーチ橋
長13.5m,S7.4m
(A)
江戸末期
市教委
/WEB(石橋)
木製高欄
1
C
深角の石橋供養塔
ふかすみ
(西臼杵)日之影町
<尾谷橋>
石碑
(自然石、凝灰岩)
高238㎝(うち、台石30㎝)
天保11(1840)
岡崎文雄
原位置
(台石右面左端)「奉供羪石橋」/正面には「天下泰平萬民安全」と陰刻/台石には、願主・石工・寄進者等も刻字されている
1
B
小崎組六十問石橋架設碑
こざき
(西臼杵)日之影町
綱の瀬橋
石碑
(自然石、凝灰岩)
高65㎝
安政3(1856)
岡崎文雄
原位置
(正面)「小崎組六十問石橋拭物也/此作
料
銀三十兩出來仕候」(
緑字
は異体字)/左側に寄付金者の名前を書いた石碑が建つ
1
C
宮水御役所跡の井戸
みやみず
(西臼杵)日之影町
<宮水御役所>
石井戸
1.06m×1.10m
天保14(1843)
現地解説板
平成8に土砂を取り除き屋根を付けて復元
井戸枠に「天保十四年出来」と刻字/宮水御役所は寛政11(1799)に舟の尾から移転された役所(高千穂統治の中心地)
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C
広原の石敢當
ひろわら
(西諸県)高原町
王子神社・石階段右
(井手上)
石敢當(駒型)
高50㎝,幅25㎝,厚6㎝
天明5(1785)
日本の石敢當p127
移設/上1/3の辺りで斜めに折損→修復
(正面)「石敢當」
2
-
長谷古橋
ながたに
(東臼杵)美郷町
廃道/耳川支流
石アーチ橋
長8.0m,S4.6m
(A)
江戸後期
WEB(石橋)
放置
2
C